③
──そこに在る少女の形には、右の肩から先の部位が、欠落していたのだ。
命の危機に反応するように、身体が後ろ向きに跳ねた。近づいていた距離を、僅かでも離す為に。
しかしそうして跳ねるだけで精一杯だったようで、身体はすぐさま次の反応を取ることが出来ない。本当は、この場を走って逃げなくてはいけないのに、咄嗟の動きだけで全ての力を使ってしまったらしく、あとはただ無様に震えるだけになってしまう。
今度は末端だけではなく、全身で震えるだけに。
僕が後ろに跳ねて距離を稼いでも、少女は動かなかった。ただ、じっと僕を見つめ続けていて、じっと立ち尽くしていて・・・、何も入っていないシャツの右腕部分が、微かな夜風に揺らされている。話に聞く、幽霊より幽霊らしく、ひらひらと、ひらひらと。
右腕のない少女、少女の右腕。
本体はどうしているんだと、内心だけではあるけれど何度も突っ込みを入れていた。でも、その突っ込みが自分自身に対する形式的なものであったと、今になって初めて気がつく。
何度も本体の存在を問い質していたくせに、僕は本当は、本体はもう存在しないのだと心のどこかで信じ切っていたのだ。
たぶん、うちの店に並べられた商品、部位と同じだと思っていた。貸し出しではなく、売り出している部位と同じだと。持ち主は、もういない。少なくとも、持ち主だと主張する者はいないのだと。
だからあんなに自由に闊歩しているのだと、そうどこかで信じ切っていた。自覚なく、確信していたのに・・・、少女が、いる。腕のない、少女が。腕を、返せと訴える少女が。
本体が、立っている。
僕は、何も悪くありません。
確かにあの男の腕、パパさんの腕がついてきたのを振り払えずに、ハルの家まで連れ行ってしまったのは僕です。
でも、今問題になっているのがパパさんの方じゃないんなら、僕は無関係です。
問題があるのは、ハルの方です。
僕じゃありません、僕じゃないんです。
・・・等々の言葉は、やっぱり口から出ない。どうしても、出ない。喉でまた引っ掛かっている。引っ掛かりまくっている。さっきから何度も、何度も色々引っ掛かっていて、どれ一つとして出てこない。
一体、僕の喉にはどれだけのブツが引っ掛かっているのか? どれか一つでも、出てきて日の目を見る日がくるのか? 出てこなかったとしたら、僕の喉は一体どうなってしまうのか? いつか、息すら出来なくなるのか? 息も出来なくなったら、もう死ぬしかないんじゃないか? 死ぬしかないのだとしたら、死因は何だ? 事故か? 他殺か? それとも自殺か?
いや、自殺だけはない。僕は死にません。自分からは、意地でも死にません。
自分で自分に立てた誓いを、その立てた瞬間から破りそうになっていた。つまり、今すぐにでも死にそうな状態だったのだ。
色んな感情が渦巻いて・・・、いや正確に言えばただ単に、『ヤバイ』『拙い』という、具体性のない単語がひたすら渦巻いて、誇張なく、胃酸が逆流し始めていただけなのだが。吐きそう、というより、もう吐く、という状態。
目からは、涙が滲み始めていた。鼻水も、出そうになっている。嗚咽があと少しで出そうになっていて、僕は悪くないと何度も胸の内で呟いているのに、犯罪者よろしく、何もかもをゲロしてしまいそうだった。一体、何をゲロしようとしてるのかは、自分でも定かではないのだが。
ただ、何もかもが定かでない中、少女の形をした本体は・・・、もしくは、本体の形をした少女は、何度も引き結んでいる所為で赤くなっている唇をゆっくりと開き、再びあの声を、あの台詞を、僕に向かって投げつけようとしていて。
