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恋が変態  作者: 東東
【三章】鋭利で変態(或いは、変態で栄利と言うべきか?)
14/29

 

「ハル!」


 今にも視線を向けようとした方向から投げかけられた、唐突過ぎる声だった。聞き覚えがありすぎるそれは、慌ただしい足音と共に近づいてくる。

 元々向けようとしていた視線はあっさりとその姿を捉え、そして・・・、驚きのあまり、何かが口から目から、それ以外のありとあらゆる場所からも迸りそうになった。

 俺の方向へ駆け寄ってくる、リュウ。酷く焦った顔をして、それ以上に焦った姿で駆け寄ってくる姿も驚くに値するが、本当に驚いたのは駆け寄ってくるその腕の中を見てしまったからだ。

 上着か何かを抱きかかえているように見える、その胸元。青いその上着を固めたように見えるそれを両手で抱え、引き攣った顔で駆け寄るリュウは、おそらく、焦りのあまり周りがまだ見えていない。俺のすぐ目の前に、リュウ自身が怖がっていた女がいることすら視界に入っておれず、どんどん近寄って来て。

 俺自身も、止めなくてはという焦りが身体を占拠し、咄嗟に口を動かすことが出来なかった。そして何も出来ないでいるうちに、リュウは駆け寄りながらも大声を発して訴えてくる。


「なんかっ、ヤバイんだけど! よく分からないんだけど、なんか、すっごい落ち着きがなくなっちゃっているっていうか、暴れるっていうか・・・、もうどうしようもないからとりあえずこっちだけでも連れてきたんだけど、これ、どうしたら・・・!」


 抱え込む手は、必死で力一杯上着を押さえ込んでいる。見える手の甲に、筋が見えるほどの力だ。

 でも、端から見て上着を抱えているようにしか見えないその腕の中に、上着の中に、他の存在が包まれていることは誰に説明されずとも、その姿を認識した瞬間にも、分かっていた。気がついていた。

 たとえ腕の中、抱え込んでいる上着が、微かに動く仕草を見せなくても。

 分からないわけがない、俺の愛は本物なのだからと頭の片隅で断言しながらも、焦りは更に加速する。だって、リュウの腕の中に今、抱え込まれている存在は、あの愛しい気配は、間違いなく、俺の最愛の人、真白なのだ。

 ぶっちゃけ、真白が、たとえ親友とはいえ他の男に抱かれているという現実にもいらっとするものが無きにしも非ずだが、今はそれ以上に気にしなくてはいけないことがある。


 俺のすぐ目の前にいて、俺の鋭い攻撃を受け、もう再起不能になったはずの敵の存在だ。


 再起不能になったままなら別に問題はない。ただもし、近づく存在に気付き、うっかり再起して、また俺の愛しい存在を奪おうとし始めたら・・・、リュウでは、真白を守りきれない!

 ようやく、身体が、頭が、動き始める。早くリュウの元へ駆け寄って、真白を守らなければと、今、成すべきことに考えが至り、足が、最初の一歩を踏み出す。

 同時に、動き始めた脳が、大丈夫、まだ、大丈夫のはず、と励ましてくれる。真白の姿は、上着に隠されて見えていない。俺のような真実の愛を持つ人間ならいくら隠されていようとも気づくが、嘘つき女のように、偽りばかりに自分を固め、真実の愛を一つとして抱いていない人間に、あの隠された存在を察知する能力はないのだから、と。

 あと心配なのは、リュウの雄叫びの意味を察しないかどうかだけだ・・・、そう、自分で自分に説明し、だから落ち着きを取り戻すようにと説得し、更に二歩目を踏み出して、さぁ、いよいよ走り出すぞと身体の末端までその指令を届け終わる、その寸前。一歩、いや、たぶん半歩程度、遅かったのだと思い知らされる羽目になる。


「・・・おわぁっ!」


 引き攣った、息を吸い込むような悲鳴が聞こえてきた。勿論、リュウの声だ。足音が止まり、更に慌てた「げっ、ちょっ!」という、言葉にならない悲鳴も聞こえてくる。

 何が起きたのか、そんなもの、想像する必要も無いほど簡単に分かった。だって、俺の視線はそちらに向いていたのだし、たとえ見ていなかったとしても、この状況下でリュウがそんな悲鳴を上げる事態、一つしか考えられないのだから。


