⑦
──だから、私はあの子を、あの子の腕を・・・、もう、始末するしかないって思ったの。
「私の、この手で」
「そっ、れは・・・、」
「ふざけんなよっ!」
もう、限界だった。怒りのあまり頭の血管が切れそうになっていたし、何本かは実際に切れていたのかもしれないが、とにかく、限界であることは間違いなくて。
立ち上がり、何かを言いかけたリュウの声を遮る形で怒鳴りつければ、俺の本気の怒りが伝わったのか、流石にリュウも、少し前までの冷たい言葉は吐かなかった。
目を見開き、何も言えないまま固まって、瞬きだけを何度も何度も繰り返すだけになる。まるで、目の前の現実が上手く把握出来ないでいるかのように。
そしてあの噓つき女の方も、何も言えずに固まっていた。息を詰めて、じっと俺を見つめてくるその目の中には、はっきりとした怯えの色が見えた。今にも襲われそうになっている、小動物のような目。
しかしそんな目で見つめられても、ひと欠片の同情も浮かばない。むしろ、その目つきに酷いあざとさを見て取ってしまい、余計に怒りが膨れ上がっていく。
感情が、全身の血を沸騰させていて、すぐに言葉が出てこない。喚き散らしたいモノは山のようにあるのに、言葉として形成するにはあまりにも感情が理性と知性の手綱から外れてしまっていて、腹に、喉に、その言葉に出来ない感情が詰まっているような状態だった。
今にも、詰まっている箇所が爆発して、全てを撒き散らしてしまいそうなほどの感情の昂ぶり。
今までの人生、たった十四年と少しではあるけれど、その中で経験したことのないほどの怒りだった。でも当然、なのだ。これが怒らずにいられるわけがない。だって、聞こえてきた台詞は、あまりにも、そう、あまりにも・・・。
「勝手なことばっかり言いやがって!」
押さえがたい怒りによって出なかった言葉の数々の内、ようやく最初の一言が、まるで他の言葉に押し出されるようにして口から迸った。同時に、脳が命令を下すより先に身体が立ち上がって一歩、前に踏み出す。
両手はきつく握り締められていて、身体全体が、怒りのあまり強く、強く震えていた。
たぶん、今の俺の状態を簡単に表すとしたなら、敵に遭遇した猟犬か何かだろう。敵に向かって吠えながら飛びかかり、その喉笛を噛み千切ると決意して、タイミングを図っている、そんな状態。握り締めた拳はいつだって開いて、敵に掴みかかり、爪を立てる決意が込められている。
次の言葉が出ない。最初の言葉を押し出してから、他の言葉がまたもや詰まってしまっている。でも、もうどうでもいい。怒りが全身に満ちた今、俺が取るべき次の行動は決定されているのだから。
両手が、握り締められていたそこが解け、身体が女の方向へ自然と向かっていく。足も一歩、また一歩と踏み出して、更に次の一歩を決めている。つまり、標的に向かっての前進。もっと言うならば、敵に向かって最大の攻撃を仕掛けようとしているのだ。・・・その、息の根を止めるの攻撃を。
そして、四歩目まで踏み出した段階で、身体は前傾倒。突き進む体勢に入り、まさに全力で敵に向かって走り出そうとした、その時だった。
「ちょっ、ストーップ!」
「・・・はぁっ? リュウ! 離せよっ!」
「いやっ、無理だって!」
固まっていたはずのリュウによって、羽交い締めにされてしまったのだ。一体、いつの間にその硬直が解けていたのかは分からないが、俺が怒りで敵しか見えなくなっているうちに硬直が解けたらしいリュウは、知らない間に俺の真後ろに回り込んでいて、俺がまさに本格攻撃に移らん、というタイミングで後ろから俺の両腕の下から自分の腕を突き出し、掬い上げる形で俺の腕をしっかり抱きかかえてしまって・・・、身動きが、取れなくなってしまった。
