6月13日⑧
ちょっと長めです。
白乃を見つけられたのは運がよかったとしか言いようがない。
白乃はもう帰ったと須磨に聞かされ、白乃を探しに行ったものの俺は手がかり一つ得られないまま時間ばかりが経過していた。それでもどうにか白乃を見つけられたのは、ある一本の電話のおかげだ。
『白乃なら、駅の近くで見かけましたよ』
隠岐島凛。
電車通学の彼女は、たまたま帰り際に白乃を目撃していたらしい。遠目ではあったが、見知らぬ男性と二人で歩いているのを見たと。それで、須磨経由で事情を聞いて俺に連絡してくれたらしい。
『見間違いかとも思ったんですけど……駅裏のほうに向かっていったんでちょっと気になって』
「……駅裏?」
『はい。先輩も地元だったらわかると思うんですけど、あのエロい店ばっか並んでるとこです』
隠岐島の言葉は事実だ。学校最寄りの駅周辺は道をひとつ外れるだけでいきなり毛色が変わってしまう。白乃に限ってまさか、とは思ったが放っておけるような情報でもない。
そしてその場に向かい、しらみつぶしにあたりを探して――俺は、見知らぬ男に腕を引かれ、涙を浮かべる白乃の姿を見つけたのだった。
「白乃ちゃんの家族って……ああ、噂の再婚相手の。連れ子がいるなんて知らなかったなあ」
さっきまで白乃の腕を掴んでいた男が能天気に言う。
線の細い優男、といった外見の人物だ。顔立ちは整っており、どこか無邪気さを感じさせる所作のせいもあるだろうが若く見える。だが、俺はその相手が誰か直感していた。
「……秋名誠というのはお前か」
「あれ、僕の名前知ってるの? 香澄から聞いたのかな」
「ああ。浮気をして香澄さんや白乃を悲しませた」
「えー、その話はもう手続き含めて終わってるのに蒸し返さないでほしいなあ」
「……」
珍しい感覚だ、と自分でも思う。
俺は人嫌いなほうではない。嫌われることはあってもこちらから嫌うことは滅多にない。
だというのに、目の前にいる男は初対面だというのにすでに嫌悪の対象としか思えなくなっている。
「白乃に何をしようとしていた?」
「ええ……それ聞くのって無粋じゃない? 場所見たらわかるでしょ」
呆れたように秋名誠が言う。彼の視線を追うと、きらびやかなホテルがある。その用途がわからないほど俺もズレてはいない。だが理解はできない。
「……白乃は実の娘なんじゃないのか」
「やだなあ、大事なのは本人の気持ちじゃないか。君が口出しすることじゃないよ」
「なに……?」
秋名誠はへらへら笑って俺の後ろにいる白乃を見やった。
「ねえ、白乃ちゃん」
「っ」
びくり、と白乃の肩がわずかに跳ねた。怯えたように。
「僕たちは合意のうえでここに来たんだよね?」
白乃は否定しない。
……どういうことだ? 様子を見る限りとてもそんなふうには思えない。なら、なぜ白乃は黙ったままでいるのだろう。
正直あまり考えたくないことだが、いわゆる近親相姦は犯罪ではないと聞いたことがある。タブー視されているのは事実とはいえ法律に違反しているわけではないと。
しかしこの場合において問題はそこではない。
白乃がここ――ぶっちゃけて言えばホテル街なのだが、この場所に男とともにいるというのがおかしい。白乃は男に触れるだけで強い拒否反応を示すというのに。
そもそも最初から妙だったのだ。
白乃が言っていた『用事』の相手とはこの秋名誠だろう。だが、男性恐怖症の白乃がなぜこの男と一人で会おうとした? 俺を避けてまで。
人に知られたくない何かがあった?
「……お前、何を知ってる?」
俺が尋ねると、秋名誠は首を傾げた。
「何のこと?」
「今朝、白乃宛の手紙が届いているのを見た。あれから白乃の様子がおかしい。今も、白乃は普段では考えられないような行動をとっている。白乃に何を吹き込んだ?」
「あー……」
秋名誠は笑顔のままそんな呻き声を出すと、やがて溜め息を吐いた。それから苦笑気味に俺を見てくる。
「めちゃくちゃ僕のこと疑ってる。香澄から何か聞いたのかなあ……」
何やらぶつぶつと言っていたが、すぐに秋名誠は俺に向き直った。
「まあ、そうだね。きみが知らないようなことを知ってるかもしれない。そのぶんだと白乃ちゃんも話してないみたいだし、きみが知ったらちょっとびっくりするかもね」
「……なに?」
「えっとねー」
秋名誠はポケットから取り出したスマホを操作する。
途端に俺の背後で白乃が息を詰めた。
「待って……やめて!」
「えー? どうしようかなあ」
「話が違います! 私が言うことを聞けばそれは誰にも見せないって……!」
俺は白乃の切羽詰まった声を初めて聞いた。普段冷静な白乃が取り乱すほどのものとは何だ?
