③
──ハルは、僕が知る限り物心ついた頃から、『腕』に異常なほどの関心を向け、愛情を抱いていた。
何か切っ掛けがあったとかではないと思う。少なくとも僕には心当たりがないし、ハル本人にも、そういう心当たりはないようだった。
一応、何か心当たりはないのかと聞いた際のハルの返答が、「切っ掛け? なにが? ってか、切っ掛けもなにも、一目瞭然ってヤツじゃん。だって腕だよ?」というものだったので、心当たりはないのだろう。
ハルの言い分としては、人間の他のどの部分でもなく、というか、全体ですらなく、腕という一部分に魅力を感じ、心を惹かれ、関心を向けて愛情を持つのは、切っ掛けなんて必要としないほど自然なことらしいのだ。
そういう、一般的じゃない感性を持つ人間を変態と呼ぶのだということが、一般的ではないと自覚出来ないハルのような変態には理解が出来ないらしいのだが。
とにかく、魚が水中で苦しまないように、鳥が飛ぶことに飽きないように、説明不要な当たり前さで、ハルは腕を好んでいた。異常なほど、好んでいた。
そんなハルが、人間の部位の売買、貸借専門店を営む親を持つ僕と親友という関係を築いたのは、当然だったのだろうか、必然だったのだろうか、それとも、事故か事件だったのだろうか?
悩みは尽きないが、とにかく僕達は双方認める親友となって、僕はよくハルのこの部屋に入り浸り、ハルはうちの店に入り浸り、気に入りの腕が入ったショウケースに顔を貼りつけんばかりに近づけながら、自分のモノに出来ない苦悩に呻きつつも、それでも見ているだけでも感じる幸福に半ば酔う日々を送っていた。見つめる先の腕が他の誰かのモノになる度に、嘆き苦しみながら。
仕方がなかった。どれだけ変態性質が高くとも、ハルは身分的には僕と同じ、ただの中学生なのだ。部位は、どれほど小さな部位でも一般家庭の子供が手を出せるような値段はついていないし、借りるのすら難しい。第一、部位は売ったり貸したりするのに資格がいるが、買ったり借りたりするにも許可がいるのだ。成人してもいない子供にその許可が下りるわけがなかった。
この国の法律は、他の国に指差されない程度には人間の部位に関して、厳しくあるのだから。
だから色々思うところはあったが、まだ本格的な心配はしていなかった。どれほど望んでも、ハルが望んだ腕を手に入れることはないのだから、少々鬱陶しくも気持ちの悪い発言をする程度で実害はないのだと、そう、信じていたのに。
まさか、物凄い高額商品が寂れた公園なんかに落っこちてるなんてっ!
っていうか、誰の腕だよこれ! ・・・という全力の突っ込みが口から迸らなかったのは、喉や胸に他のあらゆる感情が詰まっていた所為だろう。
もしくは、突っ込みが口より大きすぎて出なかった、という可能性もあるのかもしれない。ただ理由がどんなものであるにしろ、声が出なかったのは事実で、目の前で激しく苦悩している親友であるはずの僕を捨て置き、ハルが運命の恋人と引き離されそうになっている哀れな少年の役柄に悦には入りながら、この世の春を謳歌している現実もまた、事実だった。
そして目の前に広がる現実に、僕の中の何かがキレてしまったのもまた、事実だった。
ゆっくりと周りの景色が動き出すのを、どこか他人事のような心境で眺めている自分を自覚していた。そしてその自覚のままに、景色はその動きを加速させる。
「リュウ?」とかけられる声は、ハルのもの。かけられる言葉は、僕の渾名。名前の『流』を音読みしたその呼び方は、知らない人が耳にすると、渾名ではなくそういう名前なのだと思われがちだった。
水林流・・・、これが僕の、フルネーム。偶に思うのは、この名前の所為で僕は流されるままに流され、こんな場所まで辿り着いてしまったんじゃないかという可能性だ。名は体を表す、というが、僕からしてみたら、名が体を成す、という感じだったりする。
「なぁ、リュウ、どうしたんだよ? いきなり、立ち上がって」
「・・・行く」
「は? どこに?」
「警察だ」
「はぁっ?」
「僕は常識的で一般的で、平凡な一般市民であり、そのことに何の不満もない。すなわち、犯罪を発見したら通報する義務がある以上、その通りに行動することに疑いを挟む余地はない」
「オマエ、俺と真白を引き離す気なのかっ!」
「僕は行く、行くって言ったら行く」
「リュウ! オマエは義務なんて小さなモノと俺の友情、どっちが大事なんだっ!」
「友を犯罪の道から引き戻すのが、僕の友情だぁっ!」
引き留める声が引き留める手に変わる前に、踏み締めている床を力強く蹴っていた。突き出した両手で部屋のドアを突き飛ばすように開き、階段を二段抜かしで駆け下りて、玄関に揃えてあった靴を爪先だけ引っかけながら、再び突き出した両手で鍵を開け、ドアを開けて外に飛び出す。
