6月14日(白乃視点)③
「本当に俺がもらっていいのか?」
「は、はいっ」
「他にあげるような相手もいないんで」
場所は白乃が所属する一年C組教室前。
調理実習が終わって教室まで白乃たちが戻ってくると、千里がすでにそこで待っていた。
須磨と隠岐島が作ったマフィンを千里に渡すと、千里はやや困惑したようだったが、それでも「ありがとう、大事に食べさせてもらう」と受け取る。
「それにしても――」
それから千里は周囲をちらりと見て、
『畜生またシスコン眼鏡先輩だ!』
『神谷さんだけじゃ飽き足らず須磨さんや隠岐島さんまで餌食にしようってのか』
『許せねえ……許せねえよ……』
「心なしかあちこちから殺意を向けられている気がするんだが」
「あ、気にしないでいいですよ。ちょっと先輩が恨まれたり呪われたりしてるだけです」
「待ってくれ隠岐島。それは気にしないでいられる内容じゃないんだが」
クラスの男子同士でさえ牽制が飛び交っていたというのに、そこでまさかの先輩が乱入してクラスの綺麗どころの女子三人からマフィンを掻っ攫っていくというこの事態。場合によっては千里が闇討ちされる可能性すらある。
「……」
「白乃、さっきから一言も喋ってないが大丈夫か」
「な、なにがですか。何ともありません」
急に千里に話しかけられて狼狽する白乃。
案の定千里を前にして緊張してしまい、須磨の後ろに隠れるように立っている。
正直すぐにでも逃げ出したいのは山々だったが、マフィンを渡さないうちから逃げるわけにもいかない。作ったマフィンを後ろ手に隠しながらどうにかその場にとどまる。
「……?」
相変わらずそんな白乃に怪訝な顔をする隠岐島だったが、何か思いついたようにこんなことを言った。
「あ、そうだ先輩。せっかくなんで今食べて感想くれませんか」
その突飛な言葉に千里は目を瞬かせる。
「……今か?」
千里の反応も無理はない。何しろ休み時間は残り五分強だ。そのうえ廊下でこんなことを言われれば困惑するのも当然といえる。
「せっかく作ったので直接感想聞きたいんです。駄目ですか?」
「駄目ということもないが……」
千里は眉根を寄せていたが、やがて「まあプレゼントをもらったらその場で開けるのが流儀の国もあるというしな」と、何だかよくわからない理由で納得していた。
「(り、凛……さすがにこれって迷惑になってない?)」
「(大丈夫でしょ。そんな感じじゃないし)」
「(そうかなあ……)」
須磨と隠岐島がそんなことを囁き合う。
そんなやり取りをよそに千里はあっさりラッピングをほどき、中のマフィンを取り出した。ドライフルーツを混ぜ込んだ須磨作のものだ。
「悪いが食べるのは一口ずつで勘弁してくれ。さすがに作ってもらったものを無理やり押し込むような食べ方はしたくないんだ」
「もちろん」
隠岐島があっさり頷くのを見てから千里はマフィンを口にする。後ろから見ている白乃にも、作り手である須磨が緊張で体をこわばらせているのがわかった。
「ど、どうですか?」
「美味いな。よくできてる」
「ほ――ほんとですかっ」
やった、と須磨の声が明るくなる。須磨はもともと感情表現が豊かな少女だ。まるで子犬のように喜びを表現する須磨に千里は苦笑した。
「こんなことで嘘を吐いてどうする。……それにしても、焼き加減といい形といい上手に作ってあるな。須磨は普段菓子作りはするのか?」
「い、いえいえ全然です。料理もできないですし」
それから須磨はやや俯きがちになり、
「……その、今日のは家でけっこう練習したというか、せっかくなら喜んでほしかったというか……」
「? すまん、何だって?」
「あ、あはは。何でもないです」
須磨の言葉が後半になるにつれてだんだん小さくなってくる。それを聞き取ろうとしたせいか千里が耳を近づけると、須磨は後ずさりして誤魔化すように笑った。
「そうか。それならいいが……」
千里は須磨の言いたいことがわからず首を傾げていた。白乃も同様。隠岐島だけは処置なしとばかりに「逃げたわね」と呟いていた。
千里は次に隠岐島の作ったマフィンを取り出した。
