②
胸に抱いた商品の重みが、ひたすらに幸せをもたらしていた。同時に、脳裏に思い描くこれからの時間もまた、脳内麻薬を増量させる役割を立派に果たしている。
買って帰る商品を使い、愛しい人を綺麗にする、愛しい人に尽くす、そんな自分の姿が浮かんで、往来であるにも関わらず、笑み崩れて絶叫したいくらいの幸福感だった。
今、俺の部屋で真白とパパさんを見守りつつ、留守を預かってくれているリュウにも少しくらいケアを手伝わせて、この幸福を分け与えてやるべきか、それともいくら親友とはいえ、自分の恋人に不用意に触れさせるのは好ましくないことなのか、あえて触ってほしいと思っているわけではないが、親友に対してあまりにも心を狭くするのは許されないことなのか、等々を思い巡らせつつ、弾む足取りで着実に帰路を辿って・・・、辿り終えられたら、どれだけ幸せだっただろうと思う。それだけで、俺は幸せになれる、欲の少ない謙虚な人間なのに。
たったそれだけが、許されずに叶わなかった。
天のどこかにいるのかもしれない神様的な存在は、どうもつい十数秒前に俺が考えていたほど大らかで穏やかな気持ちで下を見下ろしているわけではなく、結構な意地の悪い根性で見下ろし、その根性通り、結構な意地の悪い運命をもたらして下さる存在のようだ。
マジ、神様滅べ、と叫びたい。
「待って」
・・・嫌だよ、うるせーよ、って話しかけるなよ、という諸々の罵倒が一瞬にして喉元まで駆けつけ、皆が一斉に駆けつけた所為で大渋滞を引き起こし、結局、誰一人として外に出ることは出来なかった。
なんか、聞くところによるとこの類いの現象はリュウにはよく発生するらしいのが、俺にはあまり発生たことがない事象だったので、今、殆ど初めて経験し、リュウに起こる苦しみを身をもって味わう羽目になる。
話に聞いただけでは分からなかった苦しみ。こんな苦しみを何故かリュウはしょっちゅう経験しているらしいのだが、話に聞くだけの間は正直、大して親身になれないでいた自分に真剣に説教してやりたくなった。どうして友の苦しみを分かってやらなかったのだと。
一体何故、こんな苦しみをリュウは何度も味わっているのか、いつかきちんと理由を聞き、その苦しみから解放される方法を一緒に考えてやろうと誓いつつ・・・、嫌々ながらも、俺は声のする方向、斜め後ろを振り返る。
別にしっかり覚えていたわけでもないのに、たった一言、その声だけで誰だか分かってしまったのだが、振り向いた先には昨日のあの、嘘つき女がいた。
昨日、確かに俺の的確な指摘と断固たる抗議によってまさに負け犬のような姿で消え去ったはずなのに、惨めなその敗北が認めきれないのか、再びその姿を現したのだ。
昨日と色が違うだけで大まかな分類では殆ど変わらない、シンプルなシャツに短めのスカート、同じく短めの靴下で生足を剥き出しにした格好で現れた少女は、やっぱり昨日と変わらない化粧をした顔を真っ直ぐに俺に向け、唇を引き結んで睨みつけていた。
まるで、決死の覚悟で仇敵に相対している、とでも言わんばかりの形相で。
嘘をついて勝手に敵対しているだけなのだから、完全無視を貫いてこの場を去ってしまっても何の問題もないとは思う。ただ、目の前の少女の視線が、俺を睨みつけているはずのそれが、何かを探すように俺の周りに向けられ、最終的に俺が抱きかかえている袋に向く様に、どうしても簡単には立ち去れない気がした。
その視線が、誰を、何を探しているのか、分かりきっているから。
俺の大事な真白を、奪おうとしている奴。そいつが真白を視線で捉えようとしている様が、酷く勘に障ったのだ。
「何の用だよ。言っとくけど、オマエの嘘はもう全然聞く気、ないからな。時間の無駄だし、気分悪りぃーから、あの嘘、繰り返す気なら失せろよ」
「・・・まるで自分のものみたいな言い方、するのね。貴方の腕じゃないでしょ」
「はぁ? 何、言ってんだよ。真白は俺の運命の恋人なの。俺のものっていうか、俺の恋人なんだから、俺と一緒にいるのは当然だろ」
「何が当然なんだか・・・、本気で意味不明って感じ。大体、真白ってなんなの? 勝手に変な名前なんて、つけないでよ」
「真白は真白だろ。つーか、マジ、オマエ何なの? 意味不明なのは、そっちじゃん。もう俺、帰るけど」
「ちょっと! 何勝手に帰ろうとしているのよ!」
そこまで気が短いつもりはないのだが、この少女に関してだけは、激しく気が短くなるらしい。視線が真白を探した段階でかなり短くなっていた気は、募り始めていた苛立ちのままに発した台詞に対する少女の返答によって、更に短くなっていく。
