⑤
一体、いつの間に動き出していたのか、僕にも分からなかった。
でも、僕自身でも分からない間に動いていた僕の身体は、男とハルの元に追いつき、がむしゃらに・・・、そう、まさに後先考えないような頭が空っぽの状態で男の背中に飛びつき、背後からその動きを止めようと二の腕辺りにしがみついたのだ。
少しだけ離れた位置に茫然と佇んでいた所為だろう。男は僕には全く注意を払っていなかったらしく・・・、むしろ存在自体に気づいていなかったのかもしれないが、とにかく意表をつかれたのか、酷く慌てた様子で首だけで振り返り、突然、自分に取り付いてきた存在を、僕を認識する。
その視線は感じたが男の動きを止めるだけで精一杯の僕は、男と視線を交わす余裕などなく、顔を背中に埋めるようにしてただひたすらに、全力で男に取りついていた。とにかく、ハルを助けなければと、その一心で。
当然、男は暴れた。それは取り付いた身体から伝わる衝撃で、はっきりと分かる。押さえ込もうとしている腕を振り回し、身体を激しく揺らして僕を払い落とそうとしたのだ。足も後ろ向きに何度も跳ね上げ、僕を蹴りつけようとしていた。繰り出されたその足は、何度か、僕の足に当たる。
でも、後ろ向きに蹴り出す足の威力はたかが知れていて、僕は必死に、尚も男にしがみついていた。必死に、必死に・・・、たぶん、人生でここまで何かを必死に行ったことなんてない。それくらいの必死さが、今の僕にはあった。
・・・よく考えるまでもなく、相手は人殺し。真偽のほどはまだ未定なのかもしれないが、少なくとも僕の中の認識では、人殺しだった。その、はず。でもそんな相手にしがみつき、その暴力の危険に晒されながらも尚、離れることなく必死にしがみついている。
それは僕の中に在る僕らしさにはない行動だった。僕はそんな勇敢さとも評されるような部分は持ち合わせていない、小心者の常識人で、思い切ったことも全然出来ないような人間のはずで。
「うっ、あぁっ、 あぁー! はっ、離せぇっ!」
「あっ、あぁー!」
唸り声のような男の叫びが上がる。まるでそれに呼応するように、僕の口からも意味を成さない雄叫びが上がる。知性のある生き物が上げる声とは思えない、叫びが。
そして自分が上げたその叫び声に励まされるように、しがみつく手にも力が入る。力を入れる為にいつの間にか閉じていた目の裏に、何か、火花のようなものが散っている。
暴れる男の身体の一部が、僕のどこかを強打したのを感じた。でも、どこにどうやって強打されたのか、全く分からない。僕の身体は今、そんな些細な事象に関わっている場合ではないといって、その痛みを無視してしまっているから。
足が時折地面から離れ、身体が振り回されるような感覚を覚えるが、それすらも何がどうなっているのか全く分からない。
男を止める、全てはそれだけになっていて、それ以外の一切はもう、僕にはない。だからこそ、普段の僕なら絶対に出せないような力が出せている。
これが──、友情か。
これが──、部位だけになったとしても、残るものか。
他の全てがなくなっている中、何故かそんな思いだけが微かに胸の奥に生まれていた。自分には存在しないはずの行動パターンを生み出し、存在しないはずの力まで捻り出して戦うことが出来る、これこそが、友情の成させる技なのかと、そう、思って。
そしてこの偉大な力を出せる思いだけが・・・、本体が死した後、部位に残る唯一の感情になるのかと。
真白の本体は、この感情を残して死んでいったのだ。それが今、酷く鮮やかな認識として、理解出来る気がした。自分が危機的状況に陥り、そしてその危機が全てを奪い去っていった後でも、この感情だけがそこに残ったのだ、きっと。
偽善的な感情ではなく、打算的なものでもなく、錯乱していたわけでもなく、自分という存在の維持を諦めていたからではなく。
