6月16日③
「は、白乃……?」
唖然として俺は白乃を振り向く。
聞き間違いではない――はずだ。白乃は俺に対して、『キスしてくれませんか』と言った。
俺の耳元から口を離し白乃はじっと俺を見ている。
「……どういう意味だ?」
「そのままの意味です。いくら鈍い千里さんでも、キスの意味くらいは知っていますよね」
俺を何だと思っているんだ。
知らないわけがないだろう。だからこそ理解できない。
困惑する俺に対して白乃はいたって平然としている。
ただただ澄んだ目でまっすぐ俺を見ている。そこには俺をからかっているような気配は一切感じられなかった。
白乃はふざけているわけではない。そんなことをする相手だとも思っていないが。
なら、唯一考えられることがあるとすれば。
「……それも訓練の一環か?」
男性恐怖症の克服のための訓練として白乃は俺に触れる練習をしていた。先日、台風の日に俺に触れられるようになってからはやっていなかったが、男性恐怖症そのものを解消できたわけではない。
ついさっき、楓さんと話したことで白乃の男性恐怖症を克服する意欲が増した。
だから、こうも極端な行動に出た……のか?
「だったら考えなおせ。気概は買うが性急すぎるぞ」
楓さんだって白乃に無理をさせることは望んでいないだろう。
だが、白乃は首を横に振った。
「いえ、そういうわけでは」
「は……はあ?」
駄目だ。白乃の考えがわからない。
これで違うならどう受け取ったらいいんだ。
「もっと単純な話ですよ」
とん、と白乃が一歩俺と距離を詰めてくる。俺の懐に滑り込むように。
思わず後ろに下がろうとする俺だったが、後ろには洗い場があってそれもできない。
後ろで手を組んで白乃は頭一つぶん低い位置から俺を見上げている。囁くように、
「私がしたいから、そう言ってるだけです」
「……、」
息を呑む。
おそらく、少し離れた位置で談笑している父さんたちに聞こえないようにそうしているだけであろう話し方。吐息を多く混ぜたような声色は普段の白乃のものとはやはり違う。
さらに一歩、白乃が距離を詰めてくる。
花を煮詰めたようなシャンプーの香りが感じられるくらいまで。
「ま、待て」
「静かに。母さんたちに聞こえますよ」
白乃が寄ってくるだけ俺は背を逸らさなくてはならない。だがそれも焼け石に水だった。白乃の小さな手が俺の胸元に添えられる。
白乃が何をしようとしているのか、さすがに察してしまう。
察したうえで動けなかった。至近距離から見る白乃の顔立ちはやはり端正で、見慣れたはずの俺でもなお目を奪われる。わずかに、けれど確かに、理性がぐらつく音がした。
「目を閉じてください……」
囁くように、白乃が唇を寄せてくる。態勢はほとんど抱き着くように密着している。
「……はぁ」
俺は息を吐き、白乃の体を引き離した。
白乃の薄い両肩を押さえて白乃の動きを止める。
「千里さん?」
「こういうのはやめろ」
「……私とは、嫌ですか」
「そういう問題じゃない……今日の白乃は何か変だぞ」
普段の白乃であればこんなことはしない。やはりいくら何でもおかしい。
それによしんば白乃の言葉が真実で、白乃が何らかの理由で俺にキスを求めてきているのだとしても、これは急すぎる。
うん、と白乃は頷いた。
「千里さんならそう言うと思ってました」
は?
白乃はちらりと視線を横に向けて、
「ほら、千里さんは私に手を出したりしないですよ――おばあさん」
「そのようですね」
「……!」
いつの間にそこに立っていたのか、キッチンの入り口あたりに楓さんが立っていた。
思わず視線を居間のほうに向けるが、残り三人は普通に会話している。
どうやらさっきのまず過ぎる状況――白乃が俺に抱き着く勢いで距離を詰めた態勢――は楓さん以外には目撃されていないようだ。
しかし唯一の目撃者である楓さんは驚いた様子はない。
白乃同様、いたって平然としている。……なぜに?
