6月16日
「すまなかった……っ!!!!」
土曜。
我が神谷家の玄関は俺が今まで体験したことがないほど異様な雰囲気に包まれていた。
玄関というたいして広くないこの空間に、現在六人が集まっている。
まず、父さん、香澄さん、俺、白乃の四人。
そして残り二人は今しがた到着した客人である。
もちろん事前に来るとは聞かされていたし、心構えもしていたのだが――さすがにその客人の片方がやってくるなり玄関先で土下座してくるとは思いもしなかった。
「そうねえ。あれには本当に困ったわ。まさか私や白乃の意見も聞かずにあの男にここの住所を言っちゃうなんて。おかげで白乃はすごく怖い思いをすることになった。……ねえ、お父さん?」
「そ、それについては本当に申し訳ない……」
香澄さんが土下座した人物に辛辣な言葉をかける。にこにこ笑っているように見えてその声色や雰囲気には妙な迫力がある。
香澄さんは思いっきり怒っていた。
以前も思ったけど本当に怒ると怖いな香澄さんは……。
とはいえ怒られているほうにも今回ばかりは同情できない。なぜならその人物は――香澄さんの父、白乃にとっては祖父にあたる春宮雄三氏は間違いなく、六月十三日の一件のきっかけを作った人物であるからだ。
「彼は反省していると言っていたんだ。儂はそれを信じて……」
「お父さんは昔からそうねえ。街で出会ったお姉さんを信じて壺を買わされて、セールスマンの売り文句を信じて高いだけの普通の水を買わされて。学習しないのかしら?」
「ぐっ!」
痛いところを突かれたようにうめく雄三氏。心当たりがあるようだ。
つまり今日の来客とはそういうことだった。
秋名誠は知らないはずのこの家の住所を知っていた。それを教えたのが、白乃の祖父である雄三氏。
彼は秋名誠との一件にけりをつけたあと、香澄さんから自分のせいで白乃が危険な目に遭ったと教えられた。
香澄さんいわく『どうしようもないお人好し』な雄三氏はそれを聞いて一気に青くなり、隣県の住まいから香澄さんたちに謝罪するため飛んでこようとした。
しかし事件があったのは平日だったため、香澄さんは仕事で時間が取れない。よって直近の休日まで待ち、こうして謝りに来た、というわけである。
だんだん平伏する祖父に申し訳なくなってきたのか、白乃がおずおずと手を挙げる。
「あの、母さん。おじいさんも反省してるって言ってるし、許してあげてもいいんじゃ……」
「「「却下」」」
「充さんと千里さんまで声を揃えなくても……」
香澄さんだけでなく一歩下がって見ている俺と父さんも即答した。
あの一件で一番悪いのは秋名誠だが二番目はこの人物だ。白乃の実の祖父であろうと簡単に許せるものではない。
白乃はおろおろして、この場にいる最後の人物に視線を向けた。
そこにいるのは白髪を丁寧にまとめた女性だった。六十代も半ばだと聞いているが、正直実年齢より二十歳は若く見える。冷然とした眼差しはかつての白乃とよく似ている。
その人物は白乃の視線に答えるようにこう告げた。
「――いけませんよ、白乃。してはいけないことをしたら、二度としないと心に刻むまで罰を与える。当然のことです」
……香澄さんも大概だが、俺はこの人が一番怖いと思う。
白乃の祖母、春宮楓。
気の弱そうな雄三氏と楓さんが並ぶと力関係がひと目でわかる。俺はこの二人を初めて見たとき主人と付き人のようだと思った。もちろん主人が楓さんで付き人が雄三氏だ。
ちなみに雄三氏を土下座させたのも楓さんである。
「みんな過激です……」
諦めたようにそんなことを呟く白乃以外からのフォローはなく、その後しばらく、雄三氏は家族五人に囲まれながら玄関で謝罪の言葉を述べ続けた。
数十分に及ぶ謝罪のすえ雄三氏はようやく人権を回復させた。
雄三氏は本当に反省していたようだったので、根は悪い人ではないのだろう。今後はこんなことはしないと誓ってくれた。
