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Article B04 : Schrodinger's cat - シュレーディンガーの櫃

【Main story 08】


 彩花里のスタッフ用パスで通過できたのは、職員専用のデッキB1までで、それより下の階層に降りる通路には、電子ロックのかかった分厚い金属のドアが立ちはだかっていた。

 赤い光点がぽつんと表示された液晶画面に、『合言葉を話してください』と『GM7-7 Keep on』という文字が表示されている。

 合言葉か……。


「開けゴマ」


 いきなり、ニーナが言った。

 そんなわけ、あるか。

 案の定、ブッブーと音がして、赤いバツ印が表示される。続けて、『あと二回です』と表示された。

 回数制限があるのか。これは慎重にいかないと……。


「ヤマ、カワ」


 彩花里の声がした。

 なにを言っているのかわからないが、微妙にハズレっぽい。

 ブッブー。『ラストチャンスです』と出やがった。

 落ち着け、私。よく考えろ。

 こういうものは、たいてい……。


「HAL、格納庫のドアを開けて」


 スクルドが口走った。

 SF映画オタクか、おまえは。

 それに、よりにもよって、その言葉を選ぶのか。私がこのロックの設計者なら、まちがいなく……。

 ブッブー。赤いバツ印とともに、『デイブ。恐れ入りますが、それはできません』と表示された。

 それ見ろ。そうなるに決まっているじゃないか。

 外したくせに、スクルドはにやにや笑っている。

 こいつ、絶対にわざとやったな。


 私は呆然とした。もうオシマイだ。

 だが。

 液晶画面のメッセージは変わらない。まだ大丈夫ということなのだろうか。

 それにしても『Keep on』とはどういう意味だろう。それに『GM7-7』も……。

 そのとき、天啓ともいうべきひらめきがあった。そうか、そういうことか。

 私は、深呼吸をすると、その言葉を正確に告げた。


「Keep on asking」


 すると、画面に応答する文字が表示された。


『and it will be given you』


 よし、これだ。

 私は続く言葉を唱える。


「Keep on seeking」

『and you will find』


 最後は、全員が声を揃えて叫んだ。


「Keep on knocking !」

『and it will be opened to you』


 そして、がちゃりと音がして、ドアのロックが開錠した。

 スクルドが、ふん、と鼻を鳴らした。


「『警告はした。行きたければ、自らの意思と責任で行け』 そう言いたいのね」


 スクルドの言葉は、その先に待っていたもので裏付けられた。上層の華やかさからは想像もできないようなものたちが、そこには存在したのだ。

 とある区画は森のようになっていて、頭にトサカのある恐竜が飼われていた。別の区画では、謎の婆さんに煮えたぎった鍋にほうりこまれそうになるし、その次の区画では、怪しげな事件や会合の目撃者として男たちに襲われそうになった。

 世界の表と裏を思わせるそれらは、さながら現実世界の縮図のようであった。

 ドアロックの警告は、ここに近づこうとする者に、相応の覚悟を要求していたのだ。おまえに、それを受け入れる覚悟はあるのか、と。


 ほうほうの体でそれらを切り抜け、ようやく私たちはその場所にたどり着いたのだった。

 タブレットのナビは、この部屋が目的地であることを示していた。

 小さなドアにはめ込まれた銘板を、ニーナが読み上げる。


「シュレーディンガーの……なんとか」

「『ひつ』だよ、櫃」

「そっか『シュレーディンガーの櫃』か」


 ニーナが、目を輝かせる。

『シュレーディンガーの櫃』といえば、物理学会の聖櫃(アーク)と呼ばれる、伝説級の代物だ。もし本物がここにあるのなら、世紀の大発見ということになる。ニーナの目つきがかわるのも、当然だ。

 だが。やはり、アルバート・シュレーディンガーがらみではなかったか。まあ、()がいるはずはないということは、最初からわかっていたことだが。


 おそるおそる、ドアを開ける。

 目に飛び込んできたのは、大理石が敷き詰められた床と、色とりどりのステンドグラスが埋め込まれた壁だった。天井には、一面にミケランジェロの『天地創造』が描かれている。

