6月13日⑩
「災難だったなあ……」
秋名誠は恋人の家への帰り道、そんなことをぼやいた。
現在すでに恋人宅の最寄り駅を出たところで、ここから数分歩けば目的地のマンションへとたどり着く。
つくづく運のない日だったと秋名誠は思う。
白乃が大人しく呼び出しに応じたところまではよかった。
けれどまさか白乃の今の家族に嗅ぎつけられるとは予想外だった。しかもスマホを壊された。気絶するほどの力で殴られた。真面目そうな外見のくせにとんだ乱暴者だった。
今も顎や打ち付けた後頭部が痛い。本当に災難だ、と秋名誠は溜め息を吐く。
(目が覚めたらいなかったけど……写真を消すのは諦めたかな)
誠が気絶から意識を戻したとき、白乃も白乃の義兄と名乗った青年もいなかった。
神谷千里は白乃をいたく心配していたし、自分に詰め寄られて動揺した白乃を気遣ってすぐに離れたのかもしれない。
目が覚めるまで待たれて尾行される、というのが一番嫌な展開だったのだが、今のところその可能性はなさそうだ。
(……まさか美玖の住所なんて知ってるわけないし、もう安全だよね)
関口美玖。
香澄と離婚してすぐ、ナンパして引っかけたОLの女性。一人暮らしで寂しかったのか、それとも誠の整った顔に釣られたのか、住所不定無職というかなり残念な肩書の誠をあっさり受け入れてくれた。
美玖の家には誠が持ち出したPCも置いてある。
そしてそこには、白乃や香澄の盗撮写真も保存されている。
あの写真がある限り白乃が誠に逆らうことはできない。だから今日の失敗の巻き返しはいくらでもきく。さすがに多少時間を空ける必要はあるだろうが。
そんなことを考えながら誠は目的地のマンションまでやってきて――違和感に気付いた。
(……美玖? 誰かと話してる……?)
マンションの階段を上がると、扉の前で恋人の美玖と一人の女性が立ち話をしている。美玖の知り合いだろうか。
「やあ美玖、ただいま」
とりあえず誠はいつも通りの挨拶をする。
けれど帰ってきたのはいつも通りの反応ではなかった。
「――誠、聞きたいことがあるんだけど」
「え、な、なに?」
大股で歩み寄って来た美玖が誠を至近距離から見上げる。視線は普段では考えられないほどに鋭い。
普段とは違う様子に誠が戸惑っていると、美玖がこう言った。
「あんたのPCになんか盗撮っぽい写真がいくつも入ってたんだけど、あれ何?」
「――、何のこと?」
誠は意表を突かれたがどうにかそう応じる。
「覚えがないよ。っていうか美玖、僕のPCのパスワード知ってたっけ」
「あたしは知らない。けど、教えてもらったわ」
「誰に?」
美玖は質問に答えなかった。ただ、顎でしゃくって背後を示す。誠は視線をそちらに向けてぎょっとした。
そこにいたのはここにいるはずのない人物だった。
「香澄……?」
見間違いではない。間違いなくそこにいたのは誠の元妻である香澄だった。
笑みを浮かべてマンションの通路に立つ彼女は何も言わない。ただ漠然と、誠は香澄の笑みの質が記憶にあるものと異なるように感じられた。どこか硬質なものに見える。
「あんたの元奥さんなんだってね」
美玖は言った。鋭く咎めるような表情で、
「さっきここに来て、事情を全部話してくれたわ。あんたがどうして離婚したのか、今日どこで何をしてたのか。……まさか盗撮写真で実の娘を脅してたなんて思わなかったけど」
「……げ」
やばい、と誠は思った。全部バレてる?
だが理解できない。これはどういう状況なのだろうか。香澄が自分の隠し事を美玖にバラした? 香澄は千里か白乃からことの次第を聞いたのだろう。白乃が言うとは思えないので伝えたのはおそらく千里のほう。
だが、彼女はなぜこの場所を知っている?
それは千里も白乃も知らないはずなのに。
「納得のいく説明はできる?」
「あー、その」
美玖が誠を問い詰める。
だがPCを見られた以上納得のいく説明などできるはずもない。白乃や香澄の盗撮写真を保存していたのは事実だし、香澄本人がその場にいたならそれが適当にネットで拾って来たようなものでないことは一目瞭然だ。
「えっと……」
この状況で誠が美玖に対してできる効果的な言い訳。嘘でもいい。何かないか。
考えて、誠はここでようやく気付いた。
(……あれ、これ詰んでない?)
