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恋が変態  作者: 東東
【五章】自然も変態(或いは、変態も至善と言うべきか?)
24/29

「・・・おね、がいだから」


 呻き声のようなそれが、夜の静寂の中、不自然なほどはっきりと聞こえた。ともすれば縋る声にも聞こえるそれが、一体誰に向けたものなのか、判断は難しいだろう。

 ハルなのか、ハルでは話が通じないから僕なのか、それとも言葉が通じるか否かに関わらず、彼女が一番許しを乞いたいだろう存在の、残されている唯一の部位に対してなのか。

 分からないが、彼女が洩らした言葉の意味だけは分かる。『お願いだから』、この台詞は、たぶん、許してくれ、に繋がるのだ。許してほしいのは、自分が以前に取ってしまっている行動なのか、それともこれから取ろうとしている行動なのかは微妙だが、きっと、両方の意味があるのだと思う。

 あの時、自分がとってしまった、身代わりを差し出すかのようだった行動を許して下さい、そして、これから自分の保身の為に取る行動もまた、許して下さい、という意味。

 表情は、見えない。彼女は俯き、上から照らす街灯の灯りが、俯いた彼女の表情だけを影の中に埋め、僕らにその表情を見せない。ただ、見えなくても見えている気がした。

 おそらく、見えている気がするその光景は、僕の脳内だけにあるものだろう。今まで何度か目にした少女の表情のうち、記憶しているものから導いたものなのか、それとも完全なる想像で作り上げられたものなのかもまた、分からないが。


 少女・・・、あの、ハルが『嘘つき女』と表す少女は、そこにいた。残されている左手に、バッドを握り締めて。


 とても女の子らしい格好をしていたから、ミニスカートなんて履いているから、おまけに靴下も短くて、白くて細い、絵に描いたような美しい曲線を描く足を見せているから、だから、だから・・・、残されている左手が、真白に負けず劣らす細いから、とても何か、力の必要な作業をしそうにない手だから、少女、だから。

 握っている物の意味が、分からなかった。むしろ、何を握っているのかすら、見てすぐに分かるはずなのに、理解に及ぶまで酷く時間がかかって。

 もしかすると、スポットライトの下にいる、主役めいた姿をしていたのも原因の一つだったのかもしれない。スポットライト、つまり現実の世界とは切り離された世界に佇んでいるように見えたから、現実感が伴わず、理解すらも遠退いていた可能性はある。

 ただ、その他の理由もあったのだろう。・・・たとえば、僕自身が理解を拒んでいた、その可能性とかが。


 たぶん、少女が握り締めている物の意味を理解してしまったら、それで終わりのような気がしていたのだ。


 僕は、終わりを怖れて、そしてその訪れるかもしれない終わりに抵抗するだけの意志を持つことも出来ず、ただひたすらに何も理解しないままその場に立ち尽くしていた。

 心の片隅で、何も気づかなければこの認めたくない現実がなくなってしまうのではないかと、そんな有り得ない願望を抱いていた僕のその時間が次に動いたのは、一体、誰の所為だったのか?


 手に下げていたバットを前触れもなく振り上げた少女か、

 練習の成果を発揮してベルトからゴルフクラブを抜き去り構えたハルか、


 ──それとも、何かの指令を受けたかのように指先で地面を蹴り、跳ね上がった真白か、


 僕は、一歩たりとも動き出せない。息すら、その瞬間は絶えていた可能性が高かった。生きて、いなかったのかもしれない。その瞬間、だけは。

 だから、生きて、いなかったから・・・、僕の目には、その瞬間は酷く引き延ばされて見えていたのだろう。時間がその流れを緩めている、緩めすぎている、そう、見えて。

 誰が一番最初に動き出したのか、それは判別が出来なかった。ただ、最初に動き出したのが誰であれ、動きが速かったのは・・・、武器一つ持たない、身軽な真白だったのだ。

 庇うようにゴルフクラブを構えたハルの足下から飛び出し前に出て、その動きに目を見開いてハルが動きを止めた間に指先だけの力で軽やかに、けれど素早く更に前へと突き進んで行く。

 初めて見る、猛然とした動きだった。うろうろと動く姿は見せても、まさに飛んでいるように駆ける姿を見せるなんて、初めてで。

 当然、向かう先は一つ、考えるまでもなく、ハルと少しだけ距離を置いて対面に立っていた少女。スポットライトの下で、主役のようにバッドを構えていた、あの少女の元だ。

 ハルが、悲鳴のような声で真白を止めようとして叫ぶのが聞こえた。けれど同時に、もっと悲痛な叫びが、もっと悲惨な悲鳴がハルの声に被さるように聞こえてくる。少女の細い喉が今にも裂けるのではないかと思うほどの、甲高く、鋭い悲鳴。真白が駆ける先に立つ、少女の悲鳴。

 細い腕に似合わぬバッドを構えている理由は、勿論、振り下ろす為だったはず。そしてその対象は、今、まさに駆け寄ってくる一本の腕。少女が語った、少女の親友の腕。少女が理由で死んだ親友の、残された唯一の部位。

 少女が自分がしたことを怖れ、自分から外して捨て去った腕。けれど捨てた後で、報復を怖れて探し回っていた腕。


 ──報復される前に、始末しようと決めていた、腕。


 時間は、更に引き延ばされた。一秒が何倍にも伸ばされた時間の中で、たぶん、僕一人がある意味、観客のような心境で事態を眺めていた。舞台の全体を眺めるように、他人事のように、見える光景を自分も共有する現実として認識することなく、成り行きを見守るように眺めていて。