 さながら、ちいさな礼拝堂というところだ。

 祭壇とおぼしき場所には、人が収まるにはすこし小さいくらいの、アカシア材の櫃が安置されていた。

 近づいてみると、櫃の蓋には数式とともに、ネコと毒ガスの絵が描かれていた。

 ニーナが息を飲む。


「これは……こんなことが、ほんとうに」


 アカリが蓋をコンコンと叩いた。


「バロン、中にいるの?」


 アカリの声に応答するように、箱の中から、なぁというかぼそい鳴き声がした。


「すぐに出してあげるからね」


 蓋に手をかけようとするアカリを、ニーナが押しとどめる。


「ちょっと待って。不用意に蓋をあけると、ネコちゃんは助からないかもしれないわ」

「どういうことでしょうか?」


 ニーナは、蓋の彫刻を指し示すと、犯人を探り当てた探偵のように、もったいぶって言った。


「この櫃はきっと、通称『シュレーディンガーの猫』と呼ばれる思考実験を、現実に行うための装置だわ」

「シュレーディンガーの猫というと、蓋を開けるまでネコの生死がわからない、っていうやつか?」

「ええ、ジョセフ。当たらずといえども、遠からずね。正確には、蓋が閉まっているあいだは、ネコが生きている状態と死んでいる状態が重なり合って存在している、ということよ。そして蓋を開けた瞬間に、波動関数の収束が起きて、ネコの生死が確定するの」


 ええっと、とアカリが首をひねる。


「つまり、下手に蓋を開けると、バロンが死んでいることもあるってことですか」

「ええ、単純に生死ということであれば、確率はフィフティ・フィフティね」

「なんとかならないんですか?」


 そうね、とニーナは考え込んだあと、気休めだけど、と前置きをして話しはじめた。


「エヴェレットの多世界解釈によれば、蓋を開けた瞬間に、ネコが生きている世界と死んでいる世界が分岐するの。だから私たちが、前者の世界を観測する、つまりその世界線アトラクターを選ぶことができれば、ネコは助かるということになる。もっとも、そんな芸当が、人間にできるとは思えないけど」

「そんなの、どうでもいいです。バロンはこの中で、きっとお腹を空かせて、弱っている。……いま助けるからねっ」


 アカリが櫃の蓋を、わずかにずらす。

 櫃の中から、にゃあ……ぐにゃあ、という妙な鳴き声がした。

 そのときだった。


 部屋の照明が、唐突に消えた。

 真っ暗な闇に包まれた部屋に、女性の声が響き渡った。


『マルチヴァース・セパレーター、スタンバイ。セレクト、アトラクター、デシジョン、スタート』


 私は一瞬のめまいのあと、シュレーディンガーの櫃を収めた部屋を俯瞰している自分に気がついた。

 シュレーディンガーの櫃と、それを見つめる四人の男女(わたしたち)が、再生を一時停止した動画のように凝っていた。そして、その直方体が、はるかな彼方まで、いくつもいくつも連なっている。それは一方が過去であり、もう一方は未来であると、なんの説明もないのに私は理解した。


『デシジョン、スタート(選びなさい)』


 その声は、私に宣告した。

 意識が身体から分離して浮遊するような気分を味わいながら、私は彼女(・・)の言葉に耳を傾けた。


『いま、部屋と櫃の中は一体化して、時空連続体から切り離されています。波動関数がもたらす可能性が、雲のように重なり合って存在している世界。あなたは、選ばなければなりません』


「選ぶ? なにをだ」


『あなたは気づいているはず。これは、ありえたかもしれない、もうひとつの人生(世界)だと』


「ああ、なんとなくな。私の性格も、かなり改変されていたしな」


『そうでもないけど……まあ、いいわ。それより、この世界、アトラクターボブにとどまるか、本来いるべき世界、アトラクターアリスに戻るか。それを選択しなさい』


「選ばなかった世界は、どうなる?」


『もちろん、消滅します。存在した事実も、存在した意味も、なにも与えられずに消える。選択をしたという事実すら、残らないわ』


 あちらの世界――アトラクター”アリス”では、『エヴェレットの世界』事件だけでも、たくさんの人が、悲しみ苦しみ、そして不幸になった。だれひとりとして、そんな結果を望んだわけではない。皆が、願望を追い、使命を果たしただけのことなのだ。

 こちらの世界――アトラクター”ボブ”では、どうなのだろう。ニーナはアルバート・シュレーディンガーを知らない、と言った。ならばあの事件は起きていないのだろう。そして、ニーナは幸せそうだった。あんな屈託のない彼女を、私は知らない。それなら、彼女のためだけでも、こちらを選ぶほうがましなのではないのか。


 だが、はたしてそれは正しい選択なのか……。


 あの、バッテリーパークへのちいさな旅の思い出。

 あれは、改ざんされ、脚色されたものだった。たしかに、こちらは居心地のいい世界だ。

 だが、だからと言って、あの誓いを立てさせた私たちのほんとうの歴史を、なかったことにしてしまっていいのか。たとえそれが、目をそらせたくなるほどの悲惨な記憶だったとしても、それを持たない私たちが、本物だと言えるのだろうか。


