7月9日②
さて、調理開始である。
俺は並べた材料を眺めて白乃に言った。
「とりあえず、俺はピザ生地のほうから作っていくか。白乃はトマトソース作りを頼む」
「了解です」
白乃が異論なしというように頷く。
ピザ用のトマトソースは市販のものを買ったり、作るにしてもトマト缶を使ったりといった方法がメジャーだが、今回は白乃の提案で生トマトから作ることになっている。
そちらも手間がかかるということで、俺は生地、白乃はソースの分担である。
とりあえず俺は用意した小麦粉やら砂糖やらドライイーストやらを計ってボウルに放り込み、水を加えてへらで混ぜ合わせていく。
俺は作業しながら、ふと白乃に気になっていたことを尋ねた。
「そういえば白乃」
「何ですか?」
「今更だが、なぜ今日に限ってピザなんだ? 何かの記念日というわけでもないだろうに」
ピザというとパーティー的な料理という印象があるが、今日は単なる平日である。
白乃は少し考えて、こんなことを言ってきた。
「えっと……私の料理っていつも和食ばかりじゃないですか」
「まあ、そういう系統のものが多くはあるな」
白乃の作る料理は繊細で温かみのある和風の品が多い。
白乃は祖母である楓さんに料理を教わったそうなので、そのあたりが影響しているのだろう。
「それで、毎日似たようなものばかりでは飽きてしまうかと思いまして。たまには違うものも作ってみようかと」
「そういうことか」
「そういうことです」
「白乃の料理はどれも絶品だし、気にする必要はないと思うがな」
献立が和食に偏るのは事実としてもそれを不安に思ったことは一度もない。
栄養バランスや彩り、さらに俺と父さんが多めに食べることを見越して量も多めに作ってくれるので、事実として非の打ちどころがないのだ。
「……」
「白乃?」
「……いえ、喜んでもらえてるならよかったです」
なぜか白乃は顔を背けてそう言った。それから白乃は思考を追い出すように小さく頭を振ると、改めて告げてくる。
「と、とにかく、今日はそういう気分なんです」
「そうか。新しいものに挑戦することはいいことだと思うぞ」
俺はいつもの白乃に不満などかけらもないが、そういう向上心は好ましく思う。
せいぜい役に立てるよう頑張るとしよう。
「……まあ、他にも理由はあるんですが」
「?」
白乃が最後に何か小声で付け足したような気がするが聞き取れなかった。何を言っていたんだ?
さて、そんなことを話しながらも作業を続けていく。
ある程度生地がまとまってきたので塩を混ぜ、打ち粉をした調理台に生地を移して手でこねる。
生地の端を押すように伸ばし、それを折って生地に重ねてもう一度伸ばす。
これを生地の表面が滑らかになるまで繰り返すのだ。
白乃がそんな俺の手元を興味深そうに見ている。
「……手際いいですね、千里さん」
「まあ、この手のものは昔よく作っていたからな」
「なるほど……」
言いつつも、白乃の視線は生地をこねている俺の手元に固定されている。
「……白乃もやってみるか?」
「いいんですか?」
ぱっと顔を上げて白乃が言ってくる。
落ち着いているように見えてわずかに目が輝いているのが微笑ましい。
やはり興味があったようだ。
というわけで白乃はソースづくりを中断してこちらにやってくる。
まだ作り途中の生地をつついて白乃は感心するような声を出した。
「はー、何だか不思議な感覚ですね」
「白乃。とりあえず、表面の粗さが取れるまでこねてもらえるか?」
「はいっ」
気合を入れるように軽く袖まくりをして作業に取り掛かる白乃。
白い生地を伸ばしたり押したりしていく姿は何となく楽しそうだ。普段がしっかりしているだけに、ああいう無邪気な振る舞いは珍しく感じる。
やはり白乃は料理が好きなようだ。
「……」
そんなことを考えていると、白乃が生地をこねていた手を止めた。
「白乃、どうかしたのか?」
「はぁ、はぁっ……つ、疲れますね、これ」
「まだ五分も経っていないぞ」
まさかこんな短時間で限界を迎えられるとは思わなかった。
「そう言われても、生地が意外に硬くて……」
確かにこの段階のピザ生地はやや硬く、さらに意外に重い。
伸ばしたり押したりするのはそれなりに力を作業といえる。
「生地を手前に持ってきて、体重をかけてこねるんだ。そうすると楽になる」
「こう、ですか」
