Article B03 : memories of Bohr - ボーアの記憶
【Main story 06】
ニーナが懐かしんだのは、私と彼女がマンハッタンの片隅で暮らしていたころの思い出だ。
ローワーマンハッタンの一角、昼でも日が当たらないという形容が似つかわしい、そんな場所で、私はニューススタンドの店員を、ニーナはストリートガールをして生計を立てていた。
イーストサイドの、それもいちばん端っこの区画にある、狭くて汚いアパートの一室で、身を寄せ合うように暮らす日々だった。
窓の下には、イーストリバーが流れていた。
川面を渡る風に吹かれながら、私たちはよく『ムーンリバー』を口ずさんでいた。その流れの向こうに、明日の希望を夢見ながら。
マンハッタンの上空に、真っ青な秋晴れの空が広がったある日、私たちは、まだ行ったことのない、バッテリーパークを見に行くことにした。
普段、ユニオンスクエア界隈にしか行くことのない私たちには、それは小さな旅だった。
地下鉄に乗るお金がなかったから、私たちは歩いて行くことにした。
朝、早めにアパートを出て、ハイキングの気分でのんびりと歩く。
ユニオンスクエアに着くと、知り合いの男がサンドイッチを売るワゴンが、今日も客を集めていた。
「よう、ジョセフ。それにニーナ。いつ見ても、おまえはきれいだな」
「そう? ありがとう」
客の切れ間を待って、私は男に声をかけた。
「ランチになりそうな余りものは、ないか?」
男は、バゲットの切れ端を集めた袋を取り出した。
「五十セントでどうだ?」
「すまない。金がないんだ」
「有り金ぜんぶ入った財布を、ジョセフがなくしてしまったの。ねえ、お願い」
ニーナが手を合わせておねだりをすると、男はやれやれと手をひろげた。
「おまえに頼まれちゃ、しかたないな。持ってけよ」
「サンキュ!」
ユニオンスクエアからブロードウェイを南下する。
マンハッタン島を南北に貫くブロードウェイは、タイムズスクエアのあたりはきらびやかな劇場街として知られているが、それ以外の場所はさして特徴のない街路だ。広い通りの両側には、装飾柱とアーチ窓で飾り立てたキャストアイアン建築のビルが立ち並ぶ。
ソーホーに入ると、高級なブティックがいくつも店を出していた。ショーウィンドウにならぶプレタポルテやジュエリーに、ニーナは目をかがやかせた。
「素敵ね」
飾られているものたちにこの手が届くなんて、思いもよらなかった。だが、だからこそ、自分たちのみすぼらしい身なりも笑い飛ばせる強さがあった。
やがて目の前に、世界貿易センターのツインタワーが見えてきた。ニューヨークの、いや世界の金融センターであるウォール街だ。
誇らしげに星条旗を掲げたニューヨーク証券取引所を過ぎると、チャージングブルの銅像がある。身体をひねり後ろ脚に力を込めて、いまにも飛び掛からんばかりの雄牛の銅像は、株価の上昇を願って設置されたものだ。
見るのは初めてだが、腹の底から力がわいてくるような気分になった。
朝は天気がよかったのに、もうすこしでバッテリーパークに着くというころ、空から雨粒が落ちてきた。
ゴミ箱から拾った、一本の破れたビニール傘を差し、私たちはブロードウェイを歩き続けた。
すれ違う人たちにあざ笑われても、道を走るクルマに水をかけられても、私たちはただひたすら足を前に踏み出した。
そうして、私たちはようやく、バッテリーパークにたどり着いた。
マンハッタン島の最南端、ニューヨークベイを見渡す公園からは、木の間ごしに自由の女神像が見えた。
茶色くにごった湾の彼方には、大西洋が広がっているはずた。
私たちにとってそこは、紛れもなく世界の果てだった。
「いつか……」
と、ニーナがつぶやいた。
「いつか?」
「ええ、いつか。私たちはここから離れて、今日のことを、この日々のことを、懐かしく思うときが来るのかしら」
私は答えた。
「ああ、そうだ。きっとそうなる。だから、もし離れ離れになることがあっても……」
私たちは、小指を絡めて約束を交わした。
「この世界のどこか未来で、かならず会おう」
【Social part 04】
気がつくと、ステージの歌手が代わり、ピアノの伴奏で二人の女性が歌いはじめた。
一人は、プラチナの髪が、どこか冷涼な印象を与える女性だった。
彼女の顔が正面を向くと、その両目の色が違っているのがわかった。オッドアイとは珍しい。エキセントリックな容姿だったが、彼女の歌声は穏やかで、聞く者の心に静かに染み渡っていくようだった。
もう一人は、緑色の髪をアップにした女性だ。
ときに無機質さがにじむような、精確なソプラノだ。こちらには見覚えがある。ヨーロッパを中心に活躍しているオペラ歌手で、ミク・エストレーラといったはずだ。結婚したという話を聞いたから、苗字はかわっているかもしれないが。
【Main story 07】
歌は、『イエスタディ・ワンス・モア』だった。
”Makes today seem rather sad , So much has changed”
変わってしまった、と言われれば、たしかに私たちは変わってしまったのだろう。
だが、それは人生において、必定のことだ。悪くなったのでなければ、なにを悔やむことがあるだろう。
