②
変えられない現実を抱えて、結局、僕は孤独な戦いに出るしかなかった。
・・・元々、色んな意味で孤独な戦いをずっとしているような気もするし、戦いに出るなんて格好良い、自主的な行動でもない気もするのだが、この辺りの事情を追求するとまた涙が溢れてしまうので、少しだけ眺めた後、何も見ません、という張り紙を心の集積所に置いておいた。
今は、涙で目を曇らせている場合じゃないのだ。瞬きさえ極力制限して、目を見開いて見つめなくてはいけないのだから。全ての状況をまずは嘘偽りなくはっきりさせる為に、必要な情報を持つと思われる・・・、あの子を、見つけるべきなのだ。
頭の片隅で、どうして自分の家が経営している店を、こんな、出入り口が辛うじて見える脇道からこそこそと眺めなくてはいけないのかという疑問が掠めているし、少し外に出てくるとだけ言って部屋から出た僕に、「へぇー・・・、ぐふふ」という、返事をしたのかしてないのか、微妙な声だけを漏らしたハルの態度にも筆舌し難い悲哀を感じているし、っていうかどうして外に出るのか、外に出るってどこに行くのか等の、具体的な問いを一切発しなかった態度にも、悶絶せんばかりの苦悩を覚えるが、目的がはっきりしている今は、辛うじて諸々を堪えられる気がする。・・・たぶん。
少なくとも、あの、ハル曰く、『嘘つき女』と名付けられている少女を見つけるまでは。
何かを隠している、嘘をついているということは、何かを知っている、ということだ。つまり、真白のこともその真白の本体を殺したという男のことも、また少女自身のことも、ちゃんと確認が取れるのは当の少女以外にない。そして事情をちゃんと把握しないと、身の振り方が決められない。
警察に行くのが一番だとは思うけれど、それすら決断出来ないのだ、この、何も分からないままでは。
・・・とはいっても、ここで店を張っていればあの少女を見つけられるのかと聞かれれば、全く自信はない。ただ、あの少女は真白を探していて、その真白を保有している僕やハルを探しているのだから、ここに来る可能性はある気がする。
おそらく、彼女としてはハルが出入りしそうな場所といえばここくらいしか心当たりがないはずで、それならこの辺を張っていれば見つかるのではないか、というぼんやりとした発想しか浮かばなかったというだけのことではあるのだが。
探しているはずの真白を見て、あのハルが怒りのあまり興奮するほどの悲鳴を上げて逃げ出した点には、謎が残るのだが。
本当に真白を探しているのか、探しているなら何故逃げるのか、分からないことは増えるばかりで、一向に減らない。
でも、あれだけ絶叫を上げるのに探していたくらいなのだから、たぶん、何かある。何かあるなら、向こうとしては僕やハルに接触したがるだろうし、だとしたら、ハルが出入りしている姿を目撃されているこの場所が可能性がある・・・、はず。
本当にその可能性があるのかどうかは、実はかなり自信がないけど、そう思わないと何も出来ない。どこの誰とも分からない少女に接触しようとしているのだから、微かな可能性に縋る以外、術はないのだ。
自分で自分に、少ない可能性にそれでも縋るしかない現状を言い聞かせながらも、何となく脳裏に当の少女の姿を思い描く。それは昨日、謎の絶叫を上げて走り去った姿ではなく、最初にその姿を見かけた、僕に声をかけた一昨日の夜の姿だった。
突然、夜道に現れ、腕を返せと迫ってくるあの姿が鮮やかに脳裏に蘇り、中身の入っていないシャツの右手部分が微かに揺れる様が、今、目の前にその姿が存在しないのが不思議なほどの質感を持ってそこに在る。
・・・あの中身がどうなってしまったのか、彼女は語っていない。
昨日、ハルがそれを指摘した途端、少女の様子はおかしくなったらしい。触れられたくない話題だったのだろうけど・・・、真白が彼女の腕ではないのなら、あの彼女の腕はどうしたのかとは自然と誰でも疑問に思うだろう。
