8月13日③
その日の夜。
「……集中できない」
やりかけていた日本史の問題集を閉じ、俺は天井を仰いだ。
時刻はまだ午後八時過ぎで、普段ならまだ集中力が途切れたりはしない時間帯だ。しかし、どうも今日は身が入らない。
原因はボウリング場で遊び倒した疲労――では、ない。
(まだ引きずっているのか。我ながら情けないな)
母さんの墓参りに行って以降、母さんが亡くなった当時の記憶が延々と脳裏をよぎっている。そのせいで、目の前のことに注力できないのだ。
こういう時は早めに寝てしまうほうがいいかもしれない。
そんなことを考えていると、
「千里さん、少しいいですか」
コンコン、と自室の扉がノックされた。
「……白乃?」
「はい。お話したいことがあります」
白乃がこういうことを言うのは珍しい。俺は立ち上がって扉を開けた。
扉の向こうには部屋着姿の白乃が立っていた。
「話があるって?」
「はい。部屋の中に入ってもいいですか?」
「あ、ああ。構わないが」
「お邪魔します」
すたすたと白乃が俺の部屋に入ってくる。
まあ、話をするなら座れる場所のほうがいいだろう。
座布団などはないので、白乃にはベッドに腰かけてもらう。俺は勉強用の椅子に座ろうとしたが、白乃が無言でぽんぽんと自分の隣を叩いた。
そっちに座れ、ということらしい。
言われた通りに白乃の隣に座ると、至近距離にある白乃の髪からシャンプーの甘い香りが漂ってきた。風呂上がりらしい。
ベッドの軋む音や、わずかに触れ合う二の腕の感触が生々しい。
……何というか、色々と無警戒過ぎではないだろうか。
「白乃。これは少し近すぎないか」
「……? お話をするのに、わざわざ離れて座る必要があるんですか?」
不思議そうな顔で訊き返された。
信頼してくれていることの表れなんだろうが、何の試練なんだこれは。
俺はあまり意識しないように気をつけつつ、白乃に促す。
「それで、話というのは?」
「千里さん、少し様子がおかしいです」
断言された。
図星なのだが、あまり白乃に心配をかけたくはない。
「そんなことはない。いつも通りだ」
「……千里さんはあんまり表情に出るタイプではありませんけど、今の千里さんは明らかに無理をしています」
「そんなことは……」
「あります。もう三か月近く一緒にいるんですから、それくらいわかります」
ううむ。
白乃の口調は確信しているようだった。誤魔化すのは難しそうだ。
俺は降参の意図を込めて息を吐いた。
「そうだな、確かに普段通りではないかもしれない。けど大したことじゃないんだ。気にしないでくれ」
「……」
白乃はじっと俺を見て、それからわずかに視線を下げた。
呟くように、こんなことを言う。
「……千里さんは、私には自分を頼れって言うくせに、私は頼ってくれないんですか」
「――、」
「確かに千里さんは何でもできますし、年上ですし、私に弱い部分を見せたくないと思うのも理解できます。ですが、誰かに話すことで楽になることもあると思います」
視線を落としたまま、白乃は静かに告げてくる。
心配してくれているのが伝わってきた。
ここで俺が突っぱねれば、白乃は引き下がるだろう。けれどそれは、白乃の気遣いを「大きなお世話だ」と切り捨てるようなものだ。俺は白乃を傷つけたくはない。
……まあ、少し話すくらいなら構わないか。
俺はできるだけ平静な口調で話し出した。
「この時期になると、母さんのことを思い出すんだ」
「お義母さん、ですか」
「ああ。去年もそうだった」
遊びに連れまわされたこと、成績を褒められたこと、家族で旅行に出かけたことなど、母さんにまつわる記憶は楽しいものが多い。
だが、すぐにそれらは霞んでしまう。
俺の中で一番強く記憶に残っているのは、母さんが病気で倒れた瞬間のことだからだ。
「白乃には前にも言ったと思うが、母さんは俺が受験生だった頃に病気で亡くなった」
