6月14日(白乃視点)④
会いたくない時に限って出くわしてしまうのはなぜだろう、と白乃は思う。
「白乃」
「……千里さん?」
放課後。
一限目の調理実習から、ひたすら千里のことを頭からシャットアウトしようと頑張っていた白乃は、校門を出ようとしたところでまさかの当人から声をかけられた。
千里は校門の前に立っていて、見たところ友人と一緒にいるわけでもなさそうだった。
誰かと待ち合わせでもしているのかもしれない。
(うう、しばらく顔を合わせたくなかったのに……)
呼び止められた時の微妙な距離のまま立ち尽くす白乃。
しかし考えようによってはよかったかもしれない、と思い直した。例の塩入りマフィンのことを謝らなくてはならない。
「あの、すみませんでした。……しょっぱかったですよね」
白乃が言うと、千里はすぐに何のことか察したらしい。
あー、とばつの悪そうな顔をして視線を逸らす。やはり須磨の言った通り千里はマフィンが塩辛かったのを隠そうとしていたのだ。
「一応聞くが、悪戯というわけじゃないんだよな?」
「……素で間違えたんです」
「白乃でもそういうことがあるんだな」
苦笑する千里。言外に「気にしてないぞ」と滲ませるような言い方が妙に年上らしくて、白乃は内心うぐぐと歯噛みする。何というか、自分がひどく子供っぽく思える。
そのせいで余計な憎まれ口が零れてしまう。
「……かっこつけが過ぎるんです、千里さんは。別に我慢して食べなくてもよかったのに」
「白乃がせっかく作ってくれたものなんだから、味はどうでも嬉しかったぞ」
即答され、さすがに白乃も言葉に窮した。
(どうしてそんな恥ずかしい台詞があっさり言えるんですか……)
心臓に悪すぎる。言われる身にもなってほしい。
白乃はどうにか平静を装いつつ、
「それより千里さんはどうしてここに? 誰かと待ち合わせですか」
「いや、白乃を待ってたんだ」
「私ですか?」
「今から買い出しだろう。俺もついて行く」
「……だからってなぜ待ち伏せを」
「どうも避けられていそうだったからな。LINEしても無視されそうな気がした」
いい勘してますね、と白乃は口の中だけで言った。
今朝、白乃は千里が買い出しに同行しようとしたのを断っている。
千里と顔を合わせているのがなんだか気恥ずかしかったからなのだが、おそらく千里から「一緒に行くから校門で待ち合わせよう」などと言われても白乃はすっぽかしていた可能性が高い。
千里はそれを予想してここで白乃を待ち構えていたのだ。
「大丈夫ですよ。そんなにたくさんは買いませんし」
千里に同行されると白乃が困る。なぜかはわからないが、今日の白乃は千里が近くにいるとそわそわして落ち着かないのだ。
それにそもそも荷物持ちが必要なほど大量の買い物をするつもりはない。
白乃一人で買い出しにはじゅうぶん、というのは事実だ。
「だが、ほら、何か重たいものでも買いたくなるかもしれないだろう」
しかしなぜか千里が食い下がってくる。
「どうしてそんなに一緒に来ようとするんですか」
二人で買い出しに行くことがあるのも事実だが、それぞれ掃除やクラス会議などで予定が合わない場合など一人で行くのもざらだ。それなのになぜ今日に限って千里はついてきたがるのだろうか。
「あー……」
「何ですか。はっきり言ってください」
千里は言いにくそうに後頭部を掻き、観念したように溜め息を吐いた。
「……昨日のことがあったから、白乃を一人にするのが心配なんだ」
「え」
「何もないとは思うんだが、どうしてもな」
昨日の秋名誠の一件で、千里はきっと白乃のそばについていなかったことを反省しているのだろう。だから白乃が迷惑がる可能性も理解したうえで、こんな提案をしてくれている。
白乃のために。
普段の白乃なら軽口の一つも叩けただろう。過保護ですね、そんなだからシスコンって呼ばれるんですよ――けれど、今日に限ってろくに頭が回らない。