思うだろうが、しかし、あの夜、感じた恐怖が今となっては・・・、真白が彼女の腕でないと分かった今では、その恐怖が和らいでいて、だから疑問を抱くと同時に、感じる微かな安堵が疑問を覆うように、その疑問自体を和らげているのも感じていた。
そしてその和らぎが、昨日、絶叫を上げて逃げ出す姿からも感じられている。
たぶん、真白のことを自分の腕だと語る少女のそれに、僕は真白と名付けて腕を勝手に保有しているという後ろめたさが刺激され、何をされてもおかしくないという恐怖心があの少女の不気味さに加味されてしまい、あそこまでの恐怖を感じていたのだろう。
でも、真白はあの子の腕じゃない。あの子が知っている子の腕なのかもしれないが、少なくともあの子は本体ではないのだという事実が、仕返しをされる覚えはあまりないという安堵に繋がり、また、理由は分からないが、恐怖して叫んで逃げるという、ある意味、とても人間らしい姿を見ることによって、あの人間じゃないっぽい雰囲気が少し遠退いたのだ。
あの夜のイメージのままの少女からは話を聞く気にならないが、昨日、逃げ出したあの後ろ姿を持つ少女相手なら、どうにか話が出来るような気がする。
・・・まぁ、話をちゃんと聞き出せるかどうかは別問題かもしれないし、聞き出した話が本当のことなのかどうかもまた、別問題なのかもしれないが。
まず第一は、殺人犯をどうするか、第二は、真白をどうするか、だな。
優先順位を自分の中で確認しながらも、何故か大変なはずの第一問題より、第二問題の方が厄介な気がしてならない。殺人犯は警察に通報するべきだし、真白は勝手に所有するわけにはいかないのだから、然るべき人や場所に引き渡すべき。
両方、結論は出ているはずなのだが、第二の問題の前に親友であるはずのハルが立ち塞がっているので、解決出来る気がしないのだ。
最大の敵が親友ってどうよ? ・・・という自問自答を抱えながらも、とにかく、今はまず、第一の問題をどうにかするべきなんだ、そっちは命に関わるかもしれないんだしと、多少、逃避っぽい思考で優先順位を全面的に押し出し、他のあらゆる問題から逃れるべく、眦が痛むほど目を見開いて店の出入り口を凝視する。
瞬きなんて機能、もう捨て去りました、と言わんばかりの力で。
べつにその眼力が通じたわけではないのだろうが、その時、妙にタイミングよく見つめる先に人影が現れた。ぬっと、まるで中から押し出されたみたいに店の中からゆっくりとした動きで出てくるその姿は、最初、薄暗い店内の影を背負っているように暗く、中にある影の延長かと思えるほど生き物らしい生気が感じられなかった。
捨てたはずの瞬きという機能を取り戻したのは、目が渇いてしまったからではなく、見えているモノが現実であるときちんと認識する為だった。そして数度の瞬きを行っているうちに店の影から出てきた男は、初めて見かけるようでいて、初めてではないような、何度も見かけたことがあるのに今日初めて見たような、奇妙な印象を抱かせる男だった。
少し縮れた感じの髪をぼさっと伸ばし、薄汚れたジーンズに黒っぽいコートを纏った、猫背の男。俯きがちなので顔は見えないが、雰囲気からして暗そうというか、オタクっぽいというか、変態っぽいというか、とにかく、うちの店に似つかわしい外見と雰囲気をしていて、もしかして店番をしていた時に視界の端に納めた常連で、その所為で初めて見たような、初めてではないような印象になったのかもしれない、と思う。
ただ、それにしても何かが頭の端に引っ掛かっている。目で見る以上に、頭の中で、今、目にしたパーツが書き留められていたような、そんな印象があるのだ。店から出て歩き去って行く男の事前情報を、まるで誰かに与えられていたかのような・・・。
『あぁいうさ、変態っぽい奴が金に物を言わせて綺麗で可愛い子達を買っていかないように、法律で制限するべきだと思わん?』
端から見てればほぼ同類なんだから、そんな法律出来たら困るのはハルだろっ・・・、等と心の中で渾身の罵倒を投げつけた昨日のハルの姿が、突如として脳裏に蘇ってきた。アレは、何の会話だったのか? 前後に交わしていたのは、何の話だったのか?