ただ、一心にそれだけを思って、他を忘れてしまうほどに思って・・・、そこまで思ったからこそ、思考を持たない残された部位を突き動かすほどのモノを残せたのだ。部位に、腕に、真白に。
真白い腕・・・、真白。
たぶん、真白はその名の通りの存在で、それが分かった今こそ・・・、ハルとは意味が違うが、僕はその時、あの腕を美しいと思えた。
「リュウー!」
振り回されて、もう何もかもが分からなくなっていく中、その声は確かにはっきりと聞こえていた。聞き慣れた声だったからなのか、それとも聞き慣れたはずの声が、聞いたことのない切羽詰まった声を出したからなのか、さもなければ、僕もまた、あの腕、真白と同じ、ある意味において美しい感情の中にいたからなのか・・・、理由は分からないが、とにかく、聞こえた。
そして聞こえた声から空白の一拍の後、衝撃が走る。精神的なものではなく、身体的なそれは、何かに追突されたような振動だった。思わず振り落とされそうなそれを、男にしがみつく手にいっそうの力を入れることで耐え抜く。
するとそのいっそう込めた力の所為で男からの驚愕と焦りの気配を感じて・・・、閉じていた目を開いたのは、感じた気配から、本能的に加勢が加わっていることを察したからかもしれない。
最初に見えたのは、男の薄汚い服の色。次いで見えたのは、しがみついた男を挟んで見える、ぼんやりとした人の輪郭。その輪郭は、すぐさま形を持つ。僕がよく知る形だったから、照合が早かったのだろう。僕と同じような体勢を取って、男を正面から押さえ込んでいるその人は・・・、勿論、ハルだった。
ハルが体当たりするような形で、男を正面から押さえ込んでいたのだ。その際の衝撃が、さっき僕が感じた衝撃だったらしい。僕が男の二の腕を背後から押さえ込むような形でしがみつき、ハルが男の、僕が押さえ込んでいる二の腕の下の辺りをホールドする形で正面から押さえ込む。
体格的に男より劣る子供の僕達でも、二人がかりで押さえ込めば、簡単に払い落とすことは出来ない。ましてやそれが、限界を振り切った力を発揮した子供二人ならば余計だろう。
僕達は前と後ろからがっちり男を押さえ込みながら・・・、その時、殆ど同じタイミングで視線を合わせた。意図したわけじゃない。でも、本当に何かの合図でもあったのかと思うようなタイミングで視線が絡んだのだ。男をがっちり押さえ込めたと確信した瞬間が同じだったのかもしれない。
とにかく、しっかりと視線が絡んで・・・、瞬き一つの間に、決断が下された。下したのは、ハルだ。初めから戦う気でいた人間の方が、流れで戦う羽目になっている僕のような人間より決断は早いのだろう。
一つ、頷かれ、僕が一体それは何の合図なのかと思う一歩手前で、ハルの視線が横に流れる。流れた視線を追いかければ、そこには並ぶコンクリートの壁があって、示された場所を確認してから視線を戻せば、ハルが再び、力強く頷いた。絡んだ視線に、頷き以上の力強い色を滲ませて。
再び訪れた一拍の空白の後、僕も同じように頷き返す。たぶん、ここ数日の中で、今この瞬間以上にハルと気持ちが通じ合った瞬間もなかっただろう。ハルの意図が映像として浮かぶほど理解出来たし、僕が理解したことをハルも鮮明に理解してくれた。それが分かるくらい、もう本当に、言葉なんて要らないくらい、僕らは分かり合って。
合図は、あと一つだけでよかった。行動に移す、そのタイミングを合わせる合図だけ。当然といえば当然の流れで、その合図を示すのはハルの役目となった。僕に合わせた視線をもう一度外して壁を見て、それから小さく、小刻みに二度、続けて頷いたのが、その合図。
「・・・うっ、らぁ!」
「ふっ・・・!」
食い縛った歯は、奥歯が軋むほどの力が込められていた。目の奥では痛みが走り、足は力の入れすぎで震え、血液の流れが筋肉の収縮によって至る所でその流れを止められ、膨張し、それでも絞り出した力が結果を悠然と目の前に紡ぎ出す。