勿論、叫ぶ。抗議の雄叫びが口から迸る。当然だ。打破すべき敵が目の前にいて、打破する意志が俺にはあるのに、どうして邪魔されなくてはいけないのだ? しかも邪魔してきているのは俺の親友なのだから、抗議の声も強くなろうというもので。
捕らわれた腕に渾身の力を込め、リュウのその拘束を解こうと力の限り暴れる。口でも、殊更強い口調で抗議の声を上げ続けるのだが、しかしリュウの拘束は何故か解けない。それどころか、益々強くなっていく。
背後からは、リュウの「落ち着け! 頼むから落ち着いてくれよっ!」という悲痛な声が聞こえてはきていたが、意味が分からない上に理不尽な懇願なので、俺も素直に従う訳にはいかない。
だって、敵が目の前にいるのだから。
「マジ、離せって! アイツをっ、アイツを・・・、俺がっ、この手で!」
「いや、だからそれが駄目なヤツなんだって!」
「駄目なわけないだろっ! リュウだって、今の話聞いてただろ! あんな勝手な話、許せるのかっ?」
「だからっ、気持ちは分かる! 分かるけどっ、でも・・・、」
「分かるなら離せ! 俺はっ、俺は・・・、正義を全うする!」
「いやっ、だからハルの正義は全体的に大体拙いヤツなんだって!」
「何が拙いんだよっ!」
「社会的に拙いんだよっ!」
一体何故、親友は常に俺の敵に回ってしまうのか・・・? どれほど暴れも、リュウの腕は離れない。普段、結構な非力人間のくせに、どこにこんな力を隠し持っていたのかと不思議に思うほど、その力は強くて。
しかし、それだけ強い力で拘束されようとも、俺の心が折れることはない。顔を引き攣らせ、色を無くしている目の前の身勝手すぎる女に天誅を下すのが、俺の使命なのだから。
だから、必死で暴れる。勿論、いくら俺の敵に回っていようとも、友は友。暴れた手でリュウを殴りつけないように、それだけは気をつけながらも暴れに暴れ続けて・・・、全体的な力もそうだけれど、持続力も俺の方がリュウより遙かに高いし、強い。段々とリュウの腕からは力が失われ始め、これならもう、勝利は目の前だと思ったその時、だった。
唐突に、一度は抜け掛けていたリュウの腕の力が復活し、多少は動かせるようになっていた俺の腕が物凄い力で締めつけられる。そうかと思うと、すぐ耳元から、滅多に聞かないぐらいの音量で放たれる、リュウの声が聞こえてきて。
「にっ、逃げて!」
「・・・はぁっ?」
「とりあえずっ、一旦、逃げて! ちょっと、ハルのこと落ち着かせるからっ、また後で、話の続きは聞かせて下さい!」
「・・・ちょっ、何言っているんだよ!」
耳元で放たれた、半ば絶叫染みた声は、あの女に向かってとんでもない台詞を象っていた。それは、俺が下すべき天誅の完全なる邪魔立てを意味しているのだから、咄嗟に何を叫んでいるのか理解出来ないくらいの驚きを抱くしかない。
しかしリュウの第一声で驚きのあまり間の抜けた声を上げているうちに、リュウは女に対して更に重ねて逃避を促し、挙げ句、まるで俺が興奮のあまり見境を失っているかのような失礼発言まで重ねやがったのだ。
確かに、興奮はしている。怒りのあまり、激情のあまり、なんだか色々な数値が上がっているし、そろそろ鼻から鼻血くらい吹き出しそうな状態に陥ってはいるのだが・・・、でも、べつに理性を手放し、知性を捨て、一切の見境をなくして意味も無く喚き散らしているわけではない。むしろ、冷静なくらいなのだ。
冷静に、敵を潰すことだけを考えているとでも言うべきか。
そんな俺に対して、有り得ない発言。おまけにあんな身勝手な発言をしている女の話をまだ聞くつもりらしいのが、いっそう信じられない。なんであんな女の話をこれ以上聞きたいのか? というか、一体これ以上、何を聞きたいのか?