 ・・・かけられている上着を鬱陶しがったのか、手首の動きで振り払うようにして、真白がその白い肌を覗かせていた。


 手首から下は、上着に埋もれたままのでよく見えない。ただ、手首から上、まさに白魚の、と評すべき指先までは完全に上着から抜け出してしまっていて、何かを探すように手首を捻っては向きを変え、五本の指先が可憐な仕草で動いている。

 ハルが叫んでいた通り、まさに落ち着きを失った状態。抱きかかえるハルの腕から抜け出たがっているのがはっきり分かる、その動き。

 俺を待ちきれなかったのか、ハルに馴染めないでいるのか、はたまた他の理由なのか・・・、どんな理由なのかは分からないが、確かなのは今、その美しい姿があの嘘つき女の目にも映っている、真白がすぐ傍まで近づいていることを知られてしまったという、事実だけ。

 そしてそれを知られてしまったということは、これ以上無いほどの危機のはず。


 なんせ、相手はとにかく、真白を奪わんとしている不逞の輩なのだから!


 身体が、行き先を複数持ってしまい、その動きを逆に弱めてしまう。リュウの・・・、否、真白の傍に駆け寄って両手を広げ、身を挺して守りたいという気持ちと、あの嘘つき女に突進し、この命に変えてもアイツを倒す、という気持ち。

 二つの気持ちが俺の身体をそれぞれの方向へ連れて行こうとした所為で、まるで左右から身体を引っ張られてでもいるかのように固まってしまい、ただただ、気だけが急いて。

 視界の端に映るリュウは、ようやく俺以外の存在に気づいたらしく、その足を止めている。

 しかしリュウも気持ちが焦っているのか、引き攣った表情を浮かべるだけで真白を抱えたまま、身を翻すことも真白を再び隠すことも出来ないで固まっている。その目に、顔に、ひたすら動揺だけを浮かべて、何の判断も下せない状態で立ち尽くす、その姿。

 とにかく駆け寄ろう、リュウじゃ真白を守りきれない、視界の端に捉えたリュウの姿に、ようやく気持ちが一つに纏まって、中途半端に少しだけ踏み出したままだった先に全力で走り寄ろうとして・・・、方針を固めたはずの俺の足は、予想外の理由によってその動きを阻まれてしまった。


「あっ、あっ・・・、あぁあぁーっ!」


 硬く固めた俺の方針すら打ち砕かんばかりに響き渡る、絶叫。日常の続きとしての驚きや、絶叫マシーンに乗った際の驚きでは決して上げないような、本気の、理性や知性を全て放り捨てなければ上げられないような声だった。

 耳に痛いというより、頭に痛い声。心臓と身体が、同時に跳ねるような声。


 絶叫、ひたすらに、絶叫。


 耳にした者にも理性や知性を捨てろと強要するかのようなそれに、動こうとしていた俺の身体はその場で跳ねるだけで、目指していた方向へ一歩たりとも進めなくなってしまった。

 それどころか、一瞬前まで自分が何をしようとしていたのかという記憶すら取り落として、拾うことすら出来なくなりそうなほどの絶叫は、当然、俺が上げたものじゃないし、勿論、リュウが上げたものでもない。

 理性や知性を放り捨てた絶叫を迸らせることが出来るなんて、この場にいる唯一にして絶対的な頭のおかしさを持つ、嘘つき女以外に有り得ないのだ。

 視線は、嘘つき女の元へまた戻る。身体の向きも、自然、そちらに。そして再び向けた視線で捉えたその姿は、聞こえてきた絶叫に相応しい相体を見せていた。他に相応しい姿は存在しないというレベルの姿を。

 血走った、目をしていた。限界まで開いたその血走った目を向けているのは、俺が危惧していた通り、真白の方向。土気色に変わっていた肌には血の色が戻り、しかしそれは健康的なものではなく、血管が浮き出るのではないかと思うほどの血が巡り始めた結果のようで、今度は異常なほど赤く染まり始めている。