白乃の様子がおかしくなったのはいつだ。
手紙。
今朝、手紙を白乃が見てからだ。
何が書かれていた。いや、封筒の中に入っていたのは本当に手紙だけだったのか?
「……写真、か」
「正解!」
俺の言葉に秋名誠はにっこり笑った。
「正確には盗撮写真ね。トイレとかお風呂場とか寝室とかに隠しカメラを仕掛けてたくさん白乃ちゃんや香澄の写真や動画を撮っておいたんだ。浮気が白乃ちゃんにバレてからは白乃ちゃんを脅すのに使ってた。離婚の半年前くらいからかな?」
「――――っ」
言葉が出なかった。
盗撮。隠しカメラ。脅した? 現実の話か、これは。何かに耐えるように白乃が俺の服の端を掴んでいる。そうするばかりで白乃は秋名誠の言葉を否定しようとしない。
「なぜ、そんな真似を……」
「保険だよ。セックスしてる時の動画撮っとけば、浮気相手に強請られたときもそこそこ強く出られる」
あまりの暴言に俺は目を見開くが、秋名誠はあくまで平然と続ける。
「さすがに浮気をバラされた時にはこれも告げ口されるかと思ったんだけど、白乃ちゃんはそうしないでくれた。ラッキーだったよ。おかげで今もこうして白乃ちゃんを言うこと聞かせられる。あんまり可愛くない今の彼女の代わりに、僕の欲を満たしてもらえる」
「……」
「実の娘ってのがネックだけど、まあ半分は香澄の遺伝子持ってるわけだし、そんなに気にすることもないよねえ」
「…………お前には」
俺は尋ねた。
「お前には、罪悪感はないのか……?」
妻を裏切って。娘を脅して。他人の人生を大きく狂わせておいて。
秋名誠はきょとんと首を傾げた。
「香澄なら離婚のときに慰謝料払ったし、白乃ちゃんにはきちんと『写真を公開しない』っていうメリットを差し出してるじゃない。どこに罪悪感を感じる必要があるの?」
「…………………………、」
秋名誠はどんな人間だと尋ねた時、香澄さんは異常者と吐き捨てた。あの人らしくない過激な表現だと思ったが、その印象は誤りだった。
異常者だ、この男は。紛れもなく。
慰謝料を払ったところで香澄さんの心の傷が癒えることはない。
白乃を脅すための写真はそもそも秋名誠自身が撮ったものだろう。
普通そのくらいのことはわかる。けれどこの男にはわからない。
本心から、自分が悪いとは思っていないのだ。
どうりでさっきから本能的な嫌悪感が止まらないわけだ。俺はこの男が行動や言動に滲ませる身勝手さが、図々しさが、心の底から気に入らない。
「千里君、だっけ? 嘘だと思うならちょっとくらい見てもいいよ。白乃ちゃんの裸とか興味ない? まあ二年前だから発育そんなによくないけど」
画像らしきものを表示してスマホを向けてくる秋名誠に、背後で白乃が焦りを通り越して怯えたような声を発した。
「だ、駄目です、見ないでくださいっ……!」
「……わかってる」
言われるまでもない。俺は視線を下にずらして間違っても秋名誠の手元を見ないよう意識した。
「あれ、興味ない? それか白乃ちゃんの前だから格好つけてる? まあどっちでもいいけど、もったいないことするなあ」
そんなことを言いながら、秋名誠は散歩でもするような足取りでこちらに近付いてくる。
「さて、白乃ちゃん。どうすればいいかわかるでしょ? こっちにおいで」
「……いや、です」
「あれ、さっきまで素直に言うこと聞いてくれてたのに。でも抵抗するのって時間の無駄だと思うよ。どうせきみは香澄を見捨てられないんだから」
「や……っ!」
そう言って秋名誠は無造作に白乃に手を伸ばしてくる。
俺はそれを横から掴んだ。秋名誠が怪訝そうに俺を見てくる。
「ねえ、何で止めるのかな。状況はちゃんとわかってるはずだけど」
「……ああ」
秋名誠は香澄さんや白乃に対して致命的ともいえる写真をいくつも持っている。
だから白乃に言うことを聞かせることができる。
「だったら離してほしいね。っていうか邪魔しないでくれる? ホテルの前で男女の邪魔するって傍から見たらすごいみっともないからね」
空いているほうの手で見せびらかすようにスマホを振ってくる秋名誠に。
俺は。
「え」
思い切り拳を突き出して、秋名誠のスマホを殴り飛ばした。
「ちょ、え、ええっ……!?」
秋名誠が引きつった表情で背後を振り向く。後方では勢いよくすっ飛んでいった秋名誠のスマホが駐車場の塀に激突、破片を撒き散らしながら地面に落下するところだった。
加減はしなかった。これで秋名誠のスマホが二度と不愉快な画像を映すことはないだろう。
「か、格闘技でもやってた?」
「特に。だが、望めば教えてくれる人間が身近にいた」
最近はやっていなかったが、我が家の物置にはサンドバッグが眠っていたりする。中学くらいまでは父さんにならってよくあれを練習台に空手の真似事をしていた。
「さて、これで写真も動画も消えたな」
俺が言うと、秋名誠は一瞬だけぽかんとして、それから笑った。
「は、ははっ……きみって頭良さそうなのに馬鹿だな。バックアップ取ってるに決まってるじゃないか。家のPCにも同じデータが保存されてるよ」
……なに?