疑問がいくつか脳裏を掠めた次の瞬間には、答えは出ていた。そして答えが出たのとほぼ同時に、身体は動き出している。まさに弾かれたように隠れていた脇道から飛び出して、まず、歩き去った男の姿が通りの彼方に遠ざかっているのを確認してから、店のドアを開けて中に飛び込み、後ろ手にすぐさまドアを閉める。
突然、飛び込んできた僕に驚いた表情を浮かべたのは、カウンターに座っていた店主である、父親だけだった。店の中には客が数名いたのだが、いつも通り、それぞれの気に入りの部位を見つめるのに夢中で、結構な勢いで、それなりの音を立てて中に入ってきた僕に意識を向ける客は一人もいない。それどころか、たぶん、気づきもしていないのだろう。まぁ、これはいつもの事だから、いいとして。
「おっ、お父さん!」
「馬鹿、入ってくるならもうちょっと静かに入って来い。店だぞ」
「平気だろ、全然っ」
「まぁ・・・、そうだけどっ、それはいいの!」
動じることのない客をこっちも無視してカウンターに突進し、半ば縋るように父親に声をかけると、店主として当然といえば当然の反応として、僕の騒々しさを咎めてきた。
でも、正直咎められるほど迷惑をかけているとも思えないので、ばっさりとその糾弾を切って捨てる。すると咎めはしたものの、父自身、義務として咎めただけなのか、特にそれ以上何も口にしなかった
・・・そんなにどうでもいい糾弾なら、初めからしなければいいのに。
小さな不服を飲み込んで、とにかく糾弾を終えた父親の元にカウンターを回って近づき、誰も聞き耳を立てる相手がいないのを承知の上で、それでも声を潜めて店に飛び込んできた理由を口にした。
今、どうしても聞きたいこと。確認したいこと。そうしないわけにはいかないこと。
「ねぇ・・・、今さ、店から出てきた人、いたじゃん? あの、変態っぽくてオタクっぽい、暗そうな男」
「あっ? うちの店の客は、大体そんな感じの人ばっかりだけどなぁ・・・、まぁ、男だけじゃなくて女もさ」
「・・・いや、知っているけど。それ、お父さんが言うの?」
「そりゃ、店主だから。客層と客質は捉えておかないとな」
「・・・そうかもしんないけどさ、店の中で、言う? それ」
「どうせ誰も聞いてないだろ」
・・・じゃあなんでさっき咎めたんだよ、とまた飲み込んだはずのさっきの不満が復活してくる気配を感じながらも、無理矢理その不満をもう一度、喉の奥に押し込んだ。
この店のこと、店の商品のこと、客のことを深く追求してみても、あまり僕の為にならないのだから、こういうことは飲み込んでなかったことにしてしまうのが一番なのだ。
色々深く追求してしまうと、じゃあ、この店が上げる利益で生活している僕って一体、という自分の日常に関する根本的な問題にまで疑問が波及してしまうので。
そういう、追求しても無益なことは余所に置いておいて、一つ、深呼吸をした後、再び問いを戻す。今は少しでも有益なことに時間を費やさなくてはいけないのだから。
「あのさ、たった今、出て行った人のことなんだけど。ほら、縮れた感じの髪がぼさっと長くて・・・、っていう人も多いけど・・・、ちょっと汚れた感じのジーンズに黒っぽいコート・・・、って人も多いけど・・・、猫背でさ、俯いていて、もういかにも影を背負ってますっていう・・・、人も多いけど・・・」
「あぁ、さっき出て行った人」
「だからそう言っているじゃん!」
「店の中で大声出すなよ」
「誰も聞いてないって、自分でもさっき言ってたじゃん!」
・・・何故、僕の周りは会話が進まない人間が多いのか、どうして僕と近しい肉親ですら、僕の話を聞かないのか、世の中が僕に対して無情すぎて、気が遠くなりそうになる。
僕はここの家の子供じゃないんじゃないかという微かな希望が湧いてきてしまうが、しかしそれも今、目の前にある父親の顔と、たぶん家にいるだろう母親の顔を思い浮かべた途端に潰えてしまう。いとこ同士だけあって顔がどことなく似ている両親に似た僕の顔が、血縁関係を否定させてくれないのだ。
僕の希望は、一体どこを探せば出てくるのだろうか?