二人の、子供の全力。
大人の身体は子供の全力に堪えきれず、僕らが描いた通りの結末に沈む。
しがみついた男の身体を、壁に向かって引き摺り込むように突き飛ばし、
傾いだ男の身体を壁に押しつけるように押さえ込んで、
子供二人分の力で壁に叩きつけられた男の身体が壁を下へ向かってなぞるように沈み、
沈んでいく身体に今度は地面に押しつけるようにのし掛かり、
壁のすぐ傍の地面に倒れた男に二人で乗り上げて、
男の上半身にハルが、下半身に僕が跨がって、
男を完全に取り押さえることに成功した時には、持てる全ての力を出し切っていた。
身体の下で、男がいまだ、諦め悪く蠢いているのを感じる。僕達二人を払い除けようとしているのが、振動として伝わるのだ。
でも、子供とはいえ、二人の人間が体重を掛けて跨がっているのだから、そう簡単に振り落とせるわけもない。ましてや僕らは子供とはいっても、本当に幼い年齢ではない。それなりに育っている子供なので、まぁ、それなりに重いのだ。
勿論、完全に押さえ込んだとはいえ、相手はまともな人間ではないし、僕達も本気だったけど、男の方も本気だろう。火事場の馬鹿力なんて言葉もあるのだから、油断は禁物だ。気を抜いた瞬間に体勢を引っ繰り返されないとも限らないので、意識して体重を掛けるようにしながらも・・・、背を向ける形で男の上半身を押さえ込んでいるハルの背に、ゆっくりと視線を向ける。
僕もそうだけれど、流石にハルも、肩で息をしていた。たぶん、僕より力を使ったのだろうから、息を整える為にすぐには声を発せられなくても、それはそれで仕方がないだろう。二人で強敵を倒したことに対して感想がまだ交わせないのも、仕方がない。
仕方がない、とは思うのだが・・・、僕と視線すら交わすことなく、今や親友を飛び越えて戦友にまでなりかけている僕ではなく・・・、自分が守ったという誇りに満ちた表情で、真白にだけ視線を向けるのはちょっとどうかと思う。
・・・僕にもその何割かでいいから、視線を向けるべきじゃないだろうか?
少しだけ虚しい気持ちになりながらも、溜息だけは飲み込んだ。今、そんなモノを吐き出したら、込めている力も抜けて形勢が逆転してしまう可能性があるからだ。
代わりにこちらを向かないハルの全身を何となく眺めて・・・、ふと、あるべき物がないことに気づく。男を押さえ込んでいる、ハルの両手。確かに握り締めていた物が喪失しているのだ。僕が男に突進していった時には、持っていたはずなのに。
「・・・ゴルフクラブは?」
「・・・え?」
「いや・・・、ゴルフクラブ、どうしたの・・・?」
冷静に思い返してみれば、混乱した記憶の中でも、男を向かいから押さえ込んでいた時点でもうゴルフクラブは持っていなかった。男を両手で押さえ込んでいるのだから当然と言えば当然なのだが。
でも、あんなに勇ましく持っていた物を一体どうしたのかと不思議に思ってつい、疑問を口にしてみれば、視線は真白から一ミリも離してはくれなかったが、それでもハルが反応を返してくれる。
そしていっそ視線を外して示せばいいのに、と思うくらいの横着さで、顎を少しだけ動かして方角を示すと、あっさり答えを告げたのだ。「あの辺に放った」と。
顎で答えを指し示す様に思うところがないわけでもないのだが、それをまたぐっと飲み込んで示された方角を見てみれば、確かにその方角に、あのゴルフクラブが無造作に投げ捨てられていた。
あんなにも自慢げにベルトに差して、抜き去って構える仕草まで念入りに練習していたのに、そんな過去は捨てましたと言わんばかりの光景に妙な寂しさを感じそうになる。そんなモノ、感じたって意味なんてないのに。
「・・・あんなに要らんものみたいに、冷たく捨てるか?」
「いや、だって要らんかったし」
「・・・おい」
「なんか、焦ってたのもあるとは思うけど、上手く力が入らなくってさぁー・・・、やっぱり、使い慣れてない道具は駄目だ」
