6月13日⑨
「白乃はミルクティーでよかったか」
「……はい。ありがとうございます」
それから少しして、俺と白乃は近くの公園にいた。
たいして広くもない公園だ。遊具はさびていて、俺たちの他には誰もいない。俺が自販機で買ってきた缶入りのミルクティーを白乃に渡すと、白乃は俯きがちにそれを受け取った。
秋名誠が気絶している場所から十分ほど歩いたところにこの公園はある。
香澄さんが『任せろ』と言ったので俺たちは帰ることにしたのだが、白乃がとてもまともに歩けるような状態ではなかったため、しばらくここで休んでいることにしたわけだ。
「……いくらでしたか」
ミルクティーの缶に視線を落としたまま尋ねる白乃に俺はさすがに呆れてしまう。
「気にしなくていい。こんな時くらい甘えておけ」
「嫌です。むしろ千里さんのぶんまで私が払うのが筋でしょう。助けてもらったんですから」
「……嫌だ」
「何でですか」
理屈ではないのだが、なんかこう白乃から金をもらうのは気が進まないのだ。同居を初めて一か月が経ち、俺にも兄としての変なプライドが芽生えているのかもしれない。
「……はあ。じゃあ、今日はありがたくもらっておきます」
「ああ。そうしてくれ」
何か譲ってもらったような気分だが気にしないでおこう。
白乃は小さく嘆息してプルタブに指をかけ――
カツッ
「……」
カツッ カツッ ガリッ
「…………、」
「缶を寄越せ白乃。今爪から鳴ってはいけない音が聞こえた」
そういえば白乃は非力なんだった。本人曰くペットボトルですら開くときと開かない時があるらしいので、缶入りの飲み物など鬼門もいいところだろう。
「……お願いします」
そう言って白乃が大人しく缶を渡してくる。
その際に俺はようやく気付いた。
白乃の手が小刻みに震えている。
「……ああ」
俺は缶を受け取り、飲み口を開けてから白乃に戻した。白乃は短く礼を言ってそれに口をつける。俺は自分用に買ったコーヒーの缶を開けつつ言った。
「来るのが遅くなって悪かったな」
「……千里さんは悪くないです。というか、どうして私の居場所がわかったんですか?」
「須磨が聞き込みをしてくれて、最終的には隠岐島が教えてくれた。白乃が男と一緒に駅の近くにいるのを見たと」
まったく本当に運がよかった。須磨たちには後で礼を言っておかなくては。
「そうですか、みくりさんたちが……」
「二人とも心配していたぞ」
「そうですか。……迷惑をかけてしまいましたね」
「あの二人はそんなことは気にしないような気もするが。まあ、後で連絡のひとつでもしたほうがいいかもしれないな」
「はい。そうしておきます」
そこまで話して、俺たちはお互いに黙り込んだ。
話すべきことはあるような気もするが、俺から聞くべきではないような気がした。
白乃が視線を落としたままぽつりと尋ねてくる。
「千里さんはどこまで知っているんですか」
「香澄さんからは、秋名誠と離婚した理由と近々こちらに来るかもしれない、という警告を受けたな。何でも香澄さんの父にうちの住所を聞いたらしい」
「ああ……そういうことでしたか。どうりであの人が手紙なんて届けられたわけです」
白乃が納得したように言う。
「あとは秋名誠が言ったことくらいだ」
離婚前から白乃は秋名誠が浮気していたことを知っていた。知っていたが、言えなかった。盗撮写真で脅迫されていたから。写真についても今日までずっと告発できなかった。
「あの人、全部話していたんですね。さっきは頭が真っ白だったので全然耳に入っていませんでした」
白乃は苦笑し、自嘲するように口元を歪める。
それからぼそりと呟いた。
「半年間、私は母さんにあの人の浮気を隠し続けました。母さんが気付かないように協力さえしていたんです。写真のこともあったし、母さんにバレたらあの人がどんな行動に出るか予想がつかなくて」
「……」
「写真のことも今までずっと黙っていました。そのせいで今日みたいなことになって……周りに迷惑をかけて、心配させて。千里さんが来てくれなかったらどうなっていたかわかりません」
「……ああ」
「私は……どうしようもない大馬鹿です」
白乃の言葉は吐き捨てるようですらあった。