それなのに、なぜ、こうも胸が締めつけられるのだろう。
わからない。
だが、喉に刺さった小骨のように、なにかが心にひっかかっている。
なんだろう……そう思ったとき、あのう、と澄んだ女性の声がした。
「これ、あなたの財布じゃないですか」
落とし物を届けてくれたのは、キモノを着た若い女性だった。どうやらまた、日本人の女性の世話になったようだ。
彼女のキモノは、目がさめるようなブルーの生地に、色とりどりの花の絵を描いた豪華な柄だ。これはたしかユーゼンとかいう上等な染め物で、一着でルーキービジネスマンの月給くらいするはずだ。なのに、この女性は普段着のように、慣れた様子で着こなしている。
「ありがとう、助かったよ。私はジョセフ・クロンカイトだ。ニューヨークでジャーナリストをやっている。こちらの女性は、ニーナ=ルーシー・ボーア、物理学者だ。そしてこっちは自称、女神さまだ」
「ちゃんと紹介してよ。わたしは”スクルド”よ」
スクルドが拗ねたように抗議したが、私はなにも間違っていない。本名を名乗らない時点で、この程度の扱いは覚悟すべきだろう。
着物の女性が、からだの前で掌を重ねて、たおやかにお辞儀をした。その所作のすべてが、ジャパニーズ・ビューティと形容するに相応しいものだった。
「私は水無瀬彩花里です。えっと、華道ってご存じですか? 私はそれを教えています。この船のフラワーアレンジメントのスタッフです」
ん、なんだ? スクルドの目つきが変わっているぞ。まるで獲物を見つけた猛禽のような……。
アカリはスクルドから視線をそらすと、ところで、とスマホの画面を見せた。一匹のネコ、アビシニアンが写っていた。
「この子を探しているんです。どこかで見かけませんでしたか。一緒に乗ったんですけど、行方不明になってしまって」
見かけた記憶がない。
「ねえねえ、どうせヒマなんだし、一緒にさがしてあげようよ」
なぜかスクルドは乗り気だった。いいわね、なんてニーナも同意している。財布を拾ってもらった恩もあるし、すこしくらいなら協力してもいいか。
アカリは「ありがとうございます」と、もういちどお辞儀をした。
うん、やはり日本人の女性はいい。
「それはいいけど、闇雲にこのデカブツをうろついても、まず見つけられないと思うよ。なにか目当てはないの?」
スクルドの問いに、それなら、とニーナがタブレットに船内マップを映した。
「きっと、ここにいるわ」
そう言って、ニーナはその場所を指さした。『シュレーディンガー・チャンバー』と書かれている部屋だ。
ちょっと待て、なんだ、このデジャビュは。その名は、どこかで聞いたことがあるぞ……。
いや、今はそれより、指摘すべきことがある。
「なぜ、そこをピンポイントで狙う? なんの根拠もない思いつきでは、さすがに動けないぞ」
私の問いかけに、ニーナは当たり前のことを聞くな、と言わんばかりにため息をついた。
「あのね、ジョセフ。ネコと言えばシュレーディンガー、シュレーディンガーと言えばネコ、と相場が決まっているのよ。私たちの業界ではね」
ネコ……シュレーディンガー……そうか、量子理論か。たしか波動関数がどうのという……。
私の頭に、次々に言葉が連想される。
エヴェレットの多世界解釈、NPU実験、アルバート・シュレーディンガー博士。
そうだ、なぜ今まで忘れていた。
私がこの船に乗った目的は、シュレーディンガーだったではないか。
「行くぞ、そこに」
思わず気色ばんだ私に、ニーナが肩をすくめた。
「だからさっきから、行くって言ってるじゃない」
「で、どこにあるんだ?」
「デッキB3のブロックC。船底に近いわね」
アカリが、困ったように、顔を曇らせる。
「この船はセキュリティが厳しくて、お客様は乗船口のあるデッキ1より下層には、行けないことになっているんです」
こうすればいいのよ、とスクルドがうそぶいた。
そして彼女は、じぶんの胸に手を当てると、そこに無線インカムでもあるかのように、話しかけた。
「チャーリー、転送を頼む」
…。
……。
なにも起きない。
当たり前だ。
そのセリフを吐くまえに、転送装置を用意しろ。
それなら、とニーナが膝を打った。
「たいていダストシュートが、そういうところにつながっているわよ。そこに飛び込めば、早いんじゃない?」
そう言いながら、考古学者が大冒険をくりひろげる映画のテーマ曲を口ずさんでいる。お気楽なやつめ。
「却下だ。焼却炉に直結していて、死亡診断を省略して火葬になる、とは考えないのか?」
「途中で分別しているに決まってるでしょ。いきなり燃やしたりしないわよ。それに、ぜったいに早いって。こう、するするってね」
なおもダストシュートに固執するニーナに対して、アカリがじつに現実的な提案をしてくれた。
「あ、そうだ。私、スタッフ専用のIDカードを持っていますから、たぶん下の階にも行けるんじゃないかな」
頼む。
早くそれを言ってくれ。
「決まりね。ようし、行くわよ」
「ねえねえ、お弁当とかおやつとか、いらないかな」
「先生、バナナはおやつに含まれるんでしょうか?」
このバカ娘どもがっ。バナナがおやつに含まれるか、だと?
そんなもの……。
含まれないに、決まっているだろうが。