「……はい」
「俺はその時まで母さんの不調に気付けなかったんだ。母さんは俺を気遣って体調不良を隠していて、そのせいで治療が間に合わなかった。俺が気付いてさえいれば母さんは死なずに済んだだろう」
ざわついていく心を押しとどめながら平坦に言葉を吐き出す。
当時、父さんは仕事が忙しく母さんと接する機会が減っていた。
俺だけだ。
俺だけが、母さんの無茶な行動を止めることができる立場にいた。
それなのに俺は気付くことができなかったのだ。毎日顔を合わせていたくせに。
「母さんが倒れて病院に運ばれた時、診察した医師に言われたよ。『どうしてこんなになるまで放置したんだ』と。……間抜けにもほどがある。それほどまでに明確な症状を、俺は見過ごしたんだ」
白乃は何も言わない。俯いて、じっと俺の言葉を聞いてくれている。
「母さんの自己責任と言えばそうかもしれない。母さんはちゃんとした大人だったんだから、自分の体調管理くらい自分でするのが当たり前だ」
実際、倒れた後に母さん自身から何度も言われた。
悪いのは自分だ。だから気に病まないで、と。
「……だが、当時の俺はどうしてもそう思えなかった」
理屈ではなく感情の問題だった。
どんなに他人に擁護されても、俺が自分のことしか考えられない幼稚な人間だったことは変わらない。俺はどうしても自分を許すことができなかった。
俺は苦笑を浮かべ、少しでも明るく聞こえるように言った。
「まあ、そうは言っても二年前の話だ。もう割り切ってはいるんだが……今日のような日は当時を思い出して自己嫌悪に陥ってしまうわけだ」
「……」
「二年も経つのに、引きずっているほうがおかしいんだがな」
白乃はぽつりと言った。
「……そうですね。千里さんにも責任はあるのかもしれません」
「――、ああ」
「ですが、私は千里さんの考えに賛成できません」
ベッドの上に放り出した右手が、ぎゅう、と白乃に握られる。温かく柔らかい手の感触は、俺の味方だと主張してくれているようだった。
「は、白乃?」
「千里さんの言いたいことも理解はできます。昔の千里さんが周りのことをもっと見える人なら、お義母さんも助けられたのかもしれません。 改行ミス
私は千里さんが悪いとは思いませんが……そういうふうに考えてしまう気持ちもわかります」
白乃は静かに言葉を続ける。
「ですが、過去は変えられません。できるのは反省して改めることだけ。千里さんはそれがきちんとできています。今の千里さんなら、周りの人の体調不良を見逃したりしないでしょう?」
「まあ、そのつもりではあるが……」
「なら、それで十分じゃないでしょうか」
「……」
「千里さんが頑張っているのは誰が見てもわかります。今の千里さんを責めることは誰にもできないはずです」
そう、なんだろうか。
変わろうと努力はした。だが、それで過去の間違いが帳消しになるわけじゃない。
「……まためんどくさいことを考えてる顔をしてますね」
「……すまん。せっかく励ましてもらっているのに」
「では、もう少しお節介を焼いてみましょうか」
白乃は何でもないことのように言って、するりと繋いでいた手を離す。
それからベッドの上で膝立ちになり。
「…………、は?」
ぎゅううっ、と俺の頭を両腕で抱き締めた。
いきなりのことに思わず心臓が跳ねる。
「ま、待て、白乃。これはさすがに」
「いいから動かないでください。くすぐったいです」
「……」
くすぐったい。どこが? そんなことはとても聞けないので俺は黙るしかない。
白乃は俺の横に膝立ちになり、右側から包み込むように俺の頭を抱いている。右頬のあたりに柔らかい感触があり、とくとくと穏やかな心音が伝わってくる。
密着しているせいで白乃の髪から甘い匂いが直に届くし、肌の柔らかさも、温かさも、すべて感じ取れてしまう。