確かに、真白は俺の『物』ではない。俺は真白を自分で保有しているとか、そんな思い上がった傲慢な主張をしているわけじゃないのだ。
俺達は・・・、いや、俺は、運命的に真白に出逢い、その瞬間に恋に落ちた。
だから、必死で、切実に、誠実に、その思いを真白に伝えて、真白は俺のその思いを受け入れた。差し伸べた俺の手を、取ってくれたのだ。あの瞬間から、俺達は運命の恋人になった。
俺達は、あくまで思い合う運命の恋人同士、つまり共に生きていくべき存在で、俺は共に生きていく証として、あの名前を贈ったのだ。
それを目の前に立つ意味不明な奴は、意味不明で勝手な主張をして、否定し、貶すのだから、ぷつっと切れても無理ないだろう。暴力的な人間じゃないから手は出さないけど、それでもあまりに理不尽な非難に、会話を打ち切って帰ってしまいたくなる。
しかし、それすら叶わない。俺が家の方向へ身体の向きを変えた途端、嘘つき女は俺の前に回り込み、通せんぼをするように立ち塞がったのだ。残っている左手を広げて、真っ直ぐに、俺を睨みつけて。
俺は、決して暴力的な人間じゃない。絶対、違う。
気に入らないことがあったらすぐに手や足が出るような、知性の欠片もない暴力を振り翳す人間じゃないし、ましてや相手が女なら、男の俺が手を出すわけにはいかないという判断くらいは出来る。
・・・ただ、同時に、俺は聖人君主ではないので、限界まで腹が立てば手や足が出る可能性を完全に否定することも出来ない。
俺と真白の間を引き裂こうとする女。俺が家に戻ってパパさんに見守られながら、真白と戯れるのを邪魔しようとしている女。
限界は、もう手が届くどころか息がかかるくらいまで近づいていたはずだった。しかしあと少しで届く、もしくは息を吹きかけるというまさにその瞬間、突き刺すように見つめていた少女の視線が、唐突に離れたのだ。
まるで、何かに強制的に引っ張られたように、俺の後方・・・、たぶん、さっき出てきたばかりの、店の方向へ。
まさかそこに真白がいると疑っているんじゃないだろうな、と思ったのは、本当に一瞬のことだった。すぐにその疑いは晴れ、代わりに、怪訝な思いが胸を満たす。
立ち塞がる少女の目は、激しい瞬きに覆われている。広げている片手は、支えを失ったように小刻みに上下に震え、同じく意味不明なことばかり吐き出す唇も、痙攣を起こしたように震えて、しかも色までなくしていく。
それが一体どんな感情から現れたものなのか、全く理解し合い得ない相手でも、流石に分かる。完全無欠の、恐怖心、というヤツだ。何かを見て、とても恐怖して、その所為で今、目の前の少女の異常が現れている。
この少女には、憎たらしさを感じてはいても、好意的な感情はひと欠片も抱いていない。ただ、目の前で突然そんな恐怖に見舞われていれば、流石に気になるし、まぁ、多少、ほんの少し、見たことはないが雀の涙的な量の感情で、哀れみのようなものを抱かないでもない。
勿論、それ以上に、少女が恐怖しているらしい俺の後方にあるその恐怖の原因が、俺にも恐怖を与えるものでないかどうかも気になって、背後に向けられている視線を辿るように、上半身を捻って後方を確認する。何か思い当たるものがないかどうかを、脳内で確認しながらも。
脳内確認の結果と、視線での確認の結果は、俺の中では完全に一致していた。そこはいつもと変わらない道端で、いつもと変わらない店の正面があり、出入り口の硝子ドアから、薄暗い店内の様子が思った以上に窺えるだけだった。
店に近づく時はもう俺の愛しい存在のことだけしか考えていないので、こうして店の出入り口を観察するように眺めたのは初めてだ。何度も来ているのにやっぱり意識されていなかったらしく、中にいる客の姿すら見て取れる店の造りに、多少、意外な気分になる。
・・・が、その程度の事実認識が、振り返って確認した成果だった。他に気にかけることなんて、一つとしてなく。
突然、身体に振動が走った。大きく身体を後ろに引っ張られるような、振動だ。脳がまだ認識出来ていないだけで、目の前の光景に何か、それだけの衝撃を受けるものが映り込んでいるのだろうかと瞬間的に疑問が過ぎったが、しかしそれもまた、一瞬。すぐに俺の身に走った衝撃が全然違う理由であると気がついた。
物理的に、振動が走っていたのだ。正確にいうと、物理的に後ろに・・・、いや、全体の動きとしては前に引っ張られ、身体がつんのめった形で前に移動していたのだ。腕を、引っ張られるままに。