何もない。
盗撮写真があれば香澄や白乃には強く出られる。だが今の誠はスマホを破壊されているし、このぶんではPCも無事か怪しい。そもそも美玖には通じない。
「言うことはないってわけね……」
美玖は低い声で言うと、くるりと踵を返した。誠が呆気にとられているうちに自室に引っ込み、何やら物音を立てながら何かを抱えて戻ってくる。
誠は口元を引きつらせる。
美玖が持ってきたのは大きなゴミ袋。そしてその中身はどう見てもすべて誠の私物だった。衣服。なけなしの金品。それらがぐちゃぐちゃに詰め込まれている。
「ちょっ、美玖! 待って待って、さすがにそれは気が早くない!?」
「悪いけどもう無理。あたしも盗撮されてるかもしれないって思ったらもう耐えられなくなった。あんた気持ち悪いよマジで」
「美玖にはしてない! 本当だって!」
「信じられると思う?」
吐き捨てるように言い、美玖は誠の私物が詰め込まれたゴミ袋を誠に向かって投げつけた。ろくに体を鍛えてもいない誠の細身はそれを受け止めきれず、よろよろと尻もちをついてしまう。
唖然とする誠を見たこともないほど冷然とした視線を見下ろして、美玖は告げた。
「二度と顔見せないで。あと、今後うちの近所うろついてたら通報するから」
「待っ……!」
それだけ言うと美玖はさっさと部屋の中に戻ってしまった。ご丁寧に鍵をかける音まで響いてくる。
誠は自分の現状を認識した。
捨てられた、と。
「……、」
視線を落とすと、腹に乗るゴミ袋の中には見覚えのあるPCも入っていた。盗撮のデータを破壊するためか袋越しにも濡れているのがわかる。風呂にでも沈めたのだろうか。
呆然とする誠のもとに通路の奥からゆっくりと足音が近づいてくる。
力なく誠が顔を上げるとそこには香澄が立っていた。
「……何で香澄がここにいるわけ?」
香澄は初めて口を開いた。張り付けたような笑みを浮かべたままで。
「千里君が場所を教えてくれたから先回りしたの。LINEの履歴を遡ったら彼女さんとのやり取りの中に出てきた、って言っていたわ」
誠は舌打ちしそうになる。美玖とのLINEのトーク履歴を見られたということは、スマホはまだ壊れていなかったのだろう。ロックはかけていたが指紋認証で簡単に開く。
どうりで誠が目を覚ました時に千里たちがいないはずだ。すでに知りたい情報は手に入っていたのだからわざわざその場に残る必要はない。
香澄は美玖が消えていった部屋のほうを見ながら、
「彼女、はっきりした性格ね。あなたが私や白乃の写真を隠し撮りしてるって伝えたときは半信半疑だったみたいだけど、PCを持ってきて確かめさせてくれたわ。実際に写真を見つけたらすぐに追い出す準備を始めた。今後あなたに情けをかけることはないでしょうね」
そう言って香澄はくすくすと笑う。微笑ましい子供でも見るような表情で。
誠はぼそりと言った。
「……美玖だけが女じゃないさ。すぐに次の恋人を見つけてみせるよ」
「そうね。好きにすればいい。あなたがどんな人生を歩もうとあなたの自由」
香澄は歌うようにそう言って。
けれど、と。
突如雰囲気を豹変させた。
「けれど――今後私の家族に手を出すことは許さない。近づくことも。また何かするなら地獄まででも追いかけて言って破滅させる」
「……ッ」
誠の背筋がぞくりと冷える。香澄から一切の表情が抜け落ちた。普段発している穏やかな空気が消失し、凍てつくような錯覚だけが残る。
白乃は香澄のために自分を犠牲にしようと考えた。
香澄も同じだ。白乃を脅す誠のやり方は香澄のたったひとつの逆鱗に触れた。
「私は千里君みたいに優しくできない」
「……」
「二度とこんなことがないといいわね」
香澄の言葉はそれで最後だった。それきり誠に興味を失ったように誠の横を通り過ぎていく。動けない誠の背後で、香澄がかつかつと階段を下りていく足音が聞こえる。
「…………」
座り込む誠の脳内で、香澄が最後に誠に向けた一瞥が思い出された。
まるで死にかけの虫でも見るような視線。
「…………あの、年増」
気付けば誠は立ち上がり、香澄のあとを追って階段を駆け下りていた。自分を見下す香澄の視線が、誠の幼稚なプライドを傷つけた。
それでなくとも今日は災難続きだった。