僕は、まだ聞いていないその声を再び聞く瞬間を予感し、怖れ戦いて。
心臓よ、止まれ! でも、この子がいなくなったらまた動いて下さい・・・、なんて、無茶難題を信じてもいない神様に投げつけたのとほぼ同時に、それは聞こえてきた。
あまりにタイミングが良すぎて、もしや神様が実在するのではないかと一瞬、思ってしまうほどだったが・・・、勿論、そんなわけはなく。
「嘘、言うなよ」
きっぱりとした、断言。
いつの間にか澱んでいた辺り一帯の雰囲気を一刀するかのようなそれは、もうこれ以上ないほど力強く、決然としていた。
あらゆるモノを斬って捨てる、侍を彷彿とさせる潔い強さ。その、鋭い刀の煌めく刃を思わせる鋭さ。闇を切り裂く、光りのような迷いのなさ。
惑わされているか弱き者の目を覚まさせ、正しい道へ導かんとするような、その、声。
・・・実際には、全ての迷いの元凶であり、全ての澱みの発生源であり、混沌の中を自在に游ぐ、混沌の申し子であり、どんな侍が、どんな刀を持ってしても斬ることが叶わない、悪というより、妖怪的素養のあるブツの声だった。
僕をこんな、悪夢の登場人物にさせた元凶でもある相手なのに、それでも聞こえてきた声に僕の中の混乱が一気に晴れ、失いかけていた我を取り戻し、あまつさえ、ほっとしてしまったのだから、世の中、釈然としないことがいかに多いかよく分かるというものだ。
ましてや、僕を忘れ果て、たった一人で置き去りにした相手だというのに・・・、帰ってきてくれた、と思ってしまうのだから、人間って本当に分からない。
でも、自分の心理状態やその動きが理解不能でも、僕を置き去りにしたはずのハルが、いつの間にやら僕の斜め後ろに立っている事実は、間違いの無い現実だった。
「は、る・・・、」
「俺が来たから、もう大丈夫だぞ、リュウ!」
「・・・そ、そう、か」
いや、オマエが腕ばかりに気を取られて僕を綺麗さっぱり忘れ果てて置いて行ったから、僕は独りぼっちでこんな危機的状況に瀕しているってのに、なんで格好良いヒーロー的な台詞で登場しているの? ・・・とは、思った。
思ったが、そんな抗議的な台詞を口にするだけの力は、今の僕にはなかった。だって、本当にもう駄目だと思っていたのだ。心細くて、もう駄目だと。だから、たとえ登場した奴が僕をそんな状況に追い込んだ相手だとしても、抗議を口にしてまた独りぼっちになるのは嫌だった。
また、ハルが僕だけを残して腕達と去ってしまうのは、嫌で。
・・・って、腕は?
一体どういう作用なのか、本当にもう駄目だという瞬間に戻ってきたハルの傍には、何故か腕が一本もいなかった。ハルだけがそこに居て、僕を見て一度、力強く頷くと、真っ直ぐに前を見据えて足を踏み出す。一歩、二歩、三歩・・・、と。
その足取りはやたらと頼もしく、やがて僕を追い越して僕の斜め前で立ち止まった時には、見える後ろ姿も足取りと同じくらい頼もしく、マジにヒーローで、僕のハルに対する認識の方がおかしいのだろうかと疑いを抱かせるほどの雰囲気を放っていた。
横幅は同じくらいだが、ハルの身長は僕より多少、低い。まぁ、ハルは平均で、僕が他の同級生より高めだというだけなのだが。そのおかげで平均程度の横幅もあるのに、やたらとひょろっとしたイメージになってしまい、何となく頼りない感じになってしまっているだけなのだが・・・、それはそれとして。