俺が白乃を振り向くと、唖然としていた白乃もゆっくり頷いた。そうなのか。てっきりあれを壊せば何とかなるものだと思っていたのだが。
なら仕方ない。
俺は、ぐい、と秋名誠の胸倉を掴んだ。
「住所を教えてもらおう」
まだデータが残っているというのならそれも破壊すればいいだけのことだ。
宙に浮かす勢いで力を籠める俺に、秋名誠は信じられないような表情を浮かべたが、すぐに嘲笑へと切り替えた。
「は、ははっ。言うわけないでしょ。きみこそいいの? 僕の恨みを買うような真似をしたら、最後に困るのは白乃ちゃんや香澄だよ」
「……」
「手を離しなよ。きみの癇癪で白乃ちゃんの人生を台無しにするつもり?」
「……下衆が」
俺は吐き捨てた。
理屈の上では誠が弱気になる理由などない。写真や映像のデータさえ残っていればいくらでも報復できる。そして俺はそれを看過できない。
俺は無言で秋名誠を掴んでいた手を離した。
冷や汗交じりの笑みを浮かべていた秋名誠も、安堵したように息を吐く。
「わかってくれて何よりだ。それじゃきみはもう帰ってよ。あ、スマホの弁償代は今度請求するからちゃんと用意しといてね?」
そう言って、ぽん、と秋名誠が俺の肩を叩いてくる。勝ち誇ったように。
俺は嘆息した。
「お前は何を言っている?」
「え? だから、きみは帰っていいよって」
「そうじゃない。――今度があると思っているのか」
「何を……」
直後。
ドグシャッ! と盛大な音を立てて俺の拳が秋名誠の顎下にめり込んだ。
「え゛、ぁっ?」
秋名誠は比喩抜きで数十センチ浮き上がり、後頭部から地面に倒れた。白目を剥いたうえ口からは泡を噴いている。
脳震盪を起こしたのか、見事に気絶していた。
「――――っ」
俺の背後から白乃が息をのむ気配が伝わってきた。驚かせてしまっただろうか。だが俺もいい加減我慢の限界だったのだ。
「……白乃にあんな表情をさせておいて、俺が見逃すとでも思っていたのか」
口の中だけでそう呟き、俺は気絶した秋名誠を見下ろす。
軽い男だった。持ち上げられるほどに細身で、言動には重みがない。くだらない人間だ。こんな男に白乃や香澄さんが弱みを握られているとは。
「せ、千里さん……これはさすがに……」
「大丈夫だ。死んではない」
「そうではなく、あの、こんなことをしたら」
白乃の言いたいことはわかる。秋名誠に手を出せば写真をバラ撒かれる、ということだろう。スマホは壊したが家のPCにまだバックアップがあると言っていた。それを除去しなくてはならない。
俺は言った。
「それも問題ない。こいつが起きたら、報復のため一度拠点に戻ろうとするだろうが――そこを尾行して住処を突き止める。無理やり押し入ってでも秋名誠のPCを破壊してくる」
そうすれば今度こそ白乃たちを脅かすものはなくなるはずだ。
強引な手段なのは百も承知だが構っていられるか。
……本当は秋名誠の住処に先回りできればいいんだが、こいつの住所を知らないのがネックだ。それがわかればわざわざ尾行などする必要はないんだが。
「あ」
と、俺は思いついてさっき殴り飛ばした秋名誠のスマホのほうに向かっていく。
拾い上げるとその振動を感知してかロック画面が表示された。
これはついている。どうやら壊れていなかったらしい。
次に俺はのびている秋名誠のそばに屈みこんだ。
「千里さん……?」
「白乃。少し待て」
現状、秋名誠のスマホにはロックがかかっておりパスワードを入力するまで中を見ることはできない。だが人によっては指紋認証で簡単にロックを解除できるように設定していることもある。
秋名誠もその手合いだったらしく、右手人差し指の指紋でスマホのロックを解除することができた。よし、順調だ。
俺は白乃にロックを解除した秋名誠のスマホを渡す。
「白乃、悪いがこいつのLINEかメールを起動させてくれ」
「なぜ私が……」
「……間違って写真を見たら悪いだろう」
