②
「っていうわけで、俺の運命の恋人、真白ちゃんでっす!」
「・・・ハル、警察に行こう。今からでも遅くない。たったひと晩のことなんだから、たぶん、誤魔化せるし、誤魔化せなかったら僕も一緒に謝罪攻撃してあげるからさ、な? 行こう?」
「つーか、謝罪攻撃ってなに? 謝罪って、攻撃なの? ってか、相手は誰よ? お巡りさんに攻撃すんの? それ、拙くない? 謝罪攻撃ってのが利くのかどうかも分からんけどさ」
「・・・まず、謝罪攻撃が何かって質問だけど、これは、日本人にはかなり有効な攻撃だ。まだ礼儀を知らない無礼な若造とかには利き難いこともあるけど、大抵の日本人には利く」
「だから、その大抵の日本人に利く、謝罪攻撃っって具体的にはどんなのなんだよ」
「相手がこっちに攻撃的な行動を取ったり、非難めいたことを言ってくる前に、先制攻撃としてまず最初の謝罪を繰り出す。それから相手がこっちが繰り出した謝罪にお返しをしようとしたところで、更に覆い被せるように謝罪を繰り出す。で、二回に渡る連続謝罪で反撃のペースを乱した相手に、更に、今度は息つく暇も無く謝罪に謝罪を重ねて、そのまた上に謝罪を被せ、全てを覆い尽くさんばかりに繰り広げた謝罪の上から、更に駄目押し、もしくはトドメと言わんばかりに謝罪の連打を乱れ打ちする。そうして相手からの攻撃的な諸々の一切を封じ込める謝罪を繰り出すことで、『こんなにも必死に詫びている人間に対して、よもや何かを責める気じゃないだろうな? もしそんな事をしたら、お前は人でなしだからな』という無言の圧力をかけるという、日本人同士だけで可能な高等な精神攻撃だ。ここまではまず、理解出来たか?」
「理解は・・・、まぁ、うん、出来たって言えば、出来た。ただ、その攻撃の是非とか、諸々の点で疑問が湧き上がってきてはいるけど・・・」
適度な濃さと太さがある眉を絵に描いたような八の字に変え、特筆するほどではないが、それなりに爽やか、分類するならアイドルっぽい系統の顔に常識的に見える困惑を浮かべているのは、友達の少ない・・・、というか、一人しかいない僕の、そのたった一人の友人にして親友である、四月朔日春だった。
たった一人しか友人がいないのにその一人を親友と評すことが、四月朔日春だからこそという積極的な認定によるものなのか、それとも四月朔日春しかいないからという消去法的な認定によるものなのか、その判断は虚しくて下せないまま十数年の月日が経っているわけなのだが、とにかく、現在、どんな認定方法によるものだろうと、親友ということになっているのが、四月朔日春であって。
──四月朔日、春。
かなりの勢いで、巫山戯た名前だと思う。もう慣れたはずなのに、今この瞬間のような目に映る全てを拒絶をしたくなる時に、思考だけでも現状から脱出を図ろうとするかの如く、改めてそう思ってしまうほど、つまり僕の中で話題にあげてしまうほど、巫山戯ていると思う。
四月朔日、という名字自体は、まぁ、特に巫山戯ていないだろう。変わった名前だとは思うけれど、名字なんて親やそのまた親から引き継ぐものなのだから、ハルにも、ハルの両親にも非はないのだ。
ただ、非がなくても変わっていて、しかも四文字というちょっと長めのその名字に、一文字で、読み方もあまり一般的ではないような名をつけるのは、どうかと思う。
四月生まれだから、四月は春だから、名字も四月ってついているし、丁度良いから漢字は『春』にして、読み方は名字に併せて『はじめ』にしよう。
・・・これが、ハルの両親の考えだったらしい。何を考えているのだ、ってか連想がちょっと変だろう、つーか、連想したとしても字面を見て、どこまで名字でどこからが名前なのか分かり辛いから止めるだろう、と全力で突っ込みを入れたくて仕方がないのだが、生憎、突っ込んだとしても労力が消費されるだけで何の効力もないだろう人達なので、実際に突っ込みを入れたことはない。
流石に、ハルの両親だけはある。まぁ、ハルとは大分、方向性が違う人達ではあるけれど。
ちなみに、このある種、異様な名前の力によるのか、それともただ単に素直に読む人が多いだけなのか、『はじめ』とは呼ばず、殆どの人が『ハル』と呼びかけている。定番の渾名とでも言うべきか。
僕としては名前の力に負けたわけでもなく、ましてや素直に漢字を読んでいるわけでもなく、僕の常識的感性から大きく逸脱している現象に対する、精一杯の抵抗として『ハル』と呼んでいた。
・・・まぁ、そんな、未だ何の効力も示さない僕の小さな抵抗は横に置いておくとして。