楓さんたちは撤収しようとしたが、そこを香澄さんと父さんが昼食に誘った。
もともとそのつもりで白乃も夕飯を多めに作っていたし、楓さんたちも久しぶりに娘や孫に会えて嬉しかったようであっさり承諾。
そんな経緯で、現在神谷家の居間では六人での夕食風景が展開されていた。
メニューは和食。
楓さんが手元の椀を持ち、白乃作の味噌汁を口に含む。
「……これは白乃さんが作ったのですか?」
「はい。そうです」
「素晴らしい。腕を上げましたね」
「ありがとうございます、先生」
楓さんに料理を褒められて白乃がにこりと笑う。その表情は優等生としてのものではなく、家族に向ける親しみのこもったものだった。
少し気になったので尋ねてみる。
「白乃、なぜ楓さんが『先生』なんだ?」
さっきまでそんな呼び方はしていなかったような気がするんだが。
「私、おばあさんから料理を教えてもらったんです」
「楓さんから?」
「はい。後になって自分でも色々調べたりしましたけど、いちばん根っこにあるのはおばあさんに教えてもらったことなんですよ」
どこか嬉しそうに白乃が教えてくれる。白乃は楓さんによく懐いているようだ。楓さんのほうは苦笑していたが、それでも温かい視線を白乃に向けていた。
「そうですね。白乃さんは物覚えもよくて教え甲斐がありました。香澄にも教えたはずですが……」
楓さんが香澄さんに視線を送ると、香澄さんは照れ笑いのような顔で、
「仕事ばっかりしてたら忘れちゃった」
「まったく……充さんに幻滅されても知りませんよ」
「いえ、自分も料理は不得手ですので……」
無表情ながらどこかきまり悪そうに言う父さん。実際父さんは不器用で家事がまったくできないので、そこについては残念ながらフォローできない。
ちなみに雄三氏は肩身が狭そうに隅の席で大人しく食事をしている。気の毒に思えなくもない。
そんな感じで談笑することしばらく。
楓さんがふと白乃にこんなことを尋ねた。
「それで白乃さん。あなたが男性に触れられないというのは本当ですか?」
「……はい」
楓さん、雄三氏は香澄さん経由で秋名誠の一件を聞き及んでいる。当然、白乃が隠していた男性恐怖症についても含めて。
そのことは白乃も承知しているので、楓さんに頷きを返す。
やや神妙になりつつある空気の中、雄三氏がおどけたように言った。
「だが、ほら、白乃や。儂ならどうかね? 怖くないぞ」
「……」
「は、白乃? なぜ距離を取るのかね?」
両手を広げて無害をアピールする雄三氏に白乃はやや後ずさりした。どうやら雄三氏は警戒対象に入っているようだ。楓さんはふむ、と顎に手を当てる。
「雄三さんも駄目ですか?」
「……見ていただいたら、わかると思います」
意を決したように白乃は立ち上がり、雄三氏のもとに歩いていく。
そしてその腕に触れる。
平然としていられたのは数秒のことだ。
「はっ……はあっ……」
徐々に顔色が悪くなっていき、息が荒くなり、三十秒ほどで白乃は雄三氏から手を離した。
「なるほど、嘘ではないようですね」
「は、はい……」
今の白乃が普通でないことは誰の目にも明らかだ。とはいえ、これでもかなりもったほうだと俺は思う。相手が家族だからか、それとも俺との特訓の効果が出たのかはわからないが、俺に触れて数秒で吐きそうになっていた頃と比べれば大きな進歩だ。
「……何だろうかこれは、すごい傷ついたのだが……」
そんなことを知らない雄三氏はかなり深刻に落ち込んでいたが。
楓さんは瞑目した。
「よくわかりました。では本題に入りましょう」
「本題……ですか?」
白乃の問いに楓さんは頷き、
「ええ。白乃、あなたはうちに来なさい。そして転校前に通っていた女子学校に編入するのです」
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おばあさんのイメージはロッテン〇イヤーさんです。