何を想像したのか、うぐ、と白乃が答えに詰まる。それから溜め息を吐いて俺からスマホを受け取った。数秒後、LINEの画面を表示してから俺に戻してくる。
「千里さんはさっきから何がしたいんですか」
「こいつの住所の特定だ」
それさえできれば秋名誠が目覚めるまで待って尾行などしなくて済む。
「……LINEを見てもわからないような気がしますが」
「秋名誠は今、新しい恋人の家に棲みついている」
「そう言っていましたね」
「なら、何かしらの会話の拍子――たとえばその恋人の家に最初に行く時なんかに、住所のやり取りをしているかもしれない」
その確認だ。
LINEを見ると最上位に『みく』というアカウントがあり、トーク履歴を見るとこの人物が秋名誠の恋人で間違いなさそうだ。
正直プライバシーの侵害もいいところだが、今だけは勘弁してほしい。
トーク履歴をさかのぼることしばらく、俺はおよそ一年前のやり取りの中に目当てのものを発見した。
「――見つけた。隣の県だな」
これさえわかれば問題ない。俺は持っていた秋名誠のスマホを握り潰した。
「……あの、千里さんいまスマホを片手で握り潰しませんでしたか……?」
今はそんな些細なことよりもっと大切なことがある。
俺は今度は自分のスマホで香澄さんに電話をかけた。
仕事中だけあって出ないことも考えられたが、通話は数コールのうちに繋がった。
『もしもし』
「仕事中にすみません。千里です」
『何かあったの?』
「秋名誠に会いました」
『――、』
電話口で息を呑む気配が伝わってきた。それからすぐ、『詳しく聞かせてもらえる?』と先を促される。
「はい。ことの発端は今朝届いていた手紙なんですが――」
俺は香澄さんに簡潔に事態を説明した。
秋名誠が白乃を呼び出していたこと。
白乃は盗撮写真をネタに脅されていたこと。
それは今回が初めてではないこと。
それらのことを話す間、白乃はうなだれて一言も発することはなかった。
「――そういう状況です」
『……わかった。ありがとう。千里君、そこに白乃はいる?』
「はい」
『代わってもらえるかしら』
俺はスマホを白乃に差し出した。白乃は震える手で俺のスマホを受け取り、香澄さんとごくごく短いやり取りをする。
どんな会話がされたのかはわからない。聞いていいのか、判断がつかなかった。白乃は何度も頷き、最後に「……わかった」と告げると、俺にスマホを返してきた。
俺は再び香澄さんに話しかける。
「もういいんですか」
『……ええ。それより、千里君。さっきあの人の住所がわかったって』
「はい」
俺が肯定すると、香澄さんはこんなことを言った。
『なら、それを私に教えてくれる?』
「香澄さんが行くつもりですか。……俺は反対です」
誠の現住所に行けば何があるかわからない。誠の今の恋人がいるかもしれない。誠が戻ってくるかもしれない。そんな場所に、被害者の一人である香澄さんを行かせるわけにはいかない。
けれど香澄さんは静かな口調で、
『いいえ。これは私の責任でもあるもの。だから私が行く。それに、今の白乃ちゃんを一人にはしておけないでしょう?』
「……あ」
ちらりと白乃を見た。さっきまでよりは顔色が良くなっているように思える。だが、精神状態まで普段通りだとは思えない。
なら、確かに白乃を一人にはしておけない。
かといって白乃を連れて誠の住処に行けるわけもない。
『とにかく、心配しないで』
香澄さんは言った。
静かで、それでいて強い口調で。
『私の手で始末をつけてくるから』
だから千里君は白乃ちゃんにそばにいて。
そう告げたのを最後に、香澄さんとの通話は途切れた。
お読みいただきありがとうございます!
このしんどい話も残り(おそらく)二話。
それが終わったらちょっと冒頭書き直すかもしれません。自分で書いといてなんですが、ラブコメの入り方じゃないですよねあれ。
そのあたりはまた活動報告でお報せさせていただきます。