いくら同じ家に住む間柄でも、ここまで間近で触れ合うことはそうないだろう。
けれど白乃はまったく気にした様子もない。
まるで子供をあやすような仕草で俺の髪を撫でながら、囁くように言った。
「千里さんは、自分のことを責めすぎです」
「……だが、あれは」
「自分の間違いを責めるなら、自分の功績を認めるのも忘れてはいけないと思いますよ」
「功績?」
はい、と白乃は小さく頷く。
「私がこんなことをできるのは、千里さんのお陰です。千里さんが私の男性恐怖症に気付いてくれて、色んなことから守ってくれて、大事にしてくれて」
「……」
「千里さんは私を救ってくれました。父親に酷いことをされそうになったとき、誰よりも先に気付いて助けに来てくれました。そのことを忘れるべきではないと思います」
「……そう、か」
白乃の言葉は自分でも不思議なほどすとんと腑に落ちた。
俺は間違えた。
だが、それを改めたことで白乃を助けることもできたのも事実だ。
「わかりましたか」
「……ああ。もう、大丈夫だ」
「それは何よりです」
白乃は最後にぽんと俺の頭を叩いてから抱擁を解いた。
俺を包み込んでいた温かさが離れていく。そのことに少しだけ名残惜しいと思い、内心で自嘲の溜め息を吐く。いくら何でも甘え過ぎだろう、それは。
「話はそれだけです。では、私はこれで」
白乃はベッドから立ち上がり、部屋の扉の方に歩いていく。
俺も見送りがてら立って部屋を出ようとする白乃に声をかけた。
「白乃」
「はい」
「……ありがとう。楽になった」
「お礼なんていりませんよ。千里さんからもらった分に比べれば大したことありません」
白乃は振り返ってくすりと笑った。
今まで見た中で一番大人びた微笑みの表情で、
「またつらくなったら言ってくださいね。いつでも慰めてあげますから」
「――、」
温かい声色だった。何があっても俺の味方でいると告げるような。
その表情は柔らかく、けれどどこか蠱惑的で、大人びていて、情けないことに俺は完全に言葉を失わされた。
ばたん、と扉が閉まる。
俺は深く息を吐いた。
手で口元を押さえて、呟く。
「……それはずるい」
▽
廊下を歩き、自室の扉を開け、部屋の中に入る。
「~~~~~~~~~~~~っ、何ですかあれ、もうっ……!」
神谷白乃は自室の扉を背に、絞り出すようにそう呟いた。
頭の中にあるのは義理の兄――神谷千里とのやり取りだ。
(普段は全然落ち込んだりしないくせに、ずるいですよあんな顔……)
墓参りの後から様子がおかしかったので、話を聞こうと千里の部屋を訪ねたのだが、色々あってとんでもないことをしでかしたような気がする。
白乃にとって千里はヒーローそのものだ。
困ったらいつでも助けてくれる。
どんなことでも完璧にこなす。
トラウマの象徴である秋名誠から助けてくれたこともあって、白乃の中で千里は尊敬の対象になっていた。
なのに、今日の千里はそんな印象からは外れていた。
いつもの超然とした雰囲気ではなく、弱々しくどこか繊細そうな姿。
そんな千里を見て白乃は親近感を覚えると同時に――愛おしさのようなものを感じた。
(……あんな顔されたら『支えたい』って思ってしまうじゃないですか。まあ、さんざん助けてもらっているので別にいいんですけど……いいんですけどっ)
最終的にどうなったかを思い出して、白乃は思わず赤面した。
千里のことは嫌いじゃない。
多分一番気を許せる男子は、と聞かれたら千里の名前を出すだろう。
けれどまさか、千里のことを抱き締めたくなるなんて予想もしていなかった。
まして、それであんなに幸せな気持ちになるなんて。
「やっぱり、私……」
――千里さんのことが好きなんでしょうか。
白乃は顔を赤くしたまま、口の中だけでそう呟いた。
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