「……」
「白乃?」
しばらく呆けたように千里を見ていた白乃だったが、名前を呼ばれて我に返った。
「か、勝手にしてください」
それだけ言って白乃は千里を追い越し校門を抜ける。
心臓が跳ねる。顔が赤くなっているのが鏡を見なくてもわかった。
(何なんですか、本当に……)
千里の言葉がいちいち白乃の心を揺らしてくる。
落ち着かない。緊張する。すぐ胸の鼓動が速くなってしまう。
(これじゃあまるで――)
――私が千里さんのことを好きみたいじゃないですか。
「……ああ、もう」
頭に浮かんだその言葉を打ち消すように、白乃は千里の前数メートルを歩き続けた。
「ふむ……」
そんな明らかにいつもと違う様子の白乃を見て、千里は考え込むように目を細めた。
買い物の帰り道。
「……」
「……」
(き、気まずいんですが……)
白乃の言っていた通り大して重くない買い物袋を持ちながら、千里が白乃の少し前を歩いている。
買い物している間二人の間にほとんど会話はなかった。
千里も白乃の様子がおかしいことに気付いたのか話しかけてくることはなかった。交わされたのはせいぜい事務連絡のような短いやり取りのみ。
いざ会話するとなるとうまくできないのに、会話が途切れると気まずく感じるのはなぜだろうと白乃は思う。
「白乃」
「は、はい」
いきなり話しかけられて白乃はぎくりとする。
振り返った千里はなぜか妙に真剣な顔をしている。まっすぐ白乃の目を見て、こんなことを言った。
「俺は白乃の家族で、義兄だ。何かあれば頼ってもらえるような人間でありたい――そう思っている」
「……」
「だが、今の俺ではまだその域には届いていないようだ。白乃にとって俺は、まだまだ頼るに値しない人間なんだろう」
「……そんなこと、ないです」
本当にそんなことはない。むしろ白乃は半分以上本気で、千里がきょうだいになってくれてよかったと思っているくらいなのに。
だが千里はゆっくりと首を横に振った。
「いいんだ。自分で自覚している。俺は今時の若者らしくないし、聞き上手というわけでもない。このあたりは今後の課題だな」
「千里さん……」
「だからせめて――」
白乃が言いかけた言葉を遮り、千里はこう言った。
しっかりと白乃と目を合わせて、
「――今から全力で踊らせてもらおうと思う」
「……はい?」
「今から全力で踊ると言ったんだ」
「いや、言い直せと言いたかったわけではなくてですね」
一体千里はどうしてしまったんだろう。熱でもあるんだろうか。
「心配はいらない。そこまで激しいものではないからな。車が通る邪魔にはならないはずだ」
「そんな心配はしてないんですが……」
白乃が状況を掴めないままそれは始まった。
千里は買い物袋を地面に置き、ゆっくりと前傾。がちり、と停止。それから異様に滑らかな動きで上半身を水平にねじり再び停止。続いてかがめた上半身を上下に移動――
白乃は呆気に取られてしまった。
この人は一体何をしているんだろう。ここは公道だというのに。
「どうだ白乃」
「どうだと言われても……何ですか、それ」
「ロボットダンスだ」
「……ああ」
白乃も名前くらいは聞いたことがある。その名の通りロボットのような機械的な動作が特徴的なダンスだ。世界的な大会もあると聞くので文化として高い地位を築いているのは間違いないが、いかんせん状況がシュール過ぎる。
『ママー、あの人何してるの?』
『わからなくていいのよ。さあカズ君はやく帰りましょうね』
心なしか通行人から注目されているような気がする。
「あの、千里さん。とりあえず一旦それやめませんか」
居たたまれなくなった白乃がそう言うと、千里はあっさりとダンスを止めた。
「どうだった」
「上手だったとは思いますが……」
「面白くはなかったか?」
「シュール過ぎてそんなことを感じる余裕がなかったです」
「そうか……」
悲しげに視線を落とす千里。
