②
「・・・ねぇ、ちょっと待って」
「・・・え?」
一拍、間が空いた。
あまりに唐突に掛けられた声に、意識が突然、引き戻されてしまい、何がなんだか分からずに空いてしまった空白の後に、間の抜けた声を漏らすだけになってしまったのだ。低下してしまえばいいのではないかと思っていた通りに、おそらく二秒ほど、僕の色んな機能が止まるほどの唐突さ。
当然、足は止まっていた。しかしその足の停止を補うように、半ば反射的に顔は左右に振られる。視線を、巡らせる為に。
何度も歩いた、近所の見慣れた道。車も通らないのにやたらと道幅が広く取られていて、左右には一軒家の戸口や三階建て程度のマンションの入り口、マンションとは呼べなさそうな古いアパートの入り口や、シャッターが開いたことのない店舗らしき場所、完全なる空き地、それに塀ばかり続いてその向こう側がどうなっているのか分からない場所などが続いている。
見慣れている連なり。でも、時間が違うだけでこれだけ印象が違うのかというくらい、今は全てが見慣れない感じがした。全てが影を背負い、昼の形を保てず、不安定に姿を変えようとしているかのような、印象。
ついさっきまでは、そんな風には感じなかった。状況が状況であるだけに、人気があるかどうか以外に、何も気にかけることが出来ないでいたのだ。でも、一旦気がついてしまうと、今ある景色の全てが酷く不安に感じられて、何もかもがとても心細く。
・・・聞こえてきた、唐突過ぎる聞き慣れない声に、どれだけ変態度数が高くても、聞き慣れた声の主の存在を確かめたくなってしまったのは、ごく普通の反応だったと思う。
・・・まさか、その普通の行動が空振りに終わるなんて、ひと欠片の可能性も浮かんでいなかったけれど。
道の先、ほんの数歩だけ先にいたはずの親友は、その影すらも残さずに消え失せていた。勿論、二本の腕と共に。
頭の中に生まれていた空白が、いっそう広がる気配を感じた。同時に、胸の中にも物凄い穴が広がる気配も感じたが、その空白には目を瞑った。見てしまえば、間違いなく泣いてしまう確信があったからだ。
代わりに、空白が生まれて動きの止まっている脳を、必死に、罵倒するようにして動かす。一体今、何が起きているのかを把握する為に。
まぁ・・・、そこまで必死に動かすまでもなく、単純に、斜め後ろの僕の存在を一切気にしていなかったハルが、動きが鈍くなっている僕を置いて歩き去ってしまった、というだけなのだろうが。
たぶん、徐々に差が開いて、どこかで気まぐれに角を曲がってしまい、僕が気付かずに歩き続けてしまった、ということなのだろう。
真っ直ぐに歩いていてただ差が開いただけならば、目を凝らせばその先に後ろ姿の欠片くらいは見つかりそうなものだが、そういったものが一切見えないのだから、この道の先からハルが消失してしまったことは明らかだった。
つまり、僕を置いて、僕を忘れて、どこかに行ってしまった。あの腕達だけを共にして。
状況を把握した途端に、全身の力が抜けてしまった。必死で動かしていた脳も力尽きたようにまたその動きを止めてしまい、もうその場に座り込んで、何もかもを放り投げてしまいたくなる。
だって、いないのだ。自己保身の気持ちがなかったわけではないけれど、それでもその身を案じてやっていた親友が、いなくなってしまったのだ。僕を、忘れて。
こんな状況に陥ったら、今の僕みたいな心境になっても仕方がないと思う。思うのだが、しかし・・・、もしかしたらどこかにいるかもしれない神様は、全然そうは思わなかったらしい。
僕はこんな目に遭っても尚、全てを投げ出すことを許されてはいなかったのだ。それどころか、その場に座り込むことすら、許されず。
「ねぇ・・・、ちょっと!」
「・・・あっ」
再び掛けられた、先と同じ声。一体、最初に声を掛けられてからどのくらいの時間が経っていたのか。時間の感覚を消失していた僕には全く分からないのだが、数秒程度の間ではなかったのかもしれない。何故なら再び聞こえてきた声には、多少の苛立ちのようなものが感じられたから。
自分が置いて行かれたことに衝撃を受けるあまり、声の主の存在をすっかり忘れていた僕は、その事実を挽回しようとでもするかのように、慌てて再び首を左右に振り回す。本当は、声をかけられた時点で探すべき存在。
しかし途中でいるはずの存在が消えていることに気付き、探すという行為を放棄していた声の主を探す為に。