その間、後ろから追いかけて来ようとしているハルの気配と足音が聞こえてはいたのだが、真白と名付けたあの腕を隠しているのか、それとも他に何かあるのか、すぐには追いつかれることもなく、無事、脱出は成功した。
飛び出した外界は、あの異界に入る前と全く変わらぬ世界を広げており、自分一人が異界で発生している問題を抱えていて、その異界の住人が親友と位置づけている存在である事実が、物凄く侘びしかった。この場で泣き崩れていないことが不思議になるほどに。
・・・まぁ、そんなことしている暇がないってことなんだろうけど。
心情とは別に、冷静な判断を下している脳によって促された身体は、きちんと取るべき行動を取っていた。つまり、僕の常識的で当然の行動を理解しない親友の邪魔が入る前に、近くの交番に行って事情を説明する、という行動に向けて、着々と歩いている、ということだ。本当は携帯電話か何かで通報をしてもよかったのだろうが、何となく、それは憚られる気がして出来なかった。
たぶん、近くの交番に行って事情を説明する、という行動より、顔も見えない電話越しの相手に事情を説明する、という行動の方が、大事になりそうな印象で怖いのだと思う。それに、警察署とか立派なところにいる警察官より、交番のお巡りさんの方が親身になってくれそうな印象もあるのだ。
あと、交番のお巡りさんなら、あの変態な親友も怒られる程度で、そこまで大事な目に遭わない気がするし。
全ては印象でしかないけれど、今は印象以外では何も出来なかった。だから嫌がる足を叱咤し、通常よりペースは遅いが、それでも着実に一歩を進め、交番に近づいていく。方向的には自宅に戻る形になり、店舗を兼ねたそこを通り過ぎて少し行った先の交差点付近に、小さな交番があった。偶に誰もいない時もあるが、たとえ誰もいなくとも、少し待っていれば誰か現れるだろう、そう判じて更に歩いていって。
ふいに足が止まったのは、背後から追いかけてくる気配が全くなかったからだろう。もしあったら、足を止めたりはしなかったのだから。そしてその足が止まってしまった瞬間、視界に入ってしまったのは、まるで運命的に足を止めるに相応しい場所だったのだ。
ただ数分歩いた程度の足に感じている、信じがたいほどの疲労。間違いなく、精神的なものが原因で感じているそれを癒やすに相応しい、その場所。
昼でも尚、人気の無い、寂れた公園の跡地。
・・・と、表したくなるほど寂れきった小さな公園だった。本当に、今のこの時間帯に人がいなければ、一体、いつ人が現れるのかと聞きたくなるくらいに人気ないそこは、それでも今の心身共に限界を迎えようとしている僕が休む場所としては、これ以上無いほど相応しかった。
家では休もうにも店に置いてある部位のことが頭を過ぎるし、道端で座り込むほどの神経の太さは持ち合わせていない。かといって、交番まで辿り着いてしまえばもう生涯、休めないかもしれない。
色んな、意味で。
そうなると、これから交番までの道で静かに座れる場所はもうこの公園しかなく、おまけに公園の存在意義としては微妙だが、人気が全く無いこの場所は、他人の声や気配があるだけで気が休まらなくなりそうな今の僕には、本当にお誂え向きだった。
誰かに手を引かれるように、疲れ切った足で重い心を入れた身体を引き摺って中に入っていく。そして選ぶ余地なく、疲れているのに二つあるベンチのうち、公園の奥に位置するベンチへ向かったのは、おそらく、気配も感じていない追っ手の存在を心のどこかで案じてのことだったのだろう。もし追っ手が来たとして、奥のベンチを選んだなら捕まらないという根拠があるわけでもないのに。
無根拠であると承知の上で選んだベンチは、僕の他に座る人がこの世のどこにいるのだろうと疑いたくなるほど、年季が入って誰も座っていないように見えた。
勿論、僕には特殊な能力もなければ大した観察眼もないので、古びて萎びたこのベンチに、本当にここ最近、誰も座っていないのかどうかは分からない。案外、最近、たとえば昨日とかにでも、僕と同じくらいの年の、僕と同じ男子中学生がこのベンチに座って、やっぱり今と同じように誰もいない公園で主に精神的な疲れを癒やしている可能性がないわけではないのだから。
「・・・まぁ、たとえそういうヤツがいたとしても、僕みたいによく分からない事態に巻き込まれたってことはないだろうけどさ」
呟きは辛うじて声になってはいたが、誰も聞く人はないので、勿論、応える人もいない。どうせなら両手両足を投げ出して、背もたれに仰け反るようにして全体重を預けてしまいたい気もするけれど、誰もいないのに他人の視線が気になってしまう小心者の僕では、そこまでの大きな態度は取れない。
むしろ、誰にも見られないように気をつけている犯罪者のように、肩を落とし、背を丸め、顔を揃えた両膝に埋めんばかりに小さく、小さく丸まってしまう。
犯罪者になりそうになっているのは、僕ではないのに。
犯罪者・・・、に、なるのかなぁ?