あの女の話に価値も意味も無いなんて、もう分かりきっていることなのに。
怒りは、どこまでも膨れ上がっていく。こうなったら、腕がぶつかろうがどうなろうが、渾身の力で暴れてこの拘束を解くしかないのかもしれないと、そこまで思い詰めて睨み据えた先では・・・、あの女が、じっと俺達を見据えたまま、引き攣った顔で後退りをし始めているところだった。
「リュウ! マジ、離せ!」
「はっ、早くして!」
「早くするのはオマエだよ! とっとと離せってぇ!」
「急いでぇー!」
叫び声は、まるでスタートダッシュを促す笛のような役割を果たしたらしい。女はリュウの叫び声が響き渡った途端に踵を返し、公園の出口へ向かう。そして俺が次の咆哮を上げるより先に外に出て、そのまま一度も振り返ることなく走り去ってしまったのだ。身勝手な言葉ばかりを、この場に山のように残して。
知らないうちに・・・、いや、おそらくあの女の姿が見えなくなったのと同時に、身体から力が抜けていた。力が、なくなったわけじゃない。ただ、ジャンプする前の溜めのように、身体の奥深くに力が引っ込んだ感じだ。この力を解き放つべき相手が逃げ去ってしまったが故の現象。
諦めというよりは、虚しさに近いだろうか? もしくは、哀しみを伴う悔しさか。
俺の身体から力が抜けていったからだろう。リュウも、あれだけ離さないでいた俺の拘束をゆっくりと解いていく。そして離された腕の代わりに、リュウは静かに俺の肩を数回、軽く叩いた。
それは何かを励ますようでもあり、慰めるようでもある仕草だ。もしくは、あれだけ対立するような行動を取りながらも、心はやっぱり親友なのだと訴える仕草にも似ていた。
「気持ちはさ・・・、分かるんだけど・・、さ」
「リュウ・・・、じゃあ、なんで・・・」
「だって、暴力はどんな理由があっても、振るった方が悪くなるんだぞ? オマエにそんなこと、させられないだろ」
「・・・リュウ!」
静かな溜息とともに切り出された一言に、つい先ほどまでの態度を問えば、もう一つ溜息を吐き出しながら静かに、諭すような言葉が聞こえてくる。静かではあるが、微かな懊悩が感じられるそれに、たった今まで友として理不尽な態度を取られていたと思っていただけに、物凄い感動を覚えてしまった。
思わず身体の向きを変えて向き合う形でその顔を見たリュウは、困ったような微笑を浮かべて、再び俺の、今度は両肩にその手を乗せ、数回、軽く叩くと、分かっているよと言わんばかりに何度か頷いてから、真っ直ぐに俺を見据えてその口を開く。
「僕だってさ、ハルの正義感は分かるよ。それは分かるけど・・・、でも、どんな正義も暴力を振るった途端、それは正義じゃなくなるんだ」
「・・・そう、かもしれないけど」
「そうなんだよ。そりゃ、あの子の言い分は身勝手だよ。どんな言い訳しても、真白の本体を自分の身代わりにしたのは確かだし、保身の為に警察に事情を話しもしていないんだから、咎められても仕方がないと思う。ハルがあの、自分のことばかり優先して、友達を犠牲にしたこと、その償いもしていないってことを怒る気持ちは、本当に分かるよ・・・」
「・・・リュウ?」
「僕だって、そりゃ、あの身勝手さにはイラッとしたし、もう少し、自分のことばかりじゃなくて、亡くなった友達に申し訳なく思えないのかって、怒鳴ってやろうかと思ったもん。まぁ、怒鳴る前にハルが暴れ出しちゃったから、それどころじゃなくなっちゃったけど・・・」
「あぁー・・・、それはまぁ、悪かったかもしれないけど・・・、でも、リュウ・・・」
「本当だよ。ハルが暴れ出さなかったら、流石の僕も、一言くらい怒鳴ってやってたよ? いい加減にしろ、少しは死んだ友達のことも考えろってね」
「えーとぉ・・・、そりゃ、なかなかいい心がけだとは思うけど・・・、なんか、さ・・・、俺も同じ感じで怒鳴る的な話の流れになっているような気がするんだけど・・・、気の所為かな?」
「・・・は?」
敵対する関係から、本当は敵などにはなっておらず、ずっと味方であったことを確認し合い、熱い友情が取り交わされる、そんな麗しいシーンのはずだった。
しかし訪れるはずだったシーンは、途中からその方針を変えて少々思っていたのとは違った方角に向かってしまったようだ。少なくとも、俺からしてみるとズレている。
リュウの言葉は、人の良いリュウならではで、それ自体はリュウの言動として、おかしいものではない。ただ、何となくなのだが、そのリュウの人の良さから発揮されている正義感と同じ正義を、俺に求めているような気がしたのだ。
求めているような気、というか、俺も同じ正義を持ち、その正義をかざしていたに違いない、という思い込みとでも言うべきか。