・・・そう、腕を、右手を突然、引っ張れていた。気がついた事実に何を考えるより先に捻っていた上半身を戻せば、当然、俺の手を引っ掴んで引っ張っていたのは、あの、嘘つき女だった。
顔全体の血の気が失せてしまっている嘘つき女は、残っている左手で俺の手を引っ掴みながら、女とは思えないほどの力で俺を引っ張っていく。
どこに引っ張っていくつもりなんだとか、そもそも馴れ馴れしく触るんじゃないとか、色々言いたいことはあるはずなのに、あまりに突然の出来事過ぎて、声が出ない。しかも相手の先ほどまでとは全く違う姿にも多少、気圧されてしまい、つい、引っ張られるがままに歩いてしまう。
しかし幸いにも、相手が女とはいえ、こんなされるがままになるなんて・・・、と自己嫌悪が振ってきたか沸いてきたかする前に、掴まれていた手は離される。
引っ張られた先は、数歩しか離れていない、脇道の入り口だった。そこに押し込めるように連れて行かれると、少女自身も脇道に身を押し込め、ブロック塀に縋りつくようにして元の通りに目元だけ突き出し、道の先、つまりさきほど凝視して顔色を完全になくした原因があるらしい店先を窺っているのだ。
勝手に用もない脇道に連れ込まれたことは、正直、完全に不本意だった。・・・が、どうしてここに連れ込まれたのかは、気になる。俺に何か危険が迫っているのか否か、という点においてだが。
そう、俺に危険が迫っているなら、放っておくわけにはいかない。なんせ、俺には大切な恋人が出来たばかりなのだ。彼女を一人置いて、先に逝くわけにはいかない。
全てが自分の肩に乗っているイメージ。何か、途方もないものに戦いを挑む気持ちで投げかけた視線の先では、相変わらず、人通りのない通りに面した店がある。
しかし強い気持ちで挑んだのが功を奏したのか・・・、まぁ、間違いなくそういうことではなく、ただ単なるタイミングではあるのだろうが、見つめる先で変化が起きていた。
静かに開く店のドア。自動ドアではなく、人力ドア、つまり誰かが出入りする際に自分の手で開け閉めしなくてはいけないそのドアが内側から開き、中から一人の男の姿が現れたのだ。俯き加減に出て、通りに視線を一切向けない男は、酷くゆっくりとした動きで店からその姿を完全に出す。
年齢が、よく分からない男だった。俯いていて顔が見えないのもあるが、髪も手入れがされていなくてぼさっとした感じに伸びており、猫背、来ている服は薄汚れたジーンズに黒っぽいコートで、近くで見たわけではないから言いがかりになるのかもしれないが、何となく、全体的に薄汚れた感じを受ける男で、何をしたわけでもないが、明らかに変態っぽいというか、オタクっぽいというか、まともじゃなさそうというか、とにかくお近づきになりたくない感じを漂わせている。
こんな奴も客にいたのかと、特に意識せずに抱いた感想は、先ほど店を出た時に抱いたのと同じものだった。思い返してみれば、あの店の他の客を一人として意識的に視界に収めたことがないという、その結論と同じに。
何となく、改めて感慨深い気もする。しかし今はそんな感傷に浸っている場合ではない。ゆっくりと歩き去って行く男を見送るように眺めながら、視線で追っていた姿が完全に見えなくなったところで、未だに俺の手を掴んでいる少女に視線を戻した。
「・・・もう、こんな所にまで、探しに来るなんて」
戻した視線の先にいる少女は、震える声でそう、呟いた。あまりにはっきりと分かる震え方をしているので、ともすれば、舞台で演じられる劇のようにすら感じられるほどだった。
無意識に言動が大袈裟になるタイプなのかもしれないし、手を掴んでいる俺のことをどこかで意識しているのかもしれない。分からないけれど、聞こえる声は深刻そうなのに、その演技のように思えてしまう姿の所為で、あまり俺に深刻さを伝染しなかった。
だから、手を引いた。勿論、それは少女を引き寄せたいとかではなく、掴まれている自分の手を取り戻す為の行為だったのだが、当然といえば当然の結果として、少女の意識を引き寄せてしまう結果になる。
視線を男が消えた方向から俺に戻した相手は、取り戻そうとした俺の手を離さないまま、感情を・・・、たぶん、恐怖の感情を押し殺した表情を浮かべて、殊更ゆっくりと、その口を開く。それこそ、舞台の上で見せられる演技のような誇張的仕草で開いて、訴えてくるのだ。
「返して・・・、お願い」と。