溜息を、一つ。小さいけれど重いそれに、向かいに座っているハルが不思議そうな顔をして、首を傾げている。
あの首をもう少し傾けて、もう少しというかもっと傾けて、ぽきっとやってやったら全ては解決するんじゃないかと思わないでもないのだが、親友としている相手にそんなことが出来る訳もなく、仕方なく、もう一つ溜息を吐き出すだけで全てを諦めて、逃げていた現実に向かい合う決意を固める。
歩いて十数分の距離にある、ハルの家。その家の中にある、ハルの部屋。もう自分の部屋かというくらい慣れ親しんでしまったこの部屋でだらだらと過ごすことは、大して珍しいことじゃない。大抵、前日か当日、行くな、とだけのぼんやりした約束を取り交わし、適当な時間にこの部屋に来る。
ただ、今日は確かにいつもの流れとは違う点があって、正直、嫌な予感はしていたのだ。
『リュウ・・・、あっ、明日・・・、ヤバイよ、マジ、ヤバイって・・・、ちょっ、マジ、来てくれって!』
・・・という、異常に興奮した電話が夜にかかってきたのだから、これは異常な事態が発生して、異常な精神状態に陥っているな、とは察していたのだ。
ただでさえ、この親友は異常で無い部分が少ない。本人、その自覚が皆無だが、根本的で基本的な部分が、相当、おかしい。
しかしそのおかしさが既にスタンダードと化しているにも関わらず、そのスタンダード以上に様子がおかしかったので、あの電話で声を聞いている時点で、関わらない方がいいのかも、とまで思ってしまっていたのだ。・・・そう、思っていたのに、察していたのに、親友だからと訴える自分の中の何かに促され、来てしまったわけなのだが。
そして来てみたら、案の状、通常的な異常より、もっと異常な現実が繰り広げられていたわけで。
・・・確かに、前日の土曜日、もう何度目にかになる絶望を味わっていたのだ、ハルは。うちの店で、いつも通り叶わぬ恋をし、叶わぬ恋なので当然、叶わず、肩が取れるのではないかと思うくらい落ち込んで帰って行く後ろ姿を見送ったのだ。あまりに落ち込んでいたので、多少、心配といえば心配ではあったけれど、正直、いつものことと言えばいつものことだったので、あまり深刻に心配はしてないかった。
でも、心配するべきだったのだろう。後悔先に立たずとはよく言ったもので、もうどうしようもないけれど、それでもあの時、心配して家まで送っていってやれば、こんな事態には陥らなかったはずなのだから。
こんな、存在してはいけない、運命の恋とやらに会わせることもなかったはずなのだから。
警察沙汰を持ち出さなくてはいけない、そして僕の必殺技を繰り出してでもどうにかしなくてはいけないハルの『運命の恋人』とやらは、ハルのすぐ左隣に『在った』。
真白、という名がぴったりに思えるほど白い肌をしているが、しかし『ましろ』という名前自体の響きが感じさせるように、白は白でも、どこか柔らかみを帯びた、冷たさや痛々しさは感じさせない肌でもあった。
全体的に細身だが、決して細すぎるというわけではなく、適度に柔らかな肉がついていて、その肉が、ある種の愛らしい曲線を描き、何となく、穢れのない、無垢な子供の柔らかみを連想させる。つまり、健康的な白さと適度な細さと柔らかさを持っていた。
おまけに形としても曲線を描くべき場所と細く絞まるべき場所がはっきりしており、白い肌には染み一つ見つからず、末端に当たる指先は造り物のように綺麗な桜色に色づく、少し大きめで丸みを帯びた薄い爪がきちんと貼りついていて、指先の幼い細さも相俟って、とても可愛らしく。また、綺麗な張りを持つ肌は肘に醜い皺を描くこともなく、どこまでも張りつめて、きちんと柔らかな丸みを帯びる程度に肉の乗った肩まで綺麗にその肌を伸ばしてる。
客観的に、ただ目に見える範囲の美醜だけを判断するなら、美しいとは思う。それも、大人のような美しさを保つ努力を重ねた美しさではなく、ごく自然な美しさで、年相応の愛らしさを土台にした美しさ。土台になっている愛らしさが、どこまでも愛らしく感じられる美しさだ。出会ってしまったら、一目惚れしても納得出来るような、愛らしさ。
・・・肩から先の、恋に落ちるべき部分が在るなら、の話ではあるのだが。
「あのさ、ハル」
「ん? なに? どした?」
「もう十年近い付き合いだし、ハルがかなり最初からそういう奴なのはもう今更ってことなんだろうけど・・・」
「そういうってなに?」
「でもな? オマエもウチの店に入り浸っているんだから、こういう事に関する日本の法律はある程度、知っているだろ?」