「……少なくとも、香澄さんに写真のことを言わなかったのはよくない」
「……はい」
白乃は素直に頷いた。きっと白乃は誰よりも理解しているだろう。
誰にも相談せず一人で抱えこんで、今回のようなトラブルに見事発展した。最初から香澄さんに伝えておけば離婚前に何らかの手を打てたような気もする。
今回はたまたま俺が間に合ったから何事もなく済んだが、白乃がまた傷を負っていた可能性もある。
「香澄さんにも怒られるだろうな」
「……母さん、怒ると怖いんですよね」
「そうなのか?」
正直想像もつかないんだが。
「普段からは考えられないくらい冷たくなるんです。滅多に怒ったりなんてしないんですけど……」
「……そうか」
白乃はちらりと俺を見た。
「千里さんは怒らないんですか」
「まあ、そういう気持ちもあるな。白乃がホテルに連れ込まれそうになっているところを見たときはかなりぞっとした。正直こんなことは二度としてほしくない」
「……すみません」
沈む白乃。心から反省しているようで、気の毒なほど落ち込んでいる。
何を言うべきだろう。少し考えて、俺は視線を遠くに投げた。
「だが――まあ、そのあたりの話は父さんや香澄さんに任せようと思う」
「え?」
目を瞬かせる白乃。
俺は言った。まっすぐに白乃と目を合わせて。
「白乃。二年間、よく頑張ったな」
「――、」
白乃は大きく目を見開いた。信じられないと言うように。俺は続ける。
「白乃は確かに判断を間違ったが、それは香澄さんを傷つけないためだろう。触れることができないほど男が苦手なのに、香澄さんの前ではそんな素振りも見せなかった」
「千里、さん」
「今日までよく耐えた。誰にでもできることじゃない」
白乃は確かに間違えた。自分一人で抱え込んで問題をかえって大きくしてしまった。人を頼りたがらないのは白乃の欠点だ。きちんと説教を食らって、改めていくべきだ。
けれどそれを指摘するのは俺の役割ではない。
父さんと香澄さんは親として白乃を叱らなくてはならない。勝手な判断で危ない状況を引き寄せた白乃を咎めなくてはならない。親だから、間違ったことは正さなくてはならない。
ならせめて、きょうだいである俺くらいは白乃を肯定してやりたい。
親は正しくなくてはならない。それは親の役目だ。
なら――きょうだいである俺の役目は、一緒に間違えてやることだとも思うのだ。
白乃がやったことは一面から見れば悪いことだ。周りに心配をかけたから。
けれどそれでも、大切な人を守ろうと頑張ったことだけは褒められてもいいはずだ。
「……、っ」
白乃はしばらくぽかんとして、それから何かに耐えるように唇を引き結んで。
「ずるい」
「……!?」
「ずるい、ずるいです、そんなの」
「その言われようは想定してなかったな……」
俺としては一応褒めたつもりなんだが。
そう言おうとして視線を上げて――俺は目を見開いた。
白乃は泣いていた。
目から大粒の涙を零して、肩を震わせて。
「だって、他にっ、どう言えっていうんですか。何ですか、本当に」
次から次へと溢れてくる涙をぬぐいながら白乃は言う。
「報われたみたいって、思っちゃうじゃないですか。そんなの、頑張ったなんて、私だって、自分が間違ってるってわかってたし、でも、言えなくてっ……一人でずっと、怖くて」
「……ああ」
そうだろうな、と漠然と思う。
俺と白乃は少し似ている。どちらも家族のことが大切で、心配をかけたくなくて、幸せになってほしい。だからきっと俺が白乃の立場だったら、おそらく似たようなことをしていただろう。その結果自分が苦しむことになるとわかっていても。
「ずるいですよ、そんな、どうして」
白乃の声は震えていた。
けれどそれはきっと恐怖とか、怯えとか、今まで白乃が抱えてきたものとは対極の感情によるものだ。まるで迷子の子供がようやく親を見つけた時のような。
「どうして、私が一番言ってほしいことがわかるんですかぁ……」
嗚咽交じりにそう言って、白乃はそれきり喋らなかった。ただぐすぐすと鼻を鳴らして俯いていた。
俺はただ無言で白乃のそばに居続けた。
白乃が泣き止むまでずっと。
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