疲れ切ってもう何も考えたくないと願っている脳に、それでも小さな呟きのような画像が浮かんでしまう。
親友の、顔。あの、親友の・・・、見たこともないほど幸福そうな、顔。拾って持って帰ってきてしまったあの腕に頬ずりし、いつも以上に違う世界に旅立っていたその姿が、どうしても脳裏を離れない。
どれほど願っていようと、ハルが今、していることは法律上認められていない行為なのだから、絶対に止めるべきだし、止めさせるべきだ。
ハルにとっては恋に落ちた相手を本人同意で連れ帰ってきたくらいの勢いなのだろうが、いくら生きていても、部位は部位、本体ではない。拾ったなら届けなくてはいけないし、所有権がある人に引き渡されなくてはいけないものなのだ。
少なくとも、気に入ったからといって、見つけた人間が勝手に自分のものにしていいものじゃない。
だから通報しようとしている僕は絶対に正しい。友人を思う行為としても、とても正しい。正しい、けど・・・、一旦こうして落ち着いてしまえば、本当にいいのだろうかという迷いが生まれてしまう。正しいことをしようとしている、という確信、正しいからといってやっていいのか、という迷い。
視線は、地面に力なく置かれた爪先を漂う。爪先、靴下と靴に包まれた、部位。この部位を好む人もいるし、逆に、この部位を嫌って売りに出す人もいる。
ハルは、この部位には興味が無い。他のどの部位にも興味が無い。部位どころか、僕や僕のような常識的な人間が本体と判じているものにも興味がなく、ただひたすらに、たった一種類の部位にだけ、その興味と好意を注いでいる。
間違いなく、一般的ではない。つまりは異常、もっと露骨に言えば変態。
本当の友達じゃなくていいから、知らなかった振り、しちゃ駄目なのかなぁ?
通報して、犯罪者にならないようにやるのが本当の友達、親友なのだろうけど、あの状態のハルから腕を取り上げて、その後、友情を持続出来るかどうかはかなり怪しい気がする。
そしてあんなにまともじゃなくても、僕の友達はハルしかいなくて、あんなヤツでも・・・、友達を止められると、結構、辛い。というか、大分、辛い。
友達がいないって、こんなに辛いことなんだな、なんて、まだ決定的になくしてはいないのに、予想として感じる辛さについ、涙が滲みそうになる。正直、良いところなんてすぐには思いつかないくらいなのに、もう親しく出来なくなるかもしれないと思うと、何となく、良いところが沢山ある気もしてきてしまう。
具体的には、全く思いつかないくせに。
視界はすでに、大分滲んでいた。もう、爪先の形が判別出来なくなるほどで、だから他の全てもまた、曖昧に形が崩れていた。はっきりとした形を見たいものがない、そんな僕の気持ちに合わせて溢れてきているのかもしれない。
溜息は吐ききってしまって、既に枯渇していた。息すら、難しい。
・・・どうして、こんなことになってしまったのだろう?
胸に落ちる、もう取り返しのつかない根本的な疑問。問うまでもなく、答えはとても簡単だった。
昨日までは、少なくとも昨日、うちの店で気に入っていた腕が売れてしまい、悲嘆に暮れて帰っていくまでは、何の変わりもない日常で、かなり変態っぽい言動を繰り返していても、ハルは悪に手を染めてはいなかったのに。交番のお世話になる必要もなかったのに。あの変態具合も、個人の趣味、成人して、お金を手に入れて、許可を取れば許される範囲の趣味だったのに。
腕さえ、落ちていなければっ!
つーか、どうして腕なんか落ちてるんだよっ!
高額商品、道端に落としてるんじゃねーよ!
ってか、本体はどうした! じゃなかったら、持ち主、どうした!
落とすなよっ、あんなもん!
ってか、もう落としてもいいから、持ち主、拾いに来いよぉー!