『さあ、選択を。それで世界は収束し、ネコの生死も決まる……』


 脅迫するような彼女の言葉に、私は……。

 そのとき、突然、張りのある男の声がした。


「おいおい、ちょ~っと待ったぁ!」


 ぼん、と音がして、シュレーディンガーの櫃の蓋が開いた。

 そして、白いタキシードを着てシルクハットをかぶり、ステッキを手に持った、アビシニアンが飛び出してきた。

 猫紳士は、後ろ足だけで直立すると、緑の目で虚空をにらみつけた。


「吾輩の生死を人間ごときの決断にゆだねるとは、いかに運命の女神とはいえ、悪戯が過ぎるというものだぞ。おい、人間。こやつに惑わされるなよ。こやつの言葉には、なにひとつ真実はないのだからな」


 猫紳士が、手袋をはめた前足の指を、パチンと鳴らす。


「さあ、パーティはおひらきだ。君は、いるべき世界に帰還したまえ」


 目の前の世界がかすみ、ぐにゃりと歪んだ。

 そして。

 ”スクルド”の声がした。


『ケットシーか。おせっかいなヤツめ。だが、選択は行われた。すべてはあるべきように、そしてあるべきところに。神は御座にいまし、世はすべてこともなし、だ』



【Main story 09】


 夕日が、私たちを照らしている。

 ここは、あの船の上なのか、それとも、あの場所なのか。

 隣から、ニーナの声がした。


「ジョセフ。約束を……」


 私たちの影が、長く伸びている。だが、その影は、どこまでいっても交わることはない。

 ニーナの亜麻色の髪が、夕日の黄金色にとけていく。


「行くのか?」

「ええ」

「また、私を残して……君は行ってしまうのか」


 ニーナは答えなかった。

 ただ、微笑みを。そして、その言葉を。


「だから、約束を……」


 ああ、と私は応じた。

 ふたりの小指が交わり、繋がれる。


「この世界のどこか未来で、かならず会おう」


 風が吹いた。

 そして……。



【Main story 10】


 私は船首に近いデッキの柵にもたれて、海を眺めていた。

 船は、ニューヨークベイを後にして、大西洋を南に向けて航海している。


 ふっと。

 ついさっきまでだれかと一緒にいたような、小指にぬくもりの名残があるような、そんな気がした。

 おかしな話だ。まだ、この船では、だれとも会っていないというのに。


 ”レイヴン”からの情報の真偽は、あっさりと確かめられた。

 シュレーディンガー・チャンバーの正体は、かのアルバート・シュレーディンガー博士がらみのものではなく、量子理論の有名な思考実験『シュレーディンガーの猫』をモチーフにした、VRアトラクションだったのだ。


 私の仕事は、早々に終わった。

 ならばせっかくの機会だから、すこし羽をのばさせてもらおう。


 そう思ったら……。

 スマホが、ぶるぶると震えた。

 ”レイヴン”からのメールだった。


『かわいい生徒をほったらかしにしておいて、ご自分だけ豪華客船クルーズですか……』


 メールと同時に、聞き覚えのありすぎる声が、背後から聞こえた。


「あたしがいないのをいいことに、羽をのばしてやろうとか、考えていませんでしたか。先生?」


 私は思わず振り向いた。

 デッキを吹きぬける潮風が、彼女の黒いロブヘアを揺らす。

 どうやって、ここに来られたのか。それは、ジュネーブにいるはずの”レイヴン”こと、春日綾乃(かすがあやの)だった。

 好奇心があふれだしそうな、アヤノの大きな目に鋭い光が宿る。


「まあ、いいです。それより、お願いした件は、どうなりました? おそらく、エルウィン・シュレーディンガーに関わる事物ではないか、と考えているのですが。違いましたか?」


 恐れ入った。優秀すぎる生徒にも、困ったものだ。

 シュレーディンガー・チャンバーの説明しようとしたとき、なぜか私は、ふとあることを思いついた。

 いまここにある、この世界。それは、私が積み重ねてきた幾多の選択の結果だ。そしてこれからも、意識するにせよしないにせよ、世界を選び続けていくのだろう。ならばせめて、為した選択に後悔だけはするまい、と。

 それは、なにかと引き換えにして得た答えのような気がした。

 私は、こみあげてきた熱いものを、飲み込んだ。



 さて。

『エヴェレットの世界』事件の後始末を含めて、私にはやるべきことが、たくさんある。

 この船の『シュレーディンガー』があの事件と無関係だとわかった以上は、長居は無用というものだ。早々にクルーズを切り上げるという選択も、考えなければならない。

 だが、次の寄港地マイアミに着くのは、明日の夕方だ。それくらいの間なら……。


 この世界も、私の選択を待ってくれるだろう。

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