困惑する俺をよそに、楓さんと白乃は言葉を交わす。
「どうやら白乃さんの言ったとおりだったようですね」
「はい。このひと、私なんかに興味ないんですよ」
「そういう言い方をするものではありません。拗ねているように聞こえますよ」
「……拗ねてません」
状況がまったくわからない。俺は待ったをかけた。
「あの、これはどういう状況なんですか。というか楓さんはなぜ平然と……」
俺の質問に楓さんはあっさり答えた。
「それはもちろん、白乃さんのさっきの発言は私の差し金だからです」
「はい?」
「言い方の仔細は白乃さんに任せましたが――要は『千里さんに迫ってください』と」
「……はい?」
瞬きを繰り返す俺に、楓さんはあくまで淡々と事情を語った。
「うぐぅうう……何かあったらまた儂らを頼るんだぞ、白乃、香澄ぃ……」
帰り際、車の運転席から雄三氏は半泣きでそんなことを言った。
どうやら久しぶりに娘である香澄さんや孫の白乃に会えて相当嬉しかったらしい。
香澄さんはにっこり笑って、
「母さん。また何かあったら連絡するわ」
「そうしなさい。遠慮する必要はありませんよ」
「はーい」
「香澄? なぜ儂には返事をしないのかね、香澄」
食事を終えてしばらく談笑したあと、帰宅する楓さんと雄三氏の見送りのために俺、父さん、香澄さん、白乃の四人は見送りに出ていた。
「充さん、手のかかる娘ですがよろしくお願いします」
楓さんは父さんにそう声をかけてから、俺を見やった。
「千里さんも、白乃さんと仲良くね」
「……はい」
その言葉に、俺はついさっきのやり取りを思い出す。
――千里さんに迫るよう白乃さんに指示したのは私です。
キッチンで、事態を理解できていない俺を見て楓さんははっきりとそう告げた。
白乃が俺にキスするよう求めたのは、俺を試すためだと。
――白乃さんが今、唯一頼れる男性はあなたであるようですから。
――あなたが白乃さんをどう見ているか、邪な考えを抱いていないか。
――それを判別する必要があったのです。
つまり俺が白乃の信頼を利用して、何か不埒なことをしようとしないか確認したかったようだ。白乃からキスをせがむ、という形で。
……効果的にもほどがある。
仮にも白乃は絶世の、とつけても間違いがないほどの美少女だ。そんな相手が体を寄せて、囁くように相手を求める。大抵の男なら判断力が消し飛んで流されてしまうだろう。
それなりに意思が固いと自負している俺でも、わずかとはいえ理性を乱された。
心臓に悪いので二度とやらないでほしい。
だが、おかげで楓さんは俺のことを信用してくれたようだった。車の助手席から俺を見る視線に、警戒の色はない。
「白乃さんも、いつでもうちに遊びに来なさい。また料理を教えてあげましょう」
「はい」
にこりと笑って楓さんの言葉に頷く白乃。
「では失礼します。行きますよ、雄三さん」
「うう……いつでも遊びに来てくれていいからな……」
どれだけ寂しいんだ雄三氏。
雄三氏が車を発進させ、二人は去っていった。
「これで父さんも反省してくれるといいんだけど」
「悪い人ではなさそうだったが」
「いい人すぎるから駄目なのよねえ」
香澄さんと父さんがそんなことを話しながら家の中に戻っていく。
二人のあとについて戻ろうとする白乃を俺は呼び止めた。
「白乃」
「はい?」
玄関の扉に手をかけたまま白乃がこちらを振り向く。俺は尋ねた。
「さっきのことだが……」
「キスのことですか?」
「そ、そうだ」
白乃があまりに恥ずかしげもなくその単語を口にするのでこっちが動揺してしまう。どうやら白乃は本当にさっきのことを何とも思っていないようだ。
白乃は俺が何か言う前に頭を下げてきた。
「すみません。おばあさんを納得させるには、わかりやすいやり取りが必要だったんです」
「……別に謝らなくていい。だが、やり方はもう少し考えてくれ」
「?」
「ああいうことは、嘘でも言うな。……俺が本気にしたらどうするつもりだったんだ」
白乃は自分の魅力に気付いていない、というわけではないだろう。どんなに鈍い人間であっても自覚せざるを得ないくらいに白乃の外見は優れすぎている。
そんな人間が好意を向けるというのは、まずい。
たとえきょうだいの俺であっても間違いのもとになる。
と、俺はわりと真面目に言ったのだが白乃は呆れたように肩をすくめた。
「何を今さら……千里さんはそんなことしませんよ」
「いや、あのな」
「じゃあ、千里さんは私相手にキスなんかしますか? どうせ『私が後で傷つくんじゃないか』なんて思って自制するに決まってます」
「……む」
白乃の言うことは当たっているので口を噤むしかない。
どんな思考が浮かんだとはいえ、俺は最終的には理性を保ち続けた。
「だからと言ってなあ……」
俺が釈然とせず腕を組んだが、白乃はというと話は終わったとばかりに会話を切り上げてしまう。
玄関を開けて家に戻る寸前、白乃はぽつりと何事か呟いた。
「……それに万が一拒否されなかったとしても、千里さんならいいかなと思ったので」
「? 白乃、いま何か言ったか」
「何でも」
白乃は訊き返した俺の問いには答えず玄関の中に消えていく。
(……何だったんだ、一体)
俺は釈然としない思いでその場に立ちつくすしかなかった。
お読みいただきありがとうございます。
前回の最後があれだったのでなるべく早く更新したかったんですが無念……! 脆弱なネット回線がすべて悪い……!!