「いや、もう少し脇を締めて肘から押すというか」
「??? こういう感じですか」
「……ううむ」
俺の教え方がよくないのか、ジェスチャーを交えてもなかなか思った通りに伝わらない。強力粉の割合が多いピザ生地は非力な白乃と相性が悪いというのもあるだろう。
ここで俺が白乃と代わってしまうのが一番早いんだが……せっかく白乃が楽しそうにしていたのに、俺が横から手を出してしまうのもなあ。
俺は少し考えて、結局一番確実な教え方をすることにした。
「……え、あの、千里さん?」
俺のとった行動に白乃が驚いたように肩を跳ねさせる。
「ちょっ、ち、近くないですか」
「口で説明するのが難しいんだ。少し我慢してくれ」
白乃の後ろに回り、生地と格闘していた白乃の手に上から俺の手を重ねる。白乃の手の甲と俺の手のひらが接する形で。
要は、俺が白乃の手を操作して生地の扱いを実体験してもらおうというわけだ。
難点としては白乃を後ろから抱き締めるような態勢になってしまうことだが……これ以外にいい方法が思いつかなかった。
言うまでもないが、もちろん白乃の手以外には触れていない。
俺は白乃の手ごと自分の手を動かして生地に力を加えていく。
「こうやって、手の腹のあたりを使って生地を押す。生地を伸ばす方向は毎回変えてやると生地の仕上がりがよくなる」
「~~~~~~!」
後ろから手を重ねている都合上、俺の口が白乃の耳元に近い位置にある。そのせいか、何か喋るたびに白乃がびくっと体を震わせる。
……何だか申し訳なくなってきた。
あまり長くこの状態を続けない方がよさそうだ。
「こんなところか。……急に近づいて悪かったな、白乃」
生地の扱いを教え終わったところで体を離す。
と、ここでようやく気付いた。
白乃の顔が耳まで真っ赤に染まっている。心臓の鼓動を押さえるように手を胸に当てながら、白乃はどこか抗議するように言ってきた。
「……教えてくれたのは、ありがとうございます。でもああいうのは心臓に悪いです……」
「すまない。驚かせてしまったよな」
「本当ですよ、まったく……」
不満を言う、というよりはどこか拗ねるような白乃の言葉。さすがに今回は俺が悪いか。
だが一応、俺にも言い分はあるのだ。
「……前に白乃が言ったんだぞ。俺が触れても嫌がらない、と」
「っ」
言った途端に治まりつつあった白乃の頬の赤みがぶり返す。
俺が言っているのは以前白乃が試験勉強のやりすぎで体調を崩した時の話だ。看病した際、俺が白乃と距離を取ろうとしたのに気付いた白乃は、確かにそう言った。
「言いましたけど……言いましたけどっ」
白乃は覚えがあるのか、うーっと唸るように俺を見上げてくる。
ううむ。いくら言質があったとはいえ、さすがに無遠慮すぎたか。
「……すまない。次からは気をつける」
俺が降参の意味合いで軽く両手を上げると、白乃は首を横に振った。
「い、いいですよ」
「?」
「気にしなくていいです。さっきは少し驚いただけで……千里さんになら、触られるのも、近づかれるのも……嫌じゃないです、から」
気恥ずかしさを押し殺すように、たどたどしい口調ながら白乃はそう伝えてくれる。
俯いたままの白乃の手はエプロンの端をぎゅっと握り込んでいる。よほど恥ずかしいのだろうが、それでもきちんと言葉にしてくれるのがいじらしい。
その仕草一つ一つが俺に対する信頼を示すようで、俺は動揺を悟られないように視線を逸らさなくてはならなかった。
「……そ、そうか」
「は、はい」
視線を合わせないまま、ぎこちない会話を交わす。
俺も白乃も、以前より少しだけ近づいた距離にまだ慣れていないのだ。最初は半ば険悪だったせいで余計に。
「……でも、次からああいうことするときは先に言ってください。びっくり、するので」
「……善処する」
「善処じゃなくて徹底してください。私がもたないです」
「わ、わかった」
白乃の圧力に押されて頷くと、白乃は頷いてそれ以上言及してこなかった。
そこでひとまず会話は区切られ、どちらともなく俺たちは作業を再開する。
白乃が生地作りを続行したので俺は隣から助言する形だ。
その距離感は、俺の思い上がりでなければ――以前よりずいぶん近づいていたように思う。
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