「ハル・・・」
「いざとなった時に頼りになるのは、自分の手足だけだな」
「・・・あんだけ練習して、自慢げに持ってたくせに」
「まぁ、そうなんだけどさ。でも練習と実践はやっぱり違うっていうか、実際には自分の身体だけが頼りっていうか・・・、あ、勿論、リュウも頼りだけどさ。マジ、ありがとうな」
「・・・うん、それは、まぁ・・・、いいんだけどさ」
本当に、ハルは狡いと思う。こういう時に、最後の最後で僕の心をぐっと掴む一言をさらっと口にするから、僕はさっきみたいな危機的状況にハルの為に突っ込むような、そんな行動を取ってしまうのだ。そのくらい、友情に厚くて熱い人間になってしまうのだ。
この友情が今の異常な状態へ繋がっているのに、それでも振り切れない現状を作り出してしまうのだ。
また、同じことの繰り返し。その現実に意識も自然と遠ざかりそうになりながらも、勿論、いつものように本当に意識を手元から離したりはしない。なんせ、今のような会話が交わせるのも仮初めの落ち着きを得ているからであって、気を抜いて下に押さえ込んでいるモノに形勢逆転を許せば、この仮初めの落ち着きすらも再び手放す羽目になってしまうのだ。
こんな状況下で、意識なんて手放せるわけがない。
だから意識が遠退きそうな会話を交わしながらも、しっかりと男を押さえ込んでいたのだが・・・、ふと、ずっと感じていた振動が消えていることに気づいた。
僕達の拘束から逃れようと抵抗を繰り返していた男のそれを一切感じなくなっていることを不審に思い、視線を男に向けるのだが、地面に俯せた体勢にして押さえつけている男の顔は、僕からは見えない。たぶん、ハルからも見えないと思うので聞くわけにもいかず、不審に思いながらも黙って男の様子を窺っていると、ふいに何か、小さな音が聞こえてきた。
初めは何の音だか全く分からなかった。何かを引き摺ったようなざらついた音で、しかも酷く篭もっていたので、判別が出来なかったのだ。
しかし半ば無意識に耳を澄ましていると、すぐにその正体が分かった。音ではなく、声だったのだ。ただ言葉にはなっていない声だったので、音のように聞こえていただけで・・・、それは言葉にならない声、唸り声だった。押さえ込んでいる男の、唸り声。
怒りのあまり、零れている声なのかと思った。悔しさのあまり、震えている声なのかとも思った。もしくは子供に押さえ込まれていることに不甲斐なさでも感じて、泣いてでもいるのかと思った。ただ、すぐにそのどれでもないのだと悟る。何故なら次の瞬間、唸り声ではない声が聞こえてきたからだ。
「・・・な、なんで・・・、なんで、なんで、なんで・・・、なんで、なんでなんだ・・・」
同じ単語が連なったそれは、唸り声ではないが、ともすると呪文のように聞こえてくるものではあった。意味のある言葉が繋がりすぎて意味を失っているような、それ。しかし意味が分かれば、それが抑えがたい不服を洩らすものだと分かる。つまり、今までの唸り声も、不服から零れるものだったのだろう。
意味が分かったことはまぁいいのだが、まるで頑是無い子供のようなそれに、多少の違和感を覚えた。大人の、男。しかも殺人犯で、今も、一人の人間に危害を加えようとしていた男。
少なくとも僕の中での認識はそれなのに、男から聞こえてくる声が駄々っ子のような声なのだから、これは本当に押さえ込んだ男から聞こえてくる声なのかと、自分の認識が信じられなくて首を傾げてしまう。
しかしいくら僕が納得いかなくても、聞こえてくる声は間違いなく、男の声だった。続く声が、言葉が、それを肯定してしまったのだ。べつに否定してほしかったわけでもないのだが・・・、しかし聞こえない方がよかったのかもしれない。
何故なら男は聞いてよかったと僕が思えるような言葉は、一つとして吐かなかったのだから。