 そして唇だけが、紫。血が変色したのか、それとも新鮮な血が流れていないのか、もしくはただ単に噛み締めすぎて変色してしまったのか、分からないけれど、紫。鮮やかさを失った、紫。

 額から、汗が流れ始めている。こめかみにも流れている。歯の根が噛み合っていないのか、かちかちと、まるで歯車が上手く噛み合っていないような音が聞こえてきて、地面を踏み締めすぎているのか、靴底がアスファルトと擦れて奇妙な音を立てている、その音も聞こえてくる。

 他にもたぶん、何かの音が聞こえてきているのだが、俺自身の上がりすぎている心音に紛れて、一つ一つの音が何だかは分からない。

 色んな音が聞こえ、おかしな様子の女が見え、しかしそれでも時が止まったかのように見える数秒間の後、女の震えすぎている唇が突如、大きく開いて・・・、


「あっ、あぁーっ!」


 再び、絶叫。目を瞑り、全身を大きく震わせて、上半身を少しだけ前に折り曲げるようにしての、絶叫。

 それはまるで、我が身を守る為に上げられた咆哮、つまり獣の威嚇としての咆哮に見えて、とても社会性のある人間が上げるものには見えなかった。言葉が通じる生き物のものには・・・、とても、見えない。

 何なのだと、一体何が起きているのかと、考えるには時間が足りなかった。何故ならその咆哮を上げたかと思うと、女は突如、本当に獣のように軽やかに身を翻して、走り去ってしまったからだ。

 俺や真白を抱えたリュウがいるのとは、逆方向。つまり俺達から逃げ出すような方向に全速力で走ってその姿を消してしまい、あまりにそれが短時間で行われた所為で、考える時間を持てなかった。それくらい、鮮やかな逃走。

 逃走? そう、逃走だ。威嚇の咆哮を上げた上での、逃走。威嚇、ということは、何か、脅威だと思えるモノがあるわけで、何か、怖ろしいと思うモノがあるわけで、それから逃げ出したということだ。

 脅威? 怖ろしい? 頭のおかしい女に俺やリュウのようなまともな一般人が脅威を覚えることはあっても、あんな頭のおかしい、理性も知性も放り出している奴が、一体何を怖れるというのかと思う。

 まだよく回らない頭をそれでも女が消え去った方向を眺めながら動かしてみるのだが、どうも上手く動かない。同じ場所を堂々巡りのように行ったり来たりするだけで、答えらしい答えが出ないのだ。

 だって、あの女が大嘘をついて、こうしてしつこく俺を待ち伏せしてまで望んでいた真白がすぐ傍までその姿を現したのに、いなくなる理由なんて・・・。


「ハル」

「え・・・? あ、あぁ、リュウ・・・」

「あっ、あの子、なに? なんでハルと一緒だったの?」

「いや、店で買い物して出てきたら、待ち伏せされてた」

「うっそ!」

「マジ。しかも訳分からんこと色々ほざきやがって・・・」

「訳分からんこと?」

「そう。ってか、リュウ、真白」

「え? あぁ、はい」


 いつの間にか近寄って来ていたリュウに声をかけられ、ようやく思考がいつものレベルの動きを再開する。青ざめた顔で俺と同じようにあの女が去った方向を眺めていたリュウは、不安そうに、心配そうにあの女のことを問うのだが、俺としては訳の分からないことばかり煩く言われた、という結論しかなく、とりあえずその結論を口にしながらも視線をリュウに向けた途端に気になったのは、リュウの腕の中に抱かれている真白の存在だった。

 両手を差し出し、リュウに真白の名を告げるだけで意図を訴えれば、リュウは一瞬怪訝そうな顔をしながらも、すぐにこちらの意図に気づいたようで、抱きかかえていた真白をそっと手渡してくれる。

「さっきも言ったけど、なんか、落ち着きがなくなっちゃってどうにもならなかった・・・」と溜息混じりに告げられたそれも、俺がいなくなった途端に訪れた変化だと思えば、抱きかかえる手に柔らかく力が入るほど、愛しくなった。勿論、元々愛しいけれど。

