8月5日③
俺は白乃の能力を侮っていたのかもしれない。
「消しゴムかけ終わりました。イヴさん、次は何をしたらいいですか?」
「お、早いな。そんじゃ千里のやってるベタを手伝ってやってくれ」
「はい」
消しゴムかけが終わって手の空いた白乃が、次は俺と同じくベタ塗りを始める。
印の打ってある箇所を筆ペン、サインペンなどで塗りつぶしていく作業だ。
この作業も単純なようで案外奥が深――
「千里さん、こっちのページが終わったので千里さんの持ってるのを分けてください」
「あ、ああ」
……随分早いな。白乃の受け取っていた原稿はベタ指定が少なかったのか?
とりあえず俺の抱えているぶんを白乃に渡す。
まあ、あれだけ渡せば数十分はかかると――
数分後。
「千里さん、終わったので次をもらえますか?」
…………んん?
「……いや、もうないぞ。俺がやっているぶんで終わりだ」
「そうですか。じゃあ、イヴさんに新しい仕事がないか聞かないといけませんね」
白乃はそう言ってイヴさんの机のほうに向かっていく。
それにしても妙だな。白乃に回した作業は少なくとも数分で終わる量ではないはずなんだが……。
イヴさんが俺たちの使っているローテーブルにやってきて進捗を確認する。
「おお、マジで消しゴムもベタも終わってるじゃねーか! ……けど、そうなると後はややこしい作業しか残ってねーんだよなあ」
「何か俺たちでもできるようなことはありませんか?」
「そうだな……そんじゃトーン貼りを頼むか」
トーン貼り。
トーンと呼ばれる柄つきの特殊フィルムを張ることで、漫画を彩る作業。
……らしい。この作業は俺も初めてなので詳しくはわからない。
「トーンってのは裏がテープみたく張り付くようになってんだ。一旦透かして大きめにカッターで切ってから仮貼りして、そんでもっかいカッターで細かい形に――」
「――こんな感じですか?」
説明するイヴさんの隣では、白乃が精密機械かと思うほどの精度でトーンを切り取り指定の場所に張り付けていた。
何……だと……?
「は、白乃……一応聞くけど実はお前さん漫画描いたこととか……」
「いえ、今日が初めてですけど……」
「嘘だろ!? これで初心者ってとんでもねーぞ!?」
イヴさんが驚愕している。俺も似たような感想だ。白乃の作業はもはや素人のレベルじゃない。
「白乃にはこんな才能があったのか……」
「……大袈裟です。ちょっと細かい作業が得意なだけですよ」
いや、そんなことはないと思うが。
白乃が手伝った原稿から視線を上げて、イヴさんが神妙な顔で言った。
「……千里。うちの弟と白乃を交換してくれ」
「却下します」
「何でだよ! ずりーよお前だけ! 手先器用で料理上手で、おまけに超美少女の妹なんて私だって欲しいよ!」
「手先が器用なのも料理が絶品なのも最高に可愛いことも事実ですが、白乃は俺の大事な家族です。諦めてください」
「ちぇー……」
イヴさんは不貞腐れたような顔で机に戻っていった。
「…………」
「どうした白乃?」
「……だから、そういうのを人前で言うのはやめてくださいって何度も……」
白乃が顔を赤くしてじとっとした視線を送ってくる。
今のはイヴさんの発言をそのまま返しただけなんだから、俺に言われても困るんだが。
▽
「…………んー?」
「どうしましたかイヴさん」
「いや、あれ、んー……白乃、ちょいここ見てくれるか」
奥のデスクに座って作業していたイヴさんが白乃を呼ぶ。
白乃はイヴさんの手元の原稿用紙を覗き込み、
「……あ、ちょっと絵がズレてますね」
「だよな。……あー、このへん時間なくて焦って描いてたからなあ……」
何だか不穏な話をしている。
どうやらペン入れ前の下書きでイヴさん的には看過できない何かがあったらしい。
どうでもいいが、真っ先に呼ばれるあたりすっかり白乃はイヴさんに頼られているな。
「しゃーねえ描き直すか」
「時間は大丈夫なんですか?」
「下書きいっこ直すくらい大丈夫だよ。白乃のおかげでけっこう作業進んでるしな」
「はあ……」
「つーわけで千里、ちょっとあたしのこと押し倒してもらっていいか?」
「……あの、イヴさん急に何を」
「ああ、なるほど。わかりました」
「よろしく頼むぜ」
「何で千里さんまであっさりと理解を……!?」
白乃が驚愕している。何でも何も。
「資料で必要なんだろう? 男性が女性を押し倒す姿勢なんじゃないのか」
「そういうこと。いやー千里は理解が早くて助かるぜ」
「別に初めてというわけでもありませんからね」
イヴさんは資料を見て書くことを大切にしている人なので、構図再現に協力したことはこれまでに何度もある。
漫画のキャラクターと同じポーズを取り、その写真を撮って参考にするんだそうだ。
「し、資料……そうですか。そうですよね」
「おうよ。そんじゃ白乃、あたしのカメラで撮影よろしく」
「わかりまし――じゃなくて、ま、待ってください」
「ん?」
白乃は慌てたようにイヴさんの手を掴む。
「こ、この態勢を撮るんですか。イヴさんと千里さんの。ほとんど抱き合ってるような感じじゃないですか」
「まあそうだな」
イヴさんが持つ原稿を見せてもらう。
男性が四つん這いになり、仰向けの女性に覆いかぶさっているような構図だ。
男性が女性を押し倒している、と言い換えてもいい。
距離が近いので確かに抱き合っているようにも見える。
「こういう姿勢を、実際に男の人と女の人が取るというのは……その、色々問題があるような」
「おっ、あたしを女の人とカウントするとは上級者だな白乃」
「わ、私とイヴさんでもいいじゃないですか!」
「白乃は男役やるには華奢すぎねえか?」
「じゃあ信濃先輩とイヴさんで……」
「アルのやつはぶっ倒れて寝てるけどな」
「うー、うーっ……」
白乃が何やらもの言いたげにこっちを見ている。
何だ。何が言いたいんだ。
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