声の主は、衝撃的な現実に阻まれさえしなければ、すぐに見つけることが出来た。僕の、右斜め後ろ辺りに静かに佇んでいたのだ。並んでいる、その先に何があるのか分からないブロック塀、その傍に佇む電柱に半身を隠すようにして佇み、聞こえた声の通りに少々気分を害しているのが分かる、額に小さな皺を刻んだ顔で、真っ直ぐに僕を見つめていた。
「僕・・・、ですか?」
「他に誰もいないでしょ」
全く、見覚えのない少女だった。クラスメイトでもないし、近所に住んでいる子でもない、間違いなく初対面だと分かる、少女。
おそらく僕より少しだけ年上なんじゃないかと思えるその子は、周りで見かける同年代の子達より、心なしかお洒落であか抜けている感じがして、その雰囲気だけで、異性となんてクラスメイトとすらあまり話せない僕からしてみると、目を合わせるのすらかなり頑張らないと難しい相手だった。
シンプルな白いシャツに、膝上何センチなのかと思うほど短い、茶色のプリッツスカート。靴下は紺色で、しかもその靴下も短いものだから、足がやたらとよく見える。細くて、すべすべしていそうな白い足。
たぶん、この足が自慢で、だからここまで足がはっきり見える服装をしているのだろうなと思いながらも、すぐに視線をそこから外した。理由は勿論・・・、恥ずかしいからだ。
そして外した視線で一度は見たはずの顔を見れば、相変わらず眉間に微かな皺を刻んだその顔は、やっぱりクラスメイト達より多少大人っぽく見えた。
唇の光り方や、目の印象から、おそらく化粧をしているのだろうなと、あまりそういう事に聡くない僕でも分かる程度には、きっちり手が入っている顔をしていて・・・、何となく、足を見ていた時と動揺に、目を逸らしたくなってしまう。
べつに、可愛くないわけではないが、明らかに素材以上の可愛らしさを演出しているのだろうと分かるその化粧が、似合っているのかどうかは僕には分からない。
ただ、こちらに意図的な印象を押しつけようとしてくるその感じが、何となく、勘に障るような気もする。たぶん、何を当たり前のことを聞いているのだと言いたげな声に多少の反発を覚えている所為で、その気持ちを抱いているという部分もあるのだろう。
だって、たとえ僕がどれだけ分かりきった質問をしているのだとしても、誰だか知らない人間に突然呼びかけられた末に不機嫌そうな声を出される覚えはないのだから。
「・・・あの、何ですか?」
自分で自分に言い聞かすかのように胸の内だけで断言した気持ちを頼りに、見知らぬ少女に発した声は多少の力を滲ませることに成功した。少しだけぶっきらぼうな口調も相俟って、僕が今、相手の態度に機嫌を損ねているのだという意思表示は出来たと思う。
自分で言うのもなんだが、小心者で人見知りの僕にとってみれば、かなりの偉業を成しただろう。
しかし非情に残念なことに、僕が成し遂げた偉業がどれだけのものなのかは、僕という人間をよく知らない人には理解を求められないものだったらしい。
「一緒だったでしょ?」
「・・・え? いや、なにが?」
僕が精一杯示した不機嫌を全く理解しなかった少女は、半身が隠れた状態のまま、主語が全く無い問いを投げつけてきた。
問いかけておいて、答えを知る意思がないのではないかと疑いたくなるくらいの問いに、しかもまさに投げつけるという感じのどこか攻撃的な空気を滲ませたそれに、他者からの攻撃にとても弱い僕は、あっさりと纏っていた不機嫌を取り落としてしまう。
しかし落とした不機嫌を拾うことも出来ないまま問い返した僕の台詞に、少女は理不尽なくらい攻撃的な目をして唇を引き結ぶと、まるでこの世の全ての不愉快はオマエが原因だと言わんばかりの憎々しげな表情を浮かべて・・・、僕から一切の余裕を奪い去る台詞を吐き出し始めたのだ。
「二時だか三時だかぐらいに、男の腕と一緒にいたでしょう?」
・・・一体、何度目なのだろう? 今日一日で、頭が真っ白になったのは。
疑問符をつけながらも、完全に断言してくるその口調と眼差しに、誤魔化しが効かないのは確実だった。
一応、周りを気にしていたつもりだったけれど、休日の午後、どこに誰がいてもおかしくない時間帯にあんな目立つモノについて来られながら往来を闊歩していれば、目撃情報の一つ二つ、あっても当然だとは思う。
思うが、しかしまさか本当に目撃され、こうして追求する人間が現れるとは思っていなかった。
可能性を思い浮かべても尚、その可能性に現実感を持つことが出来なかった、と言うべきか。
物的証拠を掴まれなければ、どうにかなるんだろうか?