 もう、この温もりさえあれば他のこと、たとえば今、何故か逃げ去った嘘つき女の行動なんてどうでもよいことだと素直に思えた。この温もり、これだけが真実で、これこそがもっとも大事で、これ以外は全て些細なことだと、そんな確信すら芽生えてきて。

 ・・・でも、まさかこの心穏やかな時間が、俺よりずっと平和的な俺の親友によって呆気なく崩されるとは思ってもみなかった。


「あのさ、さっきの子・・・、結局、何がしたいのかな?」

「え? 何って、真白狙ってるんだろ?」

「いや、僕もそう思ってたんだけど・・・、あれ、違うよね?」

「あれって、なにが?」

「だって今、凄い絶叫上げて、逃げて行ったじゃん」

「あぁ、あれな、嘘つきのうえに、頭もかなりおかしいんじゃないかって思ってたけど、予想以上におかしいんだろうな。まともな人間の上げる声じゃなかったもんな」

「・・・頭のおかしさはハルがどうこう言える問題じゃないと思うけどさ」

「え?」

「まぁ、それは今更だからいいとして・・・、あの子さ、さっき、その腕、真白のこと見て、逃げて行ったんだよね?」

「・・・え?」

「『え?』じゃなくって。さっきの、見ただろ?」

「絶叫・・・、」

「そう、絶叫。物凄いヤツ。アレ、真白見て、上げてただろ? あの子、真白見て、逃げて行ったんじゃん。物凄い顔してさ、なんか・・・、」


 この世のものとは思えない、化け物でも見たみたいな感じで。


「物凄い、怖がってたみたいだけど・・・、あんなに怖がるなら、どうして真白のこと、探してたんだろうって思ってさ。見慣れてない人がさ、部位を見て怖がって逃げるのはまだ分かるんだけど、あの子は探しているっぽかったじゃん。それなのに、あんな恐怖体験しているみたいな声上げて逃げ出して・・・、あんな声出して逃げるくらいなら、そもそも何をしに来たんだろうって思って。昨日のあの、真白を探しているみたいな感じには、嘘とか冗談みたいな感じ、なかったと思うんだけど・・・、って、ハル? ねぇ、聞いている? え? どうかした?」


 血の気が引いていく音が、何の誇張もなく耳の奥で聞こえていた。末端が冷えていくのをまるで他人事のように感じつつも、頭の中心が酷い熱をもって芯を失っていくのも感じられる。

 自分の身体が内と外で分裂して、統制が取れなくなっていく予感がするのと同時に、全ては同じ方向を目指しているのだという確信も抱く。

 そして、俺に訪れていた平和な時間の終わりの訪れもまた、強く確信して。俺にはその確信を覆すことは、どうにも出来なかった。


「・・・け、もの」

「え?」

「ばけ、もの・・・、だって?」

「・・・あ、えっとぉ・・・、あの、さ、ハル、ちょっと・・・、な?」

「アイツ、こんなに綺麗で可愛い真白を見て、化け物扱いしたってことか・・・?」

「ハル? なぁ、ちょっと待とう、な? うん、一度深呼吸をしてみよう、僕の言い方も悪かったっていうか・・・」

「あの頭のおかしい雄叫びは、真白を見て上げた・・・?」

「・・・口は災いの元って、こういうこと言うのかなぁ?」

「・・・ふっ、ざけんなよぅ」


 真白を侮辱する奴は、俺が目に物見せてやるぅー!


「あの訳が分からないモンが山のように詰まってそうな頭、素手でかち割ってやるからなぁー!」

「・・・軽犯罪者を通り越して、普通の犯罪者になるから、止めて下さい」


 愛する人へのあまりに腹立たしい侮辱に、俺は怒りが目の前を真っ赤に染め、全身が震えるのを感じつつ・・・、隣で何かを呟いているリュウを無視したまま、空に向かってひたすらに誓いの咆哮を迸らせるしかなかった。

 未だに何故か落ち着きがない真白を、腕にしっかり抱き締めながら。


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