6月16日②
白乃が転校。
そう聞いたとき、俺は驚くのと同時に「なるほどな」と思った。
考えてみれば当たり前の話だ。白乃は男性恐怖症だとわかった今、共学の高校に通わせておく理由などない。
「桐生学園にはまだ確認していませんが、事情を話せばわかってくださるでしょう。いざとなれば私が話をつけます」
楓さんはゆっくりと続ける。
桐生学園というのは白乃が以前通っていた中高一貫の女子校だ。楓さんや雄三氏が住む家と同じく隣県にあり、そこに通うならこの家にはいられない。
「先ほどの様子を見た限り、白乃さんの状態は並大抵ではありません。今は何とかなっていても今後何らかのトラブルが起こる可能性があります」
「……」
「そうなる前に、男性の少ない環境に移動する。それが最善でしょう」
楓さんの言葉に、白乃はすぐには何も言わなかった。
父さんも、香澄さんも口を閉ざしている。
俺はふと尋ねてみた。
「父さんたちはこの話を事前に聞いていたのか?」
「……ああ」
「そうねえ。もちろん父さんが謝りに来る、っていうのもあったけど」
なるほど。やはり楓さんはもともとこの話をするためにここに来ていたようだ。
白乃はやや視線を落とし何か考えているように見える。
楓さんは言った。
「あらかじめ言っておきますが、答えは今でなくても構いません。香澄や充さんと相談して――」
「いえ、今答えます。私はここに残ります。転校する気はありません」
きっぱりと言い切った白乃に、楓さんはぴくりと眉を動かした。
意外に思ったのかもしれない。
俺も同じ気持ちだ。まさか即断とは。
「……理由は?」
楓さんが聞くと白乃はわずかに視線を落とす。
「おばあさんが私のことを心配してくださっているのはわかります。それは嬉しいです。……けど、前の学校に戻っても、男性が苦手という問題は解消されません」
「……」
「逃げてはいけない、逃げるべきではない――そう思います」
まっすぐ相手の目を見て、白乃はそう告げた。
楓さんはわずかに目を細めて、
「白乃さんの考えはわかりました。ですが、それは自分を追い込み過ぎではありませんか。潰れてしまうかもしれませんよ」
男性恐怖症に立ち向かう。克服する、ともとれるような白乃の言葉は確かに立派なものだ。
実際のところ、白乃は男性から逃げようとは今までもしていない。俺を相手に克服の訓練をしたり、男相手にうまく立ち回れるよう優等生を演じたり、努力を重ねている。
けれどそれは白乃の負担を度外視している。
その負担に白乃が耐え続けられる保証などどこにもない。
白乃は無理をしてしまう人間なのだ。白乃の実の祖母である楓さんはそれをきっとよくわかっている。
「……」
「?」
ちら、と白乃が俺を見てきた。何だ?
白乃は楓さんを見て言う。
「一人なら、潰れてしまうかもしれません」
「……? どういう意味ですか」
白乃は立ち上がり、俺の隣までやってきた。
「白乃?」
「すみません千里さん。手、借ります」
そしてあろうことか俺の手を握ったのだ。しかもさっきの雄三氏のような、触れるか触れないかのような接触ではない。指と指とを搦めて柔らかく握る。それを掲げてみせる。
「白乃さん……それは……」
これにはさすがに楓さんは目を見開いた。
雄三氏など唖然としている。
「千里さんは最初から私の男性恐怖症について知ってくれていて、克服のための訓練にも付き合ってくれました。今では千里さんだけには触れることができます」
「……千里さんにだけ、ですか?」
楓さんが問うと、俺に触れたまま白乃は頷く。
「今はそうです。ですが近いうちに充さんやおじいさんにも触れられるようになってみせます」
「無理に耐えているわけではないのですか?」
「おばあさんには、私が無理しているように見えますか?」
白乃の問いに楓さんは俺と白乃を交互に見やった。
すでに白乃が俺に触れて二十秒近くが経過している。だが異常はない。
停電の日以来、白乃は俺に触れても拒否反応を示さなくなった。まだ試していないが、その気になれば何時間だってこのまま白乃はいられるだろう。
「……いえ。どうやら本当に平気なようですね」
「はい」
「なら、あなたが今の学校に残ることも、あながち無謀というわけではありませんね」
はい、と白乃は再度頷く。
それを見て楓さんはこう結論した。
「わかりました。では白乃さんの意思を尊重しましょう」
「……すみません。心配してくれたのに」
「構いませんよ。大切なのは白乃さんの気持ちですからね」
そう言う楓さんの口調は、やはり大切な家族に向ける温かいものだった。
「……ふむ」
(……ん?)
何だろう。今、一瞬だけ楓さんの視線が俺のほうを向いたような……気のせいだろうか。
一方、雄三氏はどこか名残惜しそうに白乃に声をかけている。
「本当に無理をしなくてもいいんだぞ? 白乃や、せっかくだしもう少し考えなおしてみないかね。向こうにだって友達はいるんだろう」
「えっと……」
「父さん、白乃ちゃんをあまり困らせないでくれる? それ以上言うなら――」
「はいすみませんでした」
一瞬で香澄さんに黙らされる雄三氏。この人物、家庭内での立場が低すぎるな。
ともあれ話し合いは終わった。
食事も済み、今はテーブルを囲んで俺を除く五人で談笑が行われている。会話の内容も白乃の転校がどうか、というような大仰なものではなくごく普通のものだ。
俺はひとまず食事の片づけと洗い物を行っている。
俺がやっている理由は単純で、せっかくの機会だし、香澄さんや白乃は楓さんたちと話したいだろうというのが一つ。ついでに父さんは家事に向いていないので、消去法で動けるのが俺しかいない。
――と。
「千里さん」
「白乃。どうした、茶菓子でも取りに来たのか?」
居間で談笑していたはずの白乃が洗い物をする俺のもとにやってきた。
洗い物だの片付けだのに二人もいらないので、俺の手伝いに来たわけではないだろう。
用件を尋ねた俺に白乃はなぜか視線を下げた。
「えっと……ですね」
「……どうした?」
何か言いにくいことでもあるような仕草だ。様子がおかしいな。洗い物を中断して白乃のほうを向くと、白乃は小声で言う。
「耳、貸してください」
「? ああ」
何か聞かれたくない話でもあるのだろうか。
言われるがまま身をかがめる。そうしないと白乃は俺の耳元に届かないのだ。
白乃は数秒躊躇ってから、俺の耳元に口を寄せた。
吐息とともに俺が聞いたのは――
「……千里さん。キス、してくれませんか」
俺はその言葉の意味を理解するのに数秒を要した。
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