咄嗟に浮かんだ可能性は、それだった。今、腕はいない。全ての元凶たるハルと共に、消え去っている。それなら知らぬ存ぜぬで無理矢理通し、この場を逃げ去ってしまえないだろうかという可能性が、頭を激しく駆け巡った。
勿論、確実に僕が腕と共に往来を歩いていた姿を見たのだろう少女に、知らぬ存ぜぬは通らない。通らないけれど、証拠がないのならどうにか出来ないかと、そう思って。
それとも素直に罪を認めた方が、刑は軽く済むのだろうかという考えも浮かび、浮かんだその考えにのし掛かるようにして、本当は僕には何の非もなく、僕の親友が全ての元凶なんですと説明すれば、罪が軽くなるどころか無罪になるんじゃないかという考えも浮かんでしまい・・・。
僕の中で、打算と保身、動揺と虚しさ、怒りに哀しみ、それに焦り・・・、それら全てが入り乱れ、どうにもならないぐらいのパニックが起きてしまい、結局は何も言えずに口を何度も開いては閉じるだけになってしまう。
たぶん、表情もちぐはぐなモノが浮かんでいて、総合的に見ると酷く間の抜けたものになっていただろう。哀れみすら感じさせるほどのものになっていたかもしれない。
・・・ただ、とても残念なことに、じっと僕を見つめてくる少女は、僕のそんな姿にひと欠片の哀れみも感じてくれなかったようで。
「私、見ていたのよ。あの腕と一緒に、家まで帰ったでしょう?」・・・と、続けてくださったのだ。
家は家でも、僕の家ではありません、それに一緒に帰ったわけではなく、あの男の腕が勝手についてきたのです、僕には一切の非はありません・・・、という言葉が、あまりに急激に腹の中から駆け上がってきた為、喉の奥で詰まり、どうしても口から先に出てくれなかった。
その為、ひたすら瞬きを繰り返すばかりで、他に何も出来ず、身体の末端が冷えていくのを他人事のように感じるばかりで。
そんな哀れさをいっそう増している僕に対して、名も知らぬその少女は、押し殺したような、それでいて、強さを増した声で容赦の無い台詞を投げつけてくるのだ。
誰だか知らないが、とりあえず相手は鬼の一種なのだろう。
「あの男の腕と一緒だったなら・・・、知ってるんでしょう? 持ってるんじゃないの?」
投げつけられる台詞の意味は、良く分からない。でも、強さを増したそれはまるで憎しみすら滲ませているようで、身に覚えがないのにひたすら怖ろしくなる。いや、身に覚えがないからこそ、怖ろしくなる。理解が出来ない事に対する、恐怖だ。もう逃げ出したいほどの恐怖だ。
でも、足が竦んで、動かない。まるで逃げられない代わりのように、顔が中途半端な笑みを作るが、その、何だか分からないけれど許して下さい、というサインを、目の前の少女は受け取ってくれない。
受け取ってくれないのに、少女は一歩、前に出る。半身を隠すように立っていた電柱の影から出て、影だらけの暗い道に一歩、足を踏み出して、じっと、その視線だけで何もかもをどうにかしようとしているかのような目で僕を見据えて。
「・・・持ってるんでしょう? だって、あの腕、探してたんだもの。だから貴方について行ったってことは、貴方が持っているってことよ。そうでしょう? 違う?」
否定なんてさせない、と言葉以上に伝えてくる声でそう詰問してくる少女は、更に一歩、踏み出す。
電柱は、もう少女の背後。僕の前に真っ直ぐ立つ少女の位置は、四、五歩ほど先。同じくらいの、身長。暗い夜道に、真っ白な足がやたらと目につく。
あんなに足を剥き出しにしていて、寒くないのだろうかという疑問が、現実からの逃避の手段として小さく頭の隅を転がって。