 狙っていた対象が駆け寄ってくるのだから、その振り上げているバッドをそのまま振り下ろせばよいだけのはずだった。飛んで火に入る夏の虫、まさにそんな状態が訪れようとしているのに、少女は悲鳴を上げて、全身を震わせている。顔を引き攣らせ、色を無くし、見開いた目から恐怖の涙を流している。

 あの涙にまみれた目では、きっと突進してくる対象を捉えることすら難しいだろう。本当に他人事のようにそんな感想を持っている間にも、少女と腕、真白の距離は縮まっていく。

 そして動けない少女の代わりのように、ハルがようやく、弾かれたように微かに跳ね上がり、動き出そうとして・・・、咄嗟に構えていたゴルフクラブをどうするべきかの判断を失い、身動ぎしたまま再び動けなくなってしまって。

 危害を与えようとしている少女の元に真白が向かうのを止めたい、危害を与えようとしている少女を始末したい、この二つの願いがハルの行動を一つに絞れず、その足を止めてしまったのだろう。

 そして躊躇している間にも、真白はハルと同じように自分の動きに決断を下せずにいる少女に到達しようとしていて。

 まるで、映画のワンシーンのようだった。あらすじは知っているけれど、ネタバレは見ていないので結末は知らない、そんな映画のラストシーンが訪れる、一歩手前のような現実感のない緊迫感。僕は、動かない。最初から、動くという選択肢がない。

 半ば当事者ではあっても、たぶん、僕はこのシーンにおいて、メインキャストではなく、ギャラリー的位置づけなのだ。

 ラストシーンに必要なわけではないキャスト。でも、その代わりにメインキャストの動きをじっくり見ていられるキャスト。

 見つめる先のラストシーンは、真白がその細い指先で出したとは思えない力で地面を蹴り、少女に向かって飛びかかった瞬間、見える前に見えた気がした。僕の頭の中だけで、現実より先に見えていたシーン。

 そしてその頭の中だけのシーンが現実のものとなった次の瞬間に見えるのは、真っ赤な、見てはいけない色だと・・・、そう、半ば無意識に思っていたのに・・・、


 実際に訪れたのは、まだラストシーンには程遠いそれだった。


 ・・・何が起きたのかが、自分の目で見ても尚、分からなかった。頭の中に描いていたシーンとはあまりにかけ離れていた為、今まで以上に現実感がなく、客観性さえ失って、何がなんだか分からなくなってしまったのだ。真白が飛びかかる、そのシーンまでは把握出来ていたのに。

 悲鳴が、聞こえた。それすらも機能を停止している脳では理解不能なものではあったが、耳は機能している為、とりあえず聞こえてはいた状態。でも脳が機能していないので、耳から入り込んた情報を処理出来ないでいた。

 耳以外にも目も機能はしていて、だから勿論見えていたが、やっぱり理解出来ていないので見えているぶんだけ脳が混乱してしまうという、悪循環まで起きていて。

 それでも僕の脳が機能しているかしていないかに関わらず、時間は間延びしたまま、流れていた。どれだけ延びても、止まって、僕の脳が機能を復活させるまで待ってくれることだけはしてくれなかったのだ。つまり、僕は僕の為に時間が止まってくれるほど、立派な、価値ある人間ではないということだろう。


 ──腕は、真白は・・・、飛びかかった。立ち尽くす少女に近づいていた、影に。


 少女がスポットライトの下にいた所為だったのか、それとも、僕らが僕らが見ようとしていたものしか見えていなかったからなのか、さもなければ、異様に気配がないか、物凄い、目にも止まらぬ早さで近づいてきていたのか。

 分からないが、まるで影の中に生まれたかのように、その影は埋もれてそこに在った。何時からか分からないほど、自然に。

 丁度、少女を照らすスポットライトのすぐ外、脇道のすぐ傍に、それは在った。そしてその、何時から在ったのか分からないモノがスポットライトの中に足を踏み入れるのとほぼ同時に、真白がそれに飛びかかったのだ。

 この場所において、僕も、ハルも、そして少女も気づいていなかったその影に、真白だけが気づいていたらしい。気づいて、少女ではなく、それに向かって突進して行っていたのだ。少女の傍に忍び寄っていた、その、影に。


「────っ! やっ、めろぉ!」


 一瞬の空白、時間は止まることはないが、空洞のような隙間を作ることはあるらしい。ぽっかりと空いたその瞬間の後、聞こえてきたのは初めて聞く、憎々しげな怒りに満ちた声だった。

 低い、大人の男の声。なんとなく耳障りな湿っぽいざらつきを感じるのは、声に理由があるのか、それともその声を発した人間が誰かによるのか、姿を目に入れてしまった後では判別が難しい。

 真白に飛びかかられ、白く細い、少女らしい可憐な曲線を描く腕が絡むには不似合いな、服越しでも分かる中途半端に無骨で、逞しさには程遠い太さの腕を振り回している男・・・、飛びかかった真白が指を喰い込ませてしがみついているその腕の持ち主の男・・・、引き攣らせているその顔は、一度しか見たことがないのに、はっきりと記憶に残っているものだった。


 あの、男だった。あの・・・、真白の、本体を殺したという男。

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