今までと違って、懇願するような声。・・・が、どこまでも演技っぽい姿に見えてしまうし、第一、演技じゃなくたってそんなお願い、お断りに決まっている。
大体、返してじゃないのだ。真白は俺の手を取ったのだし、こいつのモノでもないのだから、返すなんて有り得ないのに、どうして未だにコイツはそれが分からないのだろうかと、思わず舌打ちしそうになる。思わずどころか、舌打ちぐらい我慢せずに盛大にやらかしても構わないんじゃないかとも思う。
しかしそういう俺の心情を全く汲まない嘘つきなうえに馬鹿らしい女は、なんというか、微妙に俺の感に障る震えを全身に広げながら、更に言葉を重ねるので。ご丁寧に、声まで震えさせて。
「お願いだから、返して。もう、時間がないかもしれないから・・・」
「意味、分かんない。ってか、何回も言うけど、オマエのそれ、大嘘だろ」
「違うの!」
「違わない! 真白はオマエの腕じゃない!」
「それは・・・、それは、嘘だったわ。認める、認めるけど、でも、返して」
「はぁ?」
「私の腕じゃないけど・・・、あの腕は・・・、私の、親友の腕なの」
私の大切な人の腕なの、だから、返して・・・、と続いた言葉は、力なく、崩れ落ちそうな気配を感じさせるものだった。堪え難い事実を認める時のような、認めて、張りつめていた糸が切れてしまう瞬間のような、声。
実際、俺の手を掴んでいる相手の手から、多少なりとも力が抜けていくのを感じた。そのままどんどん力が抜けて、本当にその場に崩れ落ちてしまいそうなほどの、頼りなさを。
その力が抜けた相手の手を振り払い、自分の手を取り戻したのは、ごく普通の行動だったと思う。
べつに、非情な行動だとは思わない。だって、勝手に手を掴まれていたのだから、隙あらば取り返すのは自然な行動だろう。
相手が女で、力のない、頼りない様を見せていようと、そんなもの、関係ないのだ。
大体、この女は嘘つき女で、それに、今の・・・、
「・・・私の腕だって嘘をついたのは、悪かったわ。でも、そういえばすぐ返してくれると思ったんだもの。私、どうしても返してほしくて・・・、貴方があの子の腕を気に入っているのは分かったけど、でも、あの子は私の親友なの。親友の、腕なのよ。私の一番仲の良かった、大好きな親友なの。親友の・・・、」
親友の、形見なの。
「だから、返して。あの腕が貴方について行ってしまったのも、きっと、本体が亡くなった影響で、混乱しているのだと思う。本当は、私の元にいるべきなのよ。親友なんだもの、当たり前でしょう? それに・・・、本当に、時間が無いの。だって、だってね・・・、あの男が、もうこんな場所まで、探しに来ているのよ」
滔々と、訴えられた。俺の手を掴んでいた手を振り払われたことにも注意を払わず、ただひたすらに、真白を手に入れることだけを目的として、自分が持っている主張を震えた、懇願する声音で並べ続け、しまいには目に涙まで滲ませている。
俺は、そんな訴えを耳に入ってくるままに聞いて、視界に映るままに見ている。
返して、親友、返して、形見、返して、本体、返して・・・、あの、男、
聞こえてくる、一部の単語が鮮明になり、逆に、一部の単語は不透明になる。遠ざかったり、近づいたりする単語とともに、目の前の女の姿も鮮明な部分と不鮮明な部分が発生し、俺自身の身体にも異常が発生し始める。
熱が、あった。どこか一部に、強い熱が。でも、他の一部からは一切の熱が消えている。
理由は、分かっていた。俺には、分かっていた。でも、間違いなく、目の前の女には分かっていない。言葉にして伝えたところで、伝わるかどうかも分からないし、そもそも、伝えたいと俺自身が思っているのかどうかも、不明。
ただ、熱は堪え難いほどの強さで熱している。俺は、もう堪えきれなくなっている。
「私の、親友はね・・・、殺されたのよ、あの、男に」
見たでしょう? さっき、あの店から出てきた男よ。
あの、見るからに変質者っぽい男。
犯人なのよ、あの男が。
殺したの、私の親友を。
あの、腕の本体よ。
殺したのよ、その本体を、あの男が。
でも、捕まっていない。
捕まっていないの。
だから、きっと探しているのよ。
自分が殺した相手の一部が生きていることが許せなくて、探しているのよ。
そうよ、そうに違いないの。
でも、私だって許さない。
許せるわけ、ない。
だって、殺したのよ。
あの子を・・・、殺したの。
殺されて、あの子は腕だけになってしまったのよ。
許せない、絶対に、許さない。
ねぇ、ねぇ、ねぇ・・・、
「分かるでしょう? 許せない、でしょう?」