探しても見つからない希望を求める心を余所に置いて、僕の抗議を聞いているのかいないのか、しらっとしている父親にもう一度、気合いを込めて口を開く。
僕の希望はどこを探しても見つからないが、抱いた希望を打ち砕かれるたびに、こうして少しずつ、少しずつ、僕は希望がなくても生きていける、強い人間になっていくのかもしれない。
「あのさ・・・、あの人って、よくうちに来るの? 常連?」
「ん? あぁ・・・、そう、だなぁ・・・、よく来ると言えば、よく来るか? 何回か見かけている気がするな。まぁ、うちは大抵の人間が常連みたいなもんだから、何回か見かけていれば、たぶん、常連だろ」
「アバウトだなぁ・・・」
「あんまり買っていってはいないからな、そこまで印象にないんだよな。見ていく専門っていうか。見ていく専門の常連も結構いるけど、そういう人は長く来ているか、何か印象的なことがない限りはいちいち覚えてられないだろ。ハル君みたいに、元々知っている子ならそりゃ、覚えているけどさ」
「・・・ハル、日課だもんね、ここ来るの」
「そういや、ここ数日、見てない気がするけど、どうかしたのか?」
「・・・どうもしない、全然、どうもしない」
「来てないよな?」
「・・・どうもしないけど、ちょっと、色々・・・、立て込んでいる的な感じなだけ。他に理由はないから、全然」
「立て込んでいるって・・・」
「いいんだよっ、それは」
強い心で望んだ父親との問答は、何故か追求されたくない方向へ進んでいく。いくら父親とはいえ・・・、いや、父親だからこそ、そしてこんな店を経営しているからこそ、いくら追求されても答えるわけいはいかない。
親を巻き込みたくない・・・、というか、我が親ながら、どういう対応に出るのか想像もつかないし、想像はつかないが知識はあるからもっと想像を超えていて、怖くて何も言う気にならない、というか。
追求してほしくないことほど追求されてしまうのが世の常で、うちの父親も例外なく、何故か微妙にしつこく聞いてくる。伸ばされるその追求の手を、ある種の根性だけでばっさり切って捨て、怪訝そうな表情を浮かべている父親の無言の更なる問いを無視し、何も問題ありません、という顔で話題を向けたい方向に戻した。
「あの人・・・、どういう人?」
「どういう人って?」
「いや、何しに来ている人って言うか・・・、何が専門とか・・・」
「見ている人だって言っただろ。まぁ、好きなのは・・・、」
話題を戻したのはいいが、一体何をどう聞けばいいのか分からず、酷く曖昧な問いを発してしまった。しかしそれでも曖昧に思いつくままに発した問いに、父親は首を傾げ、思い出すように宙に視線を向けて、数秒、黙った後に・・・、僕が聞きたかったのかもしれない答えを見つけてくれる。それが、有り難い答えだったのかどうかは分からないけれど。
「たぶん、腕だろ。さっき、見ていたからさ」と。