その、僕より少しだけ小さいくせに完全に僕を庇うヒーローと化したハルは、もう庇っている僕には視線も向けず、向かいに立つ少女へ一心にその視線と意識を向けている。
一歩、僕より前に出ているので、斜め後ろから覗く横顔の欠片からしか、表情は窺えない。でも、一歩前に出ている程度なら、充分に見ることは出来る。
ハルは、滅多に見ないほど、厳しい顔をしていた。眉間に皺を刻み、憎々しげな目つきで前方を見据え、唇を噛み締めている。
憎しみと怒りに満ちた表情で、目の前の少女を睨みつけているのだ。憎むべき敵を見つけた、と言わんばかりのその様は、簡単には声をかけられない空気を作り出している。一応、僕もこの場の登場人物に当たるはずなのだが。
「ハル・・・?」
作り出された空気をどうにか破って発した声は、我ながらとても小さかった。通常なら、聞こえなくても仕方がない程度の声。
でも、喧噪が作られる予定もない、過疎的な地域の夜に出せばすぐ傍に立つ人間には絶対に聞こえる程度の声ではあったのに、ハルは一切、答えなかった。視線も、向けてこない。無視をしているのか、耳にすら入っていないのか分からないが、とにかく、前しか見ていなかった。
その姿に、静かに、ゆっくりと違和感が胸の奥底から浮かんでくる。僕を置き去りにしたことを思い出して、戻ってきて、そこで僕が見つかってはいけない相手に見つかっているのを発見し、自分が悪いわけであってコイツは悪くないんです、と白状しつつ庇い立て・・・、というか、僕は悪くないわけなので庇うも糞もないのだが、とにかくそういう感じなのかと思っていたのだが、雰囲気的に、ちょっと違う気がしたのだ。
そもそも、僕より大事なのだろう腕がいない点も気になる。それに・・・、そうだ、おかしい、絶対に、変だった。変、だったのだ。ハルは、登場した瞬間、あの、ヒーローのような登場シーンで、何と言った?
『嘘、言うなよ』──、そうだ、そう、言っていたんだ。
嘘? そう、嘘だと断言した。あの少女に向かって、腕のない少女に向かって、腕を返せと言っている少女に、あの腕の、少女の腕の、真白とハルが名付けた腕の持ち主の少女に向かって、嘘を言うなと。
物凄い憎々しげな目をして、その嘘は絶対に許さんと、目つきだけ見れば悪を成敗する正義の味方みたいな顔で、少女を嘘つき呼ばわりして、その嘘を非難しているのだ。
非難、されるのは僕・・・、じゃないつもりだけど、でもあの少女からしてみたら僕達二人のはずなのに、もしくは目撃した僕のはずなのに、ハルは逆に、少女を非難している。一体、何故?
何を非難しているのかも分からないまま、雰囲気に飲まれてひたすらに黙り込む。すると僕が息を飲んでいようが息を詰まらせていようが全く関係ないらしく、むしろ僕の存在ごとどうでもよくなっているのではないかと思われるハルと、そんなハルの様子に敵は僕ではなくハルだと察したのか、僕から意識を外してハルに真っ直ぐ視線を向けた少女は、無言のまま睨み合う。
僕は完全に、傍観者となっている。もしくは、忘却者か? ・・・戦いから抜け出せた安堵はあるけれど、微妙に虚しいのは、戦力外通知を受けたスポーツ選手の心境だろうか? スポーツ、一つも好きじゃないけど。
ハルは、そんな緊迫した空気を切り裂くように、一歩、また足を踏み出す。少女は、その踏み出された足を見て、唇が引き千切れそうなほど、噛み締める。左手が、破れそうなほどスカートを握り締めていた。手の筋が、白くなって浮き上がっている。
あの浮き上がっているものが示しているのは、怒りか、それとも別の何かか?