自分が何をしたというのか。なぜこんなにうまくいかない。どうしてこうなる。
腹が立つ。逃がすものか。泣き叫んで謝るまで殴ってやる。
そんな激情に駆られて誠はマンションの階段を駆け下りた。
「香澄ぃ!」
エントランスから出ると香澄は一台の車に乗り込むところだった。タクシーではない普通の乗用車だ。引きずり降ろしてやる。
誠は勢いよく車のもとまで走っていって。
「――――、」
そこで、運転席に座る大男と目が合った。
時が止まったようだった。助手席に伸ばした誠の手が硬化する。ハンドルを握っているのは熊と見まごうような巨漢だった。なんだこの化け物は。
誠が動けずにいると、そのまま香澄を乗せた車はするりと動き出した。
誠はそれを追えなかった。
ただ呆然と走り去っていく車を眺め――もう何も考えられず、その場に立ちつくした。
「…………はぁぁあぁぁぁぁ……」
神谷香澄は助手席で突っ伏したまま盛大な溜め息を吐いた。
「大丈夫か」
声をかけてくるのは運転する神谷充だ。
秋名誠――つまり香澄の元夫が所有する盗撮写真を残らず消去したあと、二人は自分たちの家のある隣の県へと帰る途中だった。
「大丈夫だけど……ちょっと今もうすごくどうしようもないの。私なんでこうなのかなあ」
「……」
「白乃ちゃんがずっと苦しんでたのに気づかないなんて……母親失格だぁ……」
「…………」
どんよりした雰囲気を発する香澄に、充はどう言葉をかけていいのかわからない。
香澄のもとに千里から電話があったのは今から二時間ほど前のことだ。
秋名誠と会った。
そう告げた千里から、香澄はおおよそすべての事情を聞いていた。
白乃は二年前、浮気が発覚する半年も前から誠に写真を用いて脅されていたということも含めて。
「白乃ちゃんが男の人を苦手になってることは気付いてたけど……その原因があの人の浮気現場を見ちゃったからだと思ってた。驚いて、ショックを受けて、けど一回見ただけならそのうち平気になるかなって……今思えばひどい間違いだったわ……」
どんよりした声で香澄が呟く。
白乃は決して言わなかったが、香澄は白乃の男性恐怖症に気付いていた。気付いていたが、その度合いには大きな誤解があった。白乃が離婚の半年も前から誠に脅されていたなど思いもしなかった。
自分の察しの悪さにうんざりしてしまう。
というか子供に庇われる親など情けないにもほどがある。
結局白乃が危ない時に駆け付けたのは千里だった。彼には感謝してもしきれない。
「……あまり落ち込むな。秋名誠にはきちんと引導を渡してきたのだろう」
「……まあ、ねえ」
充の言葉に香澄は小さく頷いた。
秋名誠が持つデータを消す際、充は関口美玖の住むマンションの外で待機していた。香澄がそうするよう頼んだのだ。自分の手でけりをつけるために。
そうでなければ白乃に顔向けできないと。
香澄はきっちり誠に釘を刺してきたわけだが、かといって、それで自分のしてきたことに対する後悔が晴れるわけではない。
「一番気が重いのは、私、これから白乃ちゃんのこと叱らないといけないのよねえ……」
「……」
香澄の言葉に気まずそうに沈黙する充。
そう。
香澄は親だ。子供が間違えたら叱らなくてはならない。どんな理由があっても白乃が一人で大きな問題を抱え込んだのは看過していいことではない。
なぜ相談してくれなかったのか。
なぜ自分だけを犠牲にするような真似をしたのか。
そのあたりについてはきっちり話しておかなくてはならない。たとえ白乃が自分のためを思ってやったのだとしても。
……自分が白乃の異常に気付けなかったことを棚に上げて。
「親って難しいわ……」
香澄が本心から溜め息を吐くと、充は同意するように頷いた。
「だが、役目は果たさなくてはならない。子供たちが曲がってしまわないように」
半ば独白めいたその言葉に、香澄は小さく「そうね」と応じた。
恥知らずでも何でもいい。
頑張った白乃を叱って、諭して、それから抱きしめてやりたい。褒めることはできないけれど、自分は白乃の味方だと強く強く伝えたい。
帰り道を消化していく車の中で、香澄はずっと実の娘を想い続けた。
白乃ができるだけ傷つかない叱り方も含めて。
お読みいただきありがとうございます。
もう一話更新します。