「信濃――友人からは俺がやれば大ウケ間違いなしと言われていたんだが……」
「多分そのお友達は面白がっているだけですね」
付き合う人間はもう少し選んだほうがいいと思う。
「というか、なぜいきなりあんなことをしたんですか」
白乃が聞くと、やや沈んだ声のまま千里は答えた。
「白乃が落ち込んでいたように見えたから、少しでも元気づけようと思ったんだ」
「ロボットダンスで?」
「ああ」
気持ちは嬉しい。
けれどもう少しこう、他に方法はなかったのだろうか。
「……はー」
はあ、と白乃は溜め息を吐いた。気が抜けたというか、何だか夢から覚めたような気分だ。
さっきまでの居心地の悪さがすっかりなくなったのはいいことだがこの虚しさは何だろう。
「お気遣いありがとうございます。もう解決しましたので」
「そうか。それならよかった」
千里はほっとしたような表情を浮かべる。
(……まったく、私もどうかしてました。この人相手に、その、好きとかどうとか)
千里はただの家族。面倒見のいい義理の兄で、それ以上でもそれ以下でもない。
今朝からの居心地の悪さは昨日秋名誠を相手に感じた恐怖の反動のようなものだろう。
冷静になってみれば有り得ないのだ。
いくら頼りになるからって、こんなずれた相手に好意を持つなんてことは。
「帰りましょう、千里さん。ここにいると通報されかねません」
「大袈裟だな。……あ、待て白乃。荷物は持たなくていい」
千里がダンスのために地面に置いた買い物袋を白乃が拾い上げる。
「気にしないでください。気を遣わせたんですからこれくらい――」
言いかけて、白乃は自分のミスに気付いた。
買い物袋の端を踏んだまま持ち上げようとしてしまったのだ。持ち手を引き上げようとしたが、端を踏まれた買い物袋は持ちあがらない。
白乃はバランスを崩して、そしてあっさり受け止められた。
「わぷ」
鼻先が千里のシャツにぶつかる。次いでわき腹のあたりを抱き留められる感覚。細身に見えるのに意外なほどがっしりした胸板が、白乃をよろめきもせずに支えた。
「大丈夫か?」
「は、はい」
耳元にかけられる声が近くてくすぐったい。ほとんど抱き合っているような態勢なので当然だ。
もう初夏といっていい頃合いなのに千里の体からは汗臭さはなく、あるのは制汗スプレーの残り香だけだった。女性用のものと匂いがわずかに異なるせいか不思議な感じがする。
(……あれ)
白乃はふと気付く。
嫌な感じがしない。むしろ落ち着くとすら思う。
白乃にとっては未知の感覚だった。千里は例外とはいえ、あれだけ男性との接触が苦手な自分が男に抱き留められているというのに、湧き上がってくるのは嫌悪感ではなく心地よさだった。
ほとんど衝動のように、しばらくこのままでいたいという欲求に駆られる。
「……白乃?」
「あ」
名前を呼ばれ、我に返った白乃は慌てて千里の腕の中から離脱した。
「す、すみません」
「俺は別に構わないが……やはり触れたのはまずかったか?」
「いえっ、そんなことないです!」
白乃はぶんぶん首を横に振った。それは違う。むしろ逆だ。だいたい転んだのは白乃自身の落ち度なのに、千里に申し訳なさそうな顔などしてほしくない。
「ならよかった。ほら、もう帰るぞ」
そう言って、千里はひょいと白乃の手から荷物を持って行ってしまう。
家の方角に歩き出す千里の後ろ姿を見ながら、白乃は自分の胸に手を当てた。
(違います。これは、そういうのじゃ)
自分に言い聞かせるように思う白乃。
けれどなぜか胸に当てた白乃の小さな手には、どくん、どくん、と常より大きな鼓動が伝わってきていた。
お読みいただきありがとうございます。
じれじれにも程がありますが、ちょっとずつ何かが変わりつつあるのかもしれません。
次五十話なんですが、どうしましょう。せっかくなので何か記念会的なものをやりたいところですがネタが……ううむ。




