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7月1日②


「……あ、れ?」

「目が覚めたか」

「千里さん? ……どうしてここに」


 俺が声をかけると、ベッドの上の白乃はかなり驚いていた。


 俺は先んじて頭を下げた。


「まずは謝らせてくれ。緊急事態だったからといって、勝手に部屋に入ってすまない」


 そう、ここは白乃の自室だ。俺は居間からここに白乃を移動させていた。


 さすがに白乃をテーブルに突っ伏したままにするわけにもいかなかったし、俺の部屋を使わせるのも気が引けた、というのが理由だ。


 幸い白乃の部屋は綺麗に片付けられていて、目のやり場に困るようなものが置いてあったりはしなかった。


 俺は白乃をベッドに寝かせ、氷枕やスポーツドリンクなんかを持ってきて看病の態勢を整えたところで白乃が目を覚ました、というのが現状である。


 白乃は俺が部屋に入ったことは特に気にしていないようだった。


「……そうですか」


 白乃は呟き、それから俺に弱々しい笑みを向けた。


「手間をかけてしまってすみません。もう大丈夫ですから」

「ほう。もう大丈夫か」

「はい。少し寝不足だったので、寝たらすっきりしました」


 この期に及んでまだそんなことを言うか。


 俺は持ってきておいた体温計を白乃に差し出した。


「測ってみろ」

「え、いえ、でもほんとに平気で」

「いいから」


 俺が強い口調で言うと、白乃はしぶしぶそれを受け取って熱を測る。俺は白乃に背を向け、結果が出るのを待つ。


 数分後に電子音が鳴り、俺が無言で手を突き出すと、白乃は諦めたように体温計を渡してきた。


「……三十八度五分。これでもまだ大丈夫と言い張るか」

「……いえ。正直ちょっとしんどいです」


 そうだろうな。顔色を見ればわかる。


 白乃が体調を崩した原因は明らかだ。


「だから言っただろう。無理をすれば体調を崩すと」

「はい……」


 テスト週間に入ってからは白乃は睡眠時間を削って試験勉強に取り組んでいた。熱が出たのはその反動だろう。


「なぜあんな無茶をしたんだ」


 ここのところ白乃の様子はおかしかった。何かに思いつめているような。


 白乃は俺には関係ないと言ったが、こんなことになっては俺も問い詰めないわけにはいかない。


「……別に、大したことじゃないんです。ただ、今回はどうしてもいい点を取りたかったんです」

「何か理由があるのか」

「母さんに、心配をかけたくなかったので」

「香澄さんに?」


 意外な名前が出てきて驚いてしまう。香澄さんに何か関係があるのか。


「母さんと充さんは、本当ならもっと後に再婚するはずでした」


 白乃はぽつりぽつりと話し出した。


「それは私が転校するタイミングの問題です。二人の再婚が決まったのは、私が高校一年になる寸前のことでしたから」

「……ああ、そうだったな」


 白乃がうちの高校に転校してきたのは今年の五月。


 高一の五月に転校というのはなかなか珍しいことだろう。

 それなら最初から転校先の入試を受けておけばいい。


 元の高校の入学手続きを済ませておきながら、一か月後にわざわざ編入試験を受けてよそに転校するなど二度手間もいいところだ。


 実際、香澄さんと父さんは、当初は再婚するのは白乃が二年になってからと言っていた。


 しかし白乃はそれを押し切り早期に父さんたちを再婚するよう仕向けた。自分なら大丈夫だから、と。


「白乃が今年のうちに転校してきたのは、香澄さんたちのためか」

「……はい。耐えられなかったんです。私のせいで母さんの幸せが遠のくのが」


 白乃が俯きながらそう呟く。


「結果的によかったと思っています。母さんは充さんと一緒に暮らせて幸せそうですから。ただ、母さんは私によく気を遣うようになりました」

「変な時期に転校させてしまった負い目から、ということか?」

「はい」


 確かに五月の転校というのは微妙なタイミングだ。クラス内の人間関係もほぼ固まりつつあるだろうし、溶け込むのは難易度が高い。


 それにうちの高校は県内有数の進学校とされている。


 白乃が以前通っていた高校より確か偏差値もいくらか高かったはずで――と、そこまで考えて気付いた。


「ああ、それが勉強を頑張る理由につながるのか」


 当たりだったようで、白乃は小さく頷いた。


「……悪い点数を取ったら、母さんが心配します。『自分が早くに再婚したせいで白乃を苦労させた』と自分を責めてしまうかもしれません。私はそれが嫌だったんです」


 なるほど。確かに試験で高得点を取れば、少なくとも勉強については転校のデメリットがなかったと言えるわけだ。


 なぜあんなに白乃が試験対策に必死になっていたのかようやくわかった。


 白乃は香澄さんのことを何より優先する。時には自分よりも。

 親想いなのは美点だろうが……だからといって今回のはやり過ぎだ。


 俺はスマホを操作してLINEのトーク画面を表示する。