見た目はいかにも隠岐島が作りそうなシンプルなものだ。
「じゃあ、次はこっちだ」
「アタシのですね。景気よくがぶっといっちゃってください」
「わかった。それじゃあ遠慮なく」
千里は隠岐島作のマフィンを頬張り――
「ごふっ! か、辛くないかこれ!」
――そして盛大に咳き込んだ。
「あー当たり引きましたか。アタシのはロシアンマフィンなんですよ。当たりにはブート・ジョロキアが丸ごと入っています」
「当たりのダメージが大きすぎるだろう……!」
ブート・ジョロキアはトウガラシの中でも最大級の辛さを秘めた劇物だ。一般人が口にすると大変なことになる。今の千里のように。
幸い千里は辛さにそれなりの耐性があったのか、三十秒ほどで立ち直った。
少なくとも白乃には立ち直っているように見えるが、首筋を大量の汗が伝っているので案外大丈夫ではないのかもしれない。
「なぜこんなものを作ったんだ……」
千里が言うと、隠岐島はあっけらかんと答えた。
「アタシあんま料理得意じゃないんで、どうせマズいの作るくらいならいっそ振り切ってやろうと思って」
「こんな振り切り方をするんじゃない」
さすがの千里も呆れ気味だ。まったく、と言いつつもきちんと残りも持って帰ろうとするのは律儀な千里らしい。
「まあまあ。口直しもあるんで。そうよね白乃?」
「わ、私ですか」
「あら。渡さないの? っていうかいつまで須磨の後ろに隠れてるのよ」
「うう……」
諦めて白乃は大人しく須磨の陰から出ていく。
「……どうぞ」
「あ、ああ」
今朝うまく話せなかったせいか、千里が気を遣っているのがありありとわかる。とはいえ釈明するほどの余裕はなく、白乃はただ持っていたマフィンを差し出すことしかできない。
「……食べていいのか?」
「は、はい」
白乃が頷くと、千里は渡したマフィンを口に運ぶ。それを一口かじって、
「……、」
わずかに動きを止めた。彫刻のように。
「千里さん?」
「いや、何でもない」
何でもないらしい。白乃の気のせいだろうか。
かじったぶんのマフィンを呑み込んで、千里は言った。
「うん。美味い」
「――、」
自分で作ったものを褒められるなんて白乃にとってはいつものことだ。
いつものことなのに、なぜか今回に限っては心臓が跳ねた。
それを悟られないように白乃は視線を千里からやや逸らす。
「そ、そうですか」
「ああ」
「……よかったです」
ごく短い誉め言葉が妙に嬉しい。やはり今日の自分はおかしい、と白乃は確信する。
昨日までの自分なら絶対にこんな気分にはならなかったのに。
そんな白乃をよそに千里は白乃から受け取ったマフィンの残りをラッピングに戻すと、懐からスマホを取り出して時間を確認する。
「すまん、そろそろ教室に戻る。三人ともありがとう、また礼はする」
「はーい」
「引き留めてしまってすみません!」
須磨と隠岐島に見送られ、千里は去っていった。
ふう、と緊張が解けて白乃は溜め息を吐く。一体どうしてこんなに気を張っていたのか自分でもわからない。
白乃はさっき持って帰る用にと家庭科教師から受け取っていたジップロックの袋に視線を落とす。中には充のぶんと香澄のぶん、二つのマフィンが取ってある。
どうでもいい話だが、白乃が作ったマフィンは千里にあげたぶんも含めて三つだけだ。
本来なら試食でもしておくべきだったのだろうが、思いのほか手間取ってそんな暇もなった。
白乃は周囲に視線をめぐらせ、相変わらず視線が集まっていることを確認すると、
「二人とも、よかったらこれもらってください」
白乃は須磨と隠岐島の二人にジップロックから取り出したマフィンを渡した。
「え? いいの?」
「家族にあげるって言ってたじゃない」
「いいんです。持っているだけで何だか気疲れするので」
二人は顔を見合わせたが、白乃が言うなら、とそれぞれ受け取ってくれた。
「じゃあこれあげる! 交換ってことで!」
「アタシのもあげるわ」
「みくりさんありがとうございます。凛さんも、あの、気持ちは嬉しいんですけど」
「冗談よ」
