5月29日②
その日の帰り際。
そういえば冷蔵庫の中身が空だった、何か買って帰らなくては――などと考えながら、下駄箱の前で外靴を取り出そうとしていたときのことだ。
『――触らないでください!』
次いで、何かを弾くような乾いた音が響いた。
「……?」
下駄箱付近にいた他の生徒たちも何だなんだと顔を上げる。ふと、俺は眉根を寄せた。
(今の声……白乃か?)
気になったので、見に行くことにする。
音源は下駄箱前の廊下だった。上靴を履き直してそこに向かうと、何やらもめているようだった。
男女を含む数人の生徒たち。彼らは白乃と話しているようだった。問い詰めている、といったほうが正しいかもしれない。どこか険悪な雰囲気だ。
「ねえ、神谷さん。今のはひどくない? いきなり振り払ったりして」
女子の一人がややきつい口調で白乃に言う。一方、白乃のほうはまったく好戦的な雰囲気ではない。
「すみません。……その、急に腕を掴まれて、驚いてしまったんです」
「だからって、いきなりあんなふうに怒鳴る? なんか浩二が悪いことしたみたいじゃん」
彼女に合わせて、他の数人が『そうだよ』『ただ遊びに誘っただけだろ?』と口々に言う。
白乃と話している一団は上履きの色を見るに、全員が一年生だ。
「すまない。これはどういう状況なんだ?」
と、近くにいた野次馬のひとりに尋ねる。話しかけた男子生徒は、どうやらことの一部始終を見ていたようだった。説明してくれる。
「えっと……見た感じ、あいつら神谷さん――ってあのちょっと変わった髪色の子なんですけど、彼女を遊びに誘おうとしてたみたいで。神谷さん美人だし、転校生だし、このへん案内してやろうぜ、みたいな」
「ふむふむ」
ちらりと下に目をやると、俺が話しかけた男子生徒の上履きも一年生色だ。この口ぶりも合わせて考えると、白乃のことも知っているらしい。
「それで、最初は神谷さん『家の手伝いがあるから』って断ってたんですけど……浩二がふざけて神谷さんの腕を掴んで引き留めたら、振り払われちゃったみたいですね」
彼の視線を追うと、一団の中にいる男子生徒が見えた。
なるほど、何となく状況がわかってきた。
白乃は同級生――おそらくクラスメイトだろうが、遊びに誘われた。
それを断ったら、その中の男子生徒の一人に腕を掴んで引き留められた。
その手を振り払った結果、ああなったと。
(……で、どうするべきだ?)
あれは白乃の問題だし、俺が介入すればむしろ白乃に怒られそうな気がする。
だが――、
「ってか神谷さん、ほんとに家の用事とかあんの?」
「……どういう意味ですか」
「要するにあたしらと遊ぶの嫌だから適当言ってるんじゃないの?」
女子生徒の一人に詰め寄られ、白乃は「……そういうわけでは」と目を伏せた。
どうも白乃が困っているような気がする。
よし、行くか。
俺は情報提供者の男子に礼を言い、白乃たちのもとへと歩いていく。
「すまん白乃。待たせたな」
俺が声をかけると、白乃が驚いたような顔になった。そばにいた女子生徒が俺を見る。
「……誰?」
「二年B組の神谷千里だ。白乃の兄でもある」
言うと、その場にいた生徒たち全員が目を丸くした。……まあ、顔はまったく似ていないからな、俺と白乃は。血縁がないので当然といえる。
「白乃はまだこのあたりに不慣れだから、夕飯の買い出しも兼ねて、俺が案内することになっていたんだ」
もちろん嘘だが。
白乃は状況を理解できないように硬直している。アドリブに弱いタイプなのかもしれない。
「……そうなの? 神谷さん」
と女子生徒が訊くと、白乃はようやく再起動した。それから、俺と二人きりの時には絶対見せないような笑みを浮かべた。
「そうなんです。なので、お誘いは嬉しいのですが、今日はご遠慮させてください。……日比谷君も、さっきはひどい対応をしてしまって申し訳ありません」
「お、おう」
日比谷、と呼ばれた男子生徒は白乃のその完璧な笑みに動揺したようで、まともな返答ができていない。無理もないだろう。白乃の笑みはそれだけで相手の脳を痺れさせるような破壊力があるのだ。
「では、失礼します」
優雅な仕草でその場を離脱すると、白乃は俺に向かって「行きましょうか」と声をかけてくる。
俺はその猫かぶり具合に内心苦笑しながら、白乃とともに下駄箱へ向かった。
お読みいただきありがとうございます。
日間ランキング順位上がってるんですけど……!?
嬉しいんですが、こう、あれですね。ランキングに載っている状態だと書かなきゃいけない感がすごい。サボれない。……頑張ります。
次回は5月29日ラストになる予定です。二人で買い物に行きます。