「ねぇ・・・、それは、貴方のものじゃないのよ。分かっていると思うけど」
「あ、の・・・、えっと・・・、」
「言い訳は聞きたくないわ。何で貴方が持っているのか知らないけど、とにかく、返して。それは、私のものなの」
「いや、だから・・・、」
「だからも何もないの。言っているでしょう? 言い訳とかは聞きたくないし、興味もないわ。私はただ、返してくれればもういいの。返してくれるなら・・・、もう、何も言わないわ。だから返して、今、すぐに」
もう一歩、踏み出される足。距離は、また一歩分、近づく。近づく度に、輪郭がはっきりしていく。
元から、半身が隠れていたくらいで、そこまでぼやけていたわけじゃない。街灯は、たとえ誰も通らないような道にすら、一応、設置されているのだから、服装だって容姿だって、足の白さや形だって分かっていたのに、ぼやけるも何もない。何もないけど、でもはっきりしてくる。
つまり、今まではっきりしていなかったのか? 今は、はっきりしたのか?
・・・ふいに、肩が、震えた。自分の身体の一部なのに、僕の制御を外れたように突然に、電撃か何かが流れたかのように、跳ね上がったのだ。理由もなく、突然に。
理由がなく?
違う、理由は、あるのだ。理由のないことなんて、ハルのような生まれつきの変態の理由以外に、この世に滅多に存在しない。特に身体の反応なんて、身体から離した部位にすら、大抵、理由は存在している。
理由ない身体の反応なんて、理由の見当がつかないだけで、本当に理由がないなんて有り得ない。
だから、僕の身体の反応も理由はある。僕がすぐに気づけないでいるだけで、必ず、ある。あるのだから、探さなくてはいけない。誰かに脅されるように、急かされるように、僕の目は、脳は、理由を探し始める。酷く慌てて、探し始める。
「私の、ものなのよ」
見つかる前に、再び聞こえた声。肩が、また跳ねた。それだけではなく、今度は冷えている末端が、震える。小さく、小さく、何かの抗議のように震え続ける。抗議されている相手は、僕か、それとも僕という本体ではなく、僕以外の部位達なのか。
少女は、更に近づく。もう、距離は三歩程度。もしかしたら、大股で二歩程度なのか。近づいている、近すぎるほどではなくても、近い。向かい合っている、見知らぬ少女。
この子は一体、誰なのか? 全然、知らない。本当に、知らない。肩は、沈黙している。でも、他の部位は細かな震えを継続している。抗議を、続けている。
気付け、気付け、気付けと叫んでいる。
何に、気付けばいいのか?
「返してよ・・・、返して。私に、返して」
・・・『何に』、じゃない。
気付くべきことに、僕はたぶん、もう気付いていた。気付いていたからこそ、気付いていることに気付かせようとして、末端は震えているのだ。震えて、本体である僕が目を逸らしているそれに、目を向けろと叱咤しているのだ。
逃げるなと、逃げていると────、逃げられないぞ、と。
少女には、違和感があった。間違い探しのように、僕の脳内で描かれる『少女』の姿と、何か、決定的な違いがあったのだ。
「返して」
電柱の影に、半身が隠れていた?
夜の影に、全身が捉え切れていなかった?
違う、そうじゃない。
電柱の傍に立って、最初から少女は全身を晒していた。
夜の影に沈みながらも、少女はどんな影にも覆われていなかった。
隠れて、いたんじゃない。そうじゃ、なかった。
目が、渇く。
声が、出ない。
喉が、ひりつく。
「・・・返して、私の、腕よ」
暗い、声。
重い、声。
鋭い、声。
──そこに在る少女の形には、右の肩から先の部位が、欠落していたのだ。