・・・等という、魂の叫びは声にすらならない。なんせ、魂が上げている叫びなので、声という他者が認識出来るような形に変えることが難しいのだ。
でも、誰にも聞かれずとも、確かに上がっている。とても親しくしていない限り、引っ込み思案で人見知りの僕には決して実際の声としては上げられないような、絶叫が。
物凄い高価な、防犯装置をつけて保管しているようなものが道端に落っこちていたのと同じ意味合いなのだ、これは。そんなこと、通常、絶対に有り得ない。
ましてや本体がその辺に腕を置いて出かけてしまい、取りに来ませんでした、なんてことも絶対に有り得ない。取りに来なかったらソイツは今頃、腕がない状態でどうしているのかとも思うし、偶にいる、その部位があるのが嫌です、なんていう、僕からしてみたら理解不能の拒絶反応を自分の部位にする奴等ですら、高額商品となり得るのは分かっているので、うちのような店に売りにくるのだ。
間違っても、道端に捨てたりはしないはず。
もしかして、何かの用事でちょっと外しているところを、ハルが落ちていると判断して無断で持って帰ってしまった?
・・・いや、それもないだろう。あの腕は、無理矢理連れて来られたという態度は取っていなかったし、冷静に考えてみれば、本体が生きているなら、今頃取りに現れているだろう。なんせ、生きている間は部位と本体は感覚が繋がっている。店で専門的な処置を施しでもしない限り、本体の方が集中して意識すれば、部位の行方を追うのも不可能ではないという話なのだから。
だからこそ、部位を売り買いや貸し借りするには、ちゃんとした書類作成が必要とされるのだ。所有権が、誰に、どれだけあるのかを明確にする為に。
つまり本体がいない、つまり売り買いされている腕だとするなら、普通、登記があるはずなのだ。所有をはっきりさせる為の登記には、腕の特徴や写真もあって、検索が可能なはず。だとすれば、あの腕の写真を撮って検索すれば、持ち主が見つかる可能性はある。
見つけられたとして、ハルが返却に応じるとも思えないし、たぶん、全く何の解決にもならないのだが。
そこまで思考が及ぶと、最終的には、どうして腕なんか落ちていたんだよ、という嘆きに戻ってしまうということなのだが。
「・・・なんだよ、腕って」
今度の呟きは、口から声として出ていた。勿論、声として出たからといって、応える人は相変わらずいない。僕以外、誰もいないのだから、いるわけがない。
全てを吐き出してもう残っていなかったはずの溜息を再び量産しながら、声には出さず、どうしようもない呟きを連続的に零れてしまう。
腕、腕、腕、
落ちているわけがないのに。あんなもの、むやみやたらと落ちてるなんて有り得ないのに。どうして落ちていたのか。それもよりによって、一番、見つけてはいけない、拾ってはいけない奴に拾われてしまったのか。
大体、マジにあの腕はなんなのか? 僕は、どうしたらいいのか?
腕、腕、腕、
持ち主不明の腕なんか、一体何をどうすれば見つけることが出来るのか? 腕なんて、健常者なら一人二本だ。一人一対、でもいい。とにかく、それ以上の本数を見つけることなんて、通常、有り得ない。
自分の両手を見下ろす。両手は、両膝の上に力なく置かれていて、それ以上の本数はない。勿論、足だって同じ。だから、両足に両手をそれぞれ置けば、もうそれ以上の本数を見かけることはない。
この、我ながら頼りない白っぽい、ひょろっとした両手。坊ちゃん育ちでもないのに、重いモノなんて持てません、みたいな手と、その手を置くに相応しい、ひょろっとした両足。ジーンズに包まれても尚、細くて頼りないモノ。
取っ掛かりのない、細さ。頼るには足らない、太さ。
視線は、ぼんやりとうろつく。視界に入るモノから、逃げるように。逃げ切れるわけがないから、逃げる方角に視線を定めることすら難しく。それでも心のままに解き放つ。心だけではなく、身体も連れていける強さがあれば、どれだけ良かったか。
──あの、節の大きな、いかにも頼りになりそうな太く、多少の荒々しさがある大人の男の腕であったなら。
「・・・え?」
唐突に、視界が開けた気がした。たぶん、本当は視界が開けたのではなく、ぼんやりとしていた意識がはっきりとしただけなのだろう。つまり、目には何の変わりもなかった、ということ。意識だけが色々な場所から逃げていて、そして・・・、逃げている間に、とても逃げ切れない場所に入り込んでしまったらしい。
はっきりしてしまった意識でしっかり見据えてしまった視界の先、公園の奥、僕の前方、誰もいない、その場所。僕は、僕の、もう逃げ切れない意識と視界をその時、ひたすらに罵倒した。するしか、なかった。
僕は・・・、真っ当な人間で在りたいだけだったのに。