確かに、正義はかざしていた。そのかざす正義の名の下に、俺はアイツを叩き潰そうとしていたのは事実だ。・・・が、それはリュウが今、語っている正義とは違うモノで、リュウはそのことに全く気づいていないような気がするのだ。
リュウの語る正義が俺には適用されないってことを、そろそろ長い付き合いなのだから気づいていても良さそうなものだと思うのに。
「だからさ、もうどんだけ言ったか分からないけど・・・、俺、腕がくっついている部位に、一切の興味、ないけど?」
腕だけが大事、腕だけを愛している、腕から先なんて価値あるの? ・・・というのが、俺の正義だ。
リュウにはもう何度も語ってるはずなのに、どうも人が良すぎるリュウは、腕から先の余計な部位にまで心を傾け、しかもそれがあまり人が良くなく、腕から先のどうでも良い部位に親切に接する気がない俺も同じ思いを抱くに違いないという思い込みが払拭出来ないでいるらしい。そろそろ、分かってくれても良い頃だと思うのだが。
あまりにも理解が遠いリュウに少しだけ呆れるような思いが無きにしも非ずだが、全てはリュウの人の良さ故なので、それだけ人が良い人間を親友にもてている感謝の念を込めて、改めて説明をしてやることにした。人の良さ故だとしても、仮にも親友に誤解をされ続ける人生を送るのは、あまりに虚しいと思ったから。
だから、真っ直ぐにリュウを見据え、聞き取りやすいはっきりとした声、理解しやすい簡潔な言葉を意識して、それを告げた。
「あのな、あの女が身勝手に、自分が親友だって主張している人間を死なせたとか、自分が誰かに咎められるのが嫌でそれを黙っていたとか、そんなモン、どうでもいいんだよ。確かに身勝手だと思うし、聞いていて気持ちの良い話じゃないだろうけど、でも、それだけのことだろ? 気持ちが良くないって、ただそれだけの。べつに、気分が良くない話を聞いたからってだけで、俺だってあそこまでの戦う意志を持つわけじゃないって」
「それって・・・」
「俺が戦う意志を持つのは、腕から先にくっついている、要らん部分の為じゃない。俺が戦うのは、あくまでも腕の・・・、真白の為だって」
アイツが俺の愛する真白を始末するなんて許しがたい暴言吐きやがったから、この手で始末してやろうって、そう思っただけだって。
「ってか、やろう、じゃなくて絶対アイツ、始末してやるけどな! やられる前にやる、ってヤツだよ。あんな碌でもない女に、俺の真白は指一本触れさせないからなっ!」
「・・・そう、いう意味の・・・、さっきのって・・・」
「ん? そういう意味の? あぁ、俺がさっき怒っていたのはそういう意味かって質問?」
「・・・そう」
「そりゃ、そうだろ。他に怒るようなこと、ないじゃん。でも、まぁ・・・、怒っていた、って過去形じゃなくて、怒っているっていう現在進行形だけどな。俺の真白を、俺の、真白を・・・、アイツ、マジ、殺す! さっきの真白への危害宣言は、万死に値するからっ!」
「・・・ばっ、」
「え?」
「万死に値するのはオマエの方だぁっ!」
少しはまともな理由でまともな感性を呼び起こせるようになったんだと思ってたのにっ!
「ぼっ、僕の感動を今すぐ返せぇー!」
「いやっ、返せって言われても、意味が分かんないんだけどっ?」
「どうして人が殺されたって話が出てるのに、何も思わないんだよぉっ!」
「いや、どうしてって言われても、だから腕以外は・・・、」
「うっさぁーいっ! このっ、ウルトラ馬鹿野郎ぉー!」
・・・何故か、壊れた。親友が、非常に危険なレベルで壊れてしまった。一体何故、壊れてしまったのか、俺としては全く心当たりがない。俺はただ、懇切丁寧に親友の思い込みを訂正してあげただけなのに、何故か盛大に意味が分からない罵倒を口にしながら、両手を頭で搔き毟って取り乱している。
挙げ句、俺の言葉を物凄い罵声で遮るのだから、これぞ理不尽、という感じだ。一体何故、親友にこんな理不尽な罵倒を受けなくてはいけないのか? しかも愛する者の為に、決意も新たにしている今、この時に。
──人間って、難しい。
腕のようにシンプルにいられないのは、腕以外に色んなモノがついているからなんだろうな、とか色々と思いながらも、搔き毟ってぼさぼさになってしまった頭を振り乱して何かを騒いでいる親友を、俺はその時、ただ眺めているしかなかった。
・・・本当は敵を追いかけ、渾身の一撃を・・・、いや、一撃と言わず二撃、三撃と与えなくてはいけないのではないかという考えが頭の端にあるにも関わらず、親友の錯乱具合を案じてこの場に留まる、俺ってかなり友情に厚い人間なんだなぁと、その時、俺には自分で自分の性質を自画自賛するより他に、出来ることはなかった。