「いや、だから、そういうとか、こういうとか、具体性がない単語が多すぎで、何がなんだか・・・」
入れたくもない気合いを入れて再び向き合った現実に向かって切り出した台詞は、親友の相変わらず理解が遠い台詞によって、一旦、立て直しを迫られてしまう。
立て直す必要なんて一切無いほど完璧な組み立て方をしたはずなのに、目の前の手強い敵にはこの程度の組み立てでは歯が立たないようなのだ。どうして親友が敵となって目の前にいるのかが、理解に苦しむのだが。
いっそ、コイツを倒して俺も死んだらどうだろう、等という、マイナスにマイナスを足してもプラスに転じることなくやっぱりマイナスになるという、理屈に合わない足し算のような思考がどこからか湧き上がってきたが、この程度のことに負けていては、必死で持ち堪えてきたこの十年余りがあまりにも虚しいことになる。
虚しいことになったからといって、何が困るんだという自分の中の皮肉な突っ込みを全力で無視しながら、ひたすら自分を鼓舞して再び開く口。声が震えていたのは、心が折れかけているとか、気が触れそうになっているからとかではなく、武者震い的な前向きな理由だと信じたい。
「・・・やんわりした言い方じゃ分からないって言うなら、お望み通り、くっきりはっきり、具体的に言ってやる」
「おっ、おぉ?」
「あのなっ、オマエのやっていることは、まるっと犯罪に括られる」
「おぉぅっ?」
「拾得物横領罪だ」
「ちょっ、なにっ、言って・・・!」
「中学生の身で手錠をかけられるレベルで捕まるってことはないだろうけど、意図的に自分のモノにしようとして持って帰ってきたんだから、バレたら結構な勢いで怒られること請け合いだ。だから、ひと晩しか経っていない今のうちに警察に届けようって言っているんだよ。ひと晩、届けなかった理由は誤魔化して、誤魔化しきれなかったら必殺の謝罪攻撃を繰り出して、とにかく、犯罪者か、軽犯罪者の二択の人生の危機から脱出しようって言っているんだよ、分かったかっ、この馬鹿っ!」
「わっ、わっかんねーよっ! なんだよっ、なにがいけないんだよ! 俺はただ、恋に落ちたってだけで・・・!」
「あほっ! なにが恋だっ! オマエの生まれつきの変態具体の正当性なんて、今、聞いてないんだよ!」
「はぁっ? 変態って・・・!」
「変態は変態だっ! もう分かりきっていて指摘するのも阿保らしいくらいの変態だろっ! でもな、生まれつきの変態だったら法律を守らなくてもいいなんて決まりはこの日本にはない! いいかっ、よく聞け!」
今の日本の法律では、本体から離れた部位が道端にあったら拾得物で、拾った場合は速やかに警察に届ける義務があるんだよっ!
「間違っても、気に入ったからとか恋に落ちたからとかいう頭の沸いた理由で持って帰って、自分のモノにしていいなんて決まりはないっ!」
「まっ、真白は物じゃない!」
「日本の法律では、本体以外の部位は物扱いなんだよっ!」
「俺にとっては真白が本体だぁー!」
「だからっ、ハルの変態的主張は聞いてない! 指先から肩までの、そこから先がくっつてない『腕』はっ、ハルみたいな変態以外の人間にとっては部位だし、法律は変態に合わせて作られてないっての! つーか、拾った部位に勝手に名前までつけるんじゃない!」
「うっ、うっ、うるさーい! 恋に理解のない法律がなんて主張しようと、俺達の燃え上がってる恋の邪魔はさせないからな! リュウにだって邪魔はさせないから! ってか、親友の恋を応援するぐらいの優しさがないのかよっ!」
「あって堪るか! 恋だったら腕から先の部分にしろっ!」
「魅力のない腕以外の部分に恋なんて出来るかぁー!」
どうしても俺から真白を奪うって言うなら、真白を殺して、俺も死ぬぅ!
・・・絶叫が、響き渡った。ハルが変態度をマックスまで上げて迸らせたその叫び声に、気が遠くなったのがこの場において僕だけという事実が、更に僕の気を、僕自身から遠ざけようとしている。ついでに、どうして僕はこんなにも孤独なのだろう、なんて虚し問いが胸を横切ってもいる。
マイペースに自由気ままに生きるハルの両親は今日も今日とて不在だし、いたとしても異常なほど何事にも動じない彼等がこの事態をどうにかするとも思えない。
目の前ではハルが滂沱の涙を流しながら、傍らに大人しく肘をついていた腕を抱き上げ、ひしと胸に抱き込んではその二の腕の辺りに頬ずりをしている。
気が、遠くなりそうだった。意識を、失いそうだった。むしろ誰か意識を奪ってくれないだろうかと願いそうになっていた。