そんな感じで白乃たちのマフィンはそれぞれ内輪で交換することになってしまったため、周囲の男子たちは残念そうにしながらもすごすご退散していった。
白乃としてはようやく落ち着けてほっと一息、という感じである。
教室に戻り席につく。余談だが、白乃と須磨の席は隣同士なので、隠岐島がそこに来て談笑するのがこの三人の基本スタイルだったりする。
須磨が自分の席に座りながら言ってくる。
「白乃ちゃん、これ食べてもいい?」
「別にいいですけど……授業始まりますよ?」
「一口だけ。だって白乃ちゃん料理上手いし、実は部活の朝練でお腹減っててさ」
三人の中で唯一の部活参加者である須磨がそんなことを言いつつ、「いただきまーす」と白乃作のマフィンを口に入れる。
瞬間、
「げほっ、しょっぱぁ!?」
何やら既視感を感じるリアクションで須磨が咳き込んだ。
「み、みくりさん!?」
「あら白乃。アンタもなんか仕込んだの?」
「いえそんな記憶は……すみません須磨さん、一口もらいます」
隠岐島に意外そうに言われたがもちろん白乃にそんな記憶はない。嫌な予感がする。
そして須磨に渡したものを一口かじってみると――口の中に一気に塩辛さが広がる。
「げほげほっ! あ、あれっ? 何ですかこれっ」
マフィンとしては有り得ないくらいしょっぱい。そして甘さがほとんどない。
まさか、と思って調理実習用の荷物を漁る。家から持ち込んだ材料の残りがそこにはあるわけだが、砂糖入りの小型タッパーの中身を舐めると思いっきり塩の味がした。
「白乃……まさか……」
隠岐島がドン引きしたような目を向けてくるが白乃も正直同じ気持ちだ。
「……須磨さんごめんなさい。砂糖と塩を間違えたみたいです」
穴が合ったら入りたい、ということわざの意味を体感した。今時小学生でもやらないようなミスだ。お菓子作りで砂糖と塩を間違えるなど。
どうやら白乃は今朝調理実習の準備をする際に持ってくるものを間違えたらしい。
(今朝の私、どれだけ頭回ってなかったんですか……!)
料理慣れしている白乃なら砂糖と塩など見ればひと目で違いがわかる。
だというのにこんな大ポカをやらかしたのは、やはり今日の白乃は調子が悪いということなのだろう。マフィンが完成したのが調理実習の終わり間近で、試食できなかったのもこの状況の一因だろうが。
「あーびっくりした……」
「本当にごめんなさい、みくりさん。大丈夫ですか?」
「大丈夫大丈夫。でもごめん、残りはちょっと食べられないかも」
「むしろ食べたら駄目です。病気になってしまいます」
被害を受けたにも関わらず気を遣ってくる須磨に、白乃はぶんぶん首を横に振る。自分のミスなのに相手に無理をさせるなんてあまりに申し訳ない。
須磨と隠岐島からマフィンを回収しつつ、白乃は内心で溜め息を吐く。
まさか今更こんなミスをするとは思わなかった。今日の自分はどうかしている。
「あ」
不意に須磨が何かに気付いたような声を上げた。
「なにみくり。どうかした?」
「いや、あのさ。……先輩、白乃ちゃんのマフィン食べてたよね」
「――あ」
白乃は思わず目を見開いた。
そうだ。ついさっき千里も白乃の作ったマフィンを食べていた。妙だと思ったのだ。口に入れてすぐ硬直していたから。普段の千里はあんな反応はしない。
おそらく味があまりにもおかしかったから驚いていたのだろう。
けれど、千里はそのことに言及せず普通に食べた。
美味しかった、と白乃に言ってくれた。
「……っ」
千里の意図が読み取れない白乃ではない。思わず口元を押さえて俯く。
申し訳なさと、やってしまったという焦りと、それから千里の優しさを嬉しいと思ってしまう気持ちが胸の中をぐるぐる回る。
ずるい。あの人は本当にずるい。
「神谷先輩って少女漫画に出てきそうな人だよね……」
「変な人だと思ってたけどさすがに今回は尊敬するわ」
そんなことを言い合う須磨と隠岐島だったが、今の白乃にはそちらを気にする余裕はなかった。
――やっぱり、今日の自分はどうかしている。
お読みいただきありがとうございます。
どこかでやりたかったネタが使えて満足!