 表示されたのは俺宛に届いた香澄さんのメッセージだ。


 それを見て白乃が目を見開いた。


 ――白乃が無理をしているようだから、気をつけてやってくれという内容のメッセージを見て。


「これ、母さんが……」

「試験のあと、LINEを見たら届いていた。香澄さんも以前の一件から白乃の様子には気をつけているようだからな」


 そう、香澄さんから届いたメッセージの内容は白乃の様子を気遣うもの。


 今朝の時点で香澄さんは白乃が体調を崩しかけていることに気付いていたようだ。


 俺はそのメッセージを見て白乃の様子が気になり、急いで帰ってきたわけだ。


「……無理してたの、バレてたんですね」


 小さく呟く白乃に俺は言った。


 まあ、さすがに実の母親だ。そう何度も白乃の異常を見逃してはくれないだろう。


「白乃が無理をして、香澄さんが喜ぶと思うか」

「……思いません」

「なら、今回やったことが間違っていることはわかるな」

「はい……」


 白乃も自覚はあるようで、うなだれながら呻くように頷いた。


「白乃はもう少し自分を大切にすることを覚えたほうがいい」

「……自分を、ですか」

「ああ。人のことばかり気にし過ぎだ。香澄さんや父さん、もちろん俺でもいいが、もう少しわがままを言ってくれていい」


 しっかりしているので忘れそうになるが、白乃はうちでは一番年下なのだ。遠慮する必要なんてない。


「わがままと言われても……」

「今すぐにとは言わない。思いついたらでいい」


 困惑した顔の白乃にそう言い、俺はベッドのそばから立ち上がった。


「白乃、食欲はあるか? お粥でも作ってこようと思っているんだが」

「……すみません。お願いします」

「梅と卵、どっちがいい」

「……じゃあ、卵で」

「わかった。俺が戻ってくるまでに着替えておいてくれ。汗を拭くタオルと洗面器もここに置いてあるから」

「はい」


 部屋を出ていく俺の背中に、小さく「ありがとうございます」と声をかけられた。





 お粥を作って白乃の部屋に戻ると、白乃はすでに着替え終わっていた。


「悪い、待たせたな」

「いえ。こちらこそすみません」

「謝らなくていい。食べられるか?」

「はい」


 白乃のリクエストで卵入りにしたお粥を盆ごと渡す。ある程度冷ましておいたのですぐ食べられるだろう。


「いただきます。……、」


 白乃はそう言ってれんげを手に取り――ふと、わずかに顔をしかめた。


「どうかしたか?」

「い、いえ。何でもありません」


 白乃は首を横に振り、お粥をれんげで掬う。しかし口まで持ち上げようとすると、手が滑ったのかれんげが真下に落下してしまった。


 幸いれんげはお椀の真上に落ちたのでお粥が飛び散ったりはしなかったが、白乃は慌てたように言う。


「あ、す、すみません」

「いや、それは別にいいんだが……」


 さっきから白乃の様子がおかしい。


 注意して見ると、白乃の手元が妙にぷるぷるしているように見える。


 まさかと思うが……


「腱鞘炎にでもなったか?」

「……やっぱりバレますよね」


 白乃が諦めたように頷いた。やっぱりそうだ。根を詰めて勉強した結果、利き手の腱鞘炎まで併発させたらしい。


 普段より弱っていることもあり、今の白乃はもはやお粥を食べることもままならない状態になっているようだ。……そんなことがあり得るのか。


「だ、大丈夫です。反対の手で食べますから」

「いや、それだとお椀はどうやって持つんだ」

「……う」


 言葉に詰まる白乃に対し、俺は小さく息を吐いた。


「お椀とれんげを貸してくれ。俺が手伝う」

「手伝う――って、まさか千里さんが私に食べさせるという意味ですか」

「他に何があるんだ」


 白乃が自分で食べるのが難しい以上、こうするしかない。幸いお粥は冷ましてあるので火傷の心配はないことだし。


「で、でも、それはちょっと困るというか」

「だが、食べられない方が困るだろう。きちんと栄養を取らないと治らないぞ」

「そういう問題じゃないんですが……」


 白乃はしばらく渋っていたが、やがて観念したように小さな声で、「お願いします」と言ってきた。


「ほら、口を開けてくれ」

「……はい」


 俺がお粥を掬って口元まで寄せると、白乃はゆっくりとそれに口をつけた。小鳥がついばむように差し出された卵粥を口に入れ、咀嚼する。


 その間白乃は一切俺と目を合わせようとしなかった。


 こくん、と白乃の喉が小さく動く。


「……おいしい」

「なら良かった。まだ食べられるか?」

「あの、千里さん。やっぱり自分で食べたいです」

「悪いが却下だ」

「うう……」


 白乃の顔がさっきまでより赤い。無理もないだろう。人に食べさせてもらうなんて子ども扱いされているようなものだ。


 もちろん俺にそんなつもりはないが、居たたまれない気持ちにもなるだろう。


 ゆっくりとしたペースではあったが、やがて白乃は用意したお粥を全部食べ切った。


「……ごちそうさまでした」

「お粗末さま。白乃、何か他に欲しいものかあるか?」