「オマエ、誰だよ。ってか、誰でもいいけど、勝手な嘘ほざいて、リュウを困らせんなよ」
「・・・嘘って、なによ」
「嘘は嘘だろ。平気で嘘ついておいて、誤魔化すなよ。まぁ、そういう厚かましい根性しているから、平気で嘘もつけるんだろうけどなっ」
突然の、糾弾開始だった。しかも、僕には未だにいまいち良く分からない内容での、糾弾。
説明もなく突然始まったそれに、少女は噛み締めていた唇を解き、震えるその唇で先ほどより低い、恨みが滲んだ暗い声を返す。呪詛でも吐きそうな声。何を考えるまでもなく、僕の足は震えた。そのくらいの迫力がある声なのに、ハルは全く動揺しない。それどころか、いっそう声を強めて、少女を非難する。
少女がついているという嘘だけではなく、その根性までも非難する。
・・・が、僕が始まった攻防に対して真っ先に反応してしまったのは、その全く分からない嘘の内容ではなく、少女の様子でもなかった。その少女が吐き出した怖ろしい声に足が反応するより更に先に反応したのは、ハルの吐き出した台詞の一部だった。
よもや、出ないだろうと思っていた、その内容。聞こえた、それ。
『リュウを困らせんなよ』・・・、まさか、すっかり忘却しているかに見えたハルが、僕の存在を忘れていなかったことに、かなり物凄い衝撃を受けてしまったのだ。感動という、衝撃を。
僕、ちゃんとハルと親友だったんだなぁ! ・・・みたいな。
涙が、滲みそうになった。というか、滲んでいた。これが所謂、ツンデレか、と思った。やられた、とも思った。冷たくされた後にこうして優しくされると、こんなにも色々と身に沁みるのだと、物凄く良く分かった。テレビのニュースでよく見る、家庭内暴力の被害者達がその相手から逃げられない理由も良く分かった。
こうして、人は痛みに喜びを感じるようになってしまうのだと、何かの悟りを開いてしまいそうになった。
でも、開きそうになっている扉をその直前で辛うじて閉めている僕を余所に、僕を感動させたハルは戦いを続けるべく、再び口を開く。なんというか、感動している所為か、強い視線や横顔、それに背中がさっき以上に格好良く見えてしまう。
完全に、ときめく一歩手前だ。むしろ一歩踏み出してしまっているか、もしくは一歩過ぎ去ってしまっているような気もする。
色んな意味で危なくなりかけている僕の視線の先で、ハルは少女への攻撃を再開する。過ぎ去ってしまったかもしれない場所から、更に先へと誘うかのように・・・、僕の目には何故か、格好良く見えてしまう表情で。
「オマエの腕なんか、俺達は知らない」
「うっ、嘘、言わないでよ! 私、そっちの子と男の腕が一緒だったところ、見たのよ! あの腕が一緒なら、私の腕だって一緒のはずだわっ!」
「嘘、言っているのはオマエの方だろ。分からないとでも思っているのかよ」
「何がよ!」
「同じくらいの年で、同じ性別で、同じ右手だからって、バレないとでも思っているのかよ」
「・・・な、にがよ」
ここまで聞けば、嘘の内容は分かるようなものだった。でも、分からないのは・・・、ハルの、この格好が良いまでの断言の理由なのだ。同じ年、同じ性別、同じ右手、ここまで共通点があれば、この腕のない少女の腕が、真白だという結論以外にはないだろう。それなのに、どうして・・・、だって、腕のない少女や野放しの腕が、そこら中に点在しているわけがないのに。
まるで、組み合わせが一つもない、神経衰弱みたいな現実なんて、有り得ないのに。
客観的に考えれば、言いがかりだとしか思えない。思えないのに、そうではないと確信してしまうのは、ハルが放つ言葉に対する少女の反応の所為だった。
少女が怒鳴り返す声は、どう聞いても強がっているようにしか聞こえなかったし、その強がりを撥ね除けるように重ねるハルの、追求を強めた声に急激に力を失って震える少女の姿は、もう決定的なほど、僕の確信を強めていった。
少女の、嘘。ハルが、非難している、嘘。僕が、つかれていた、嘘。
「あの子は、オマエの腕なんかじゃねーよ」