 使い終わった食器を持って立ち上がりつつ、ベッドの上の白乃に尋ねる。


 買い置きの薬やスポーツドリンクはすでに用意してある。氷枕やタオルも持ってきた。たいがい大丈夫だと思うが、いちおう白乃にも確認しておく。


「いえ。……、」


 白乃は首を横に振ろうとして、途中でその動きを止めた。何か言うのを迷っているような仕草だ。


「どうした?」

「その……一つだけ、いいですか。わがままを言っても」


 初めて白乃からこんな前置きを聞いた。


「あ、ああ。何でも言ってくれ」


 もしかしたら白乃はさっきの話を気にしているのかもしれない。


 白乃は遠慮がちにこう言ってきた。


「手を握っていてほしいんです。少しの間でいいですから」

「……手を?」


 意外なお願いだ。そんなことでいいのか。


「……熱があるときに一人で寝ていると、嫌なことを思い出すんです」


 少し苦い顔で白乃が言う。


 まるで過去、体調不良の時に何か怖いことでもあったような言い方だ。


 まあ、体調を崩している時に不安になる気持ちは俺にもわかる。


 しかし一つだけ確認しておきたいことがあった。


「白乃。手を握る、というのは必要なのか? ベッドのそばに座っているだけでは……」


 白乃はベッドの上からじとっとした目を向けてくる。


「……さっきわがまま言っていい、って言ってましたよね」

「言ったが、そういう問題じゃなくてな」

「それとも私の手に触れるのがそんなに嫌ですか」

「そんなわけがないだろう」


 俺が気にしているのはそこじゃない。白乃が呆れ声を出した。


「……前から言っていますが、私は千里さんだけは触っても平気です。ですからそんなに気を遣わないでください」

「……お見通しか」


 白乃の言う通り、俺が気にしているのは白乃の男性恐怖症のことだ。


 白乃いわく俺だけは普通に接することができるらしいが、だからといって簡単に実行はできない。


 俺が触れることで白乃を怯えさせないかと不安になってしまう。


「千里さん、手を出してください」

「……ああ」


 白乃が伸ばしてきた手をおそるおそる掴む。


 小さな手だ。俺の手のひらにすっぽり収まってしまうような、華奢でほっそりとした手。少し熱いのは体調不良のせいだろう。


 白乃はそのまま、細い指を俺の指に絡めてくる。


 手が震えていたり、こわばっていたりということはない。それどころか信頼を示すように、ぎゅっと力を込めてくる。


 白乃は小さく笑った。


「ほら、大丈夫です」

「……そうだな」


 俺は苦笑した。ここまでされたら信じないわけにはいかない。


 俺が白乃の手をしっかり握り返すと、白乃は満足そうに笑みを深めた。


「これからは千里さんからも触ってくださいね。嫌がったりしませんから」

「……、」


 穏やかな声でそう言われて、俺は息を詰まらせた。


 相手は義理とはいえ妹だ。家族だ。だが、常識外れな美人である白乃にこうも無防備なことを言われると、さすがに動揺する。


 情けないことに、心臓の鼓動が少し速くなった。


 ……白乃に気付かれていないといいが。


「……そういうことは、他の男には言わない方がいいと思うぞ」

「心配しなくても千里さんにしか言いませんよ」


 私が触れるのって千里さんだけですからね、と白乃は俺とつないだままの手をにぎにぎと緩く開閉する。


 そのどこか無邪気な仕草が俺への信頼を示しているようで、俺としては嘆息するしかない。


 今日の白乃はやはり変だ。普段の白乃ならこんなにゆるい笑みを浮かべてくることも、俺に甘えてくることもない。


 やはり疲れているのだろう。それ以外に白乃がこんなふうになる理由が思いつかない。


「もう寝ろ、白乃。ちゃんと寝付くまではここにいるから」

「はい。手、離さないでくださいね」

「……ちゃんと掴んでおくから安心してくれ」


 俺は白乃と手をつないだままベッドに背を向け座り込んだ。


 しばらくすると小さな寝息が聞こえてきた。


 後ろに伸ばした俺の手には、まだ白乃の手の温かい感触がある。眠っているのに俺の手を離さないのがいじらしくも可愛らしい。


 白乃が寝たのを確信してから、俺は小さく呟いた。


「……よく頑張ったな」


 白乃が勉強を頑張っていたのは事実だ。それは俺もよく知っている。


 頑張ったことを褒めてやりたいのは山々だったが、まさか説教をしなければいけない立場の俺が誉め言葉を聞かせるわけにもいかない。


 だが、眠っている状態なら構わないだろう。


 白乃はまだ俺の手を離さない。もしかしたら起きるまでこのままかもしれない。


 俺はそのまま、ぼんやりと白乃の目覚めを待ち続けた。

 お読みいただきありがとうございます!


※2020.5.25、香澄からのLINEを追加しました。内容に大きな変更はありませんので、既読の方はスルーしていただれば……!

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