6月13日⑦
「……自業自得ですね」
過去のことを思い出して白乃は呟く。
場所は喫茶店のトイレの中。秋名誠は今頃会計をしていることだろう。白乃は気持ちの整理をするために一人になれる場所へ逃げ込んでいるというわけだ。
白乃は香澄や自分の盗撮写真をネタに誠に強請られている。
今にして思えば、離婚した時にこれも話してしまうべきだった。
誠に報復される可能性もあったが、それも遅いか早いかの違いでしかない。白乃がそれを明かさなかったせいで誠は白乃たちの弱みを握ったまま放逐され、結果白乃は最悪の状況に陥っている。
――白乃ちゃん、僕のセフレになってよ。
誠はそう言った。
従うなど有り得ない。白乃が男性恐怖症だというのを差し引いてもあまりに狂気的な要求だ。白乃は言われた瞬間のことを思い出すだけでひどい嫌悪感に襲われる。
けれど逆らうこともできない。
その場合、白乃だけでなく香澄まで被害に遭う。それは白乃にとって絶対に看過できない選択肢だ。
どうするか。
白乃にとっては悩む余地のないことだ。
自分が一人で苦しむか、香澄を巻き込んで二人でつらい思いをするか。
――そんなもの、被害者が一人ですむ方がいいに決まっている。
「……っ」
自分がこれからどんな目に遭うか想像して白乃は口元を抑えた。
白乃はもう十五歳の高校生だ。それ以前に誠が実際に行為に及んでいる場面を何度も見ている。誠の言葉の意味がわかってしまう。
想像するだけで、足が震えた。
世界で一番嫌いな人間に犯される。尊厳を踏みにじられて、相手が快楽を得るための道具になる。それはどれだけの苦痛をもたらすだろうか。
それでも自分はそうするしかない。
「連絡、しておかないと」
白乃はどうにか冷静さを取り戻し、個室の中に持ち込んだ鞄からスマホを取り出した。
帰るのが何時になるかわからない。香澄たちに怪しまれないためにも連絡しておく必要がある。
電源を切っていたスマホを起動させると、予想はしていたが、何十件というLINEメッセージが届いていた。
そのほとんどは千里からのものだった。
トーク画面には『どこにいる?』『電話に出てくれ』『無事だと教えてくれるだけでいい』など、白乃を心配する内容のメッセージがいくつも表示される。
(……この人は、本当に)
ほとんど勝手にいなくなったような自分に対して怒ったりせず、こちらを思いやるようなことばかり言ってくる。
心配してくれているのだ。家族として。
それがどうしようもなく伝わってきて。
「――――、」
ぎゅう、とスマホを両手で強く握りしめる。固く目を閉じ、白乃は自分の心が落ち着くのを待った。そうしていないと千里に助けを求めてしまいそうだったから。
きっと千里は、白乃が望んだらやって来てくれる。白乃を守ろうとしてくれる。当たり前のように。
けれどそれでは駄目なのだ。
千里が来たところで何十枚という脅迫用の写真が誠のスマホから消えるわけではない。きっとバックアップも用意しているだろう。根本的な解決にならない。
白乃はスマホに視線を落とし、『すみません。少し帰りが遅くなりますが心配しないでください』と打ち込んだ。送信。すぐに既読はついたが、白乃は千里から返信が来るより早くスマホの電源を再び落とした。
これでいい。
もとは自分で蒔いた種だ。責任は取らなくては。
「あれ、白乃ちゃんもういいの?」
「……はい」
白乃がトイレを出て行くと、会計を終えた秋名誠が待っていた。
硬い表情で頷く白乃を見て秋名誠は「そう?」とだけ言って喫茶店の外に出た。
「いやあ、白乃ちゃんが素直に頷いてくれてよかったよ」
秋名誠は平然と言っている。その顔に罪悪感めいたものは一切ない。
「……約束は守ってくださいね」
白乃が言うと、秋名誠は心外そうに言った。
「もちろん。信用してくれていいよ」
「……」
返事をする気にもならない。白乃は黙り込み、秋名誠の後ろをついて歩いていく。
秋名誠はスマホを見ながら進んでいく。事前にここまで想定して場所のアテをつけていたのかもしれない。
「あったあった。ここだよ」
入り組んだ道をいくつも抜け、たどり着いたのは白乃が来たこともないような場所だった。目の前には派手な看板のホテルが建っている。帰り道はわかるだろうか、などと白乃はどうでもいいようなことを考えていた。
「はやく済ませましょう」
抑揚を失った声で言う白乃を秋名誠は慌てて止めた。
「わあ、待って待って。白乃ちゃん制服でしょ? このまま入ったら僕捕まるよ」
これ着て、と秋名誠はわざわざ用意していたらしい女性服を鞄から取り出して白乃に渡してくる。どうやらこれに着替えろ、と言いたいらしい。
「……着替えるような場所が近くにあればいいですけどね」
白乃がぼやくと、秋名誠は言った。
「え? ここで着替えればいいじゃん」
「……は?」
秋名誠はホテルのすぐ隣の敷地を指さして、
「駐車場の車の陰とかでさ。っていうか、せっかくだから着替えてるとこ見せてよ。僕そういうの見るの好きなんだよね」
「………………、」
きもちわるい。
喉まで出かかったその言葉を呑み込むのに白乃は苦心した。嫌悪感が抑えられない。どうしてそんなことを無邪気に言えるのだろう。
秋名誠はそんな白乃の軽蔑にも気付かない。
「ほら、こっちこっち」
「ちょっ……!」
無遠慮に腕を引かれ、白乃は一気に血の気が引いた。視野がぐっと狭くなり足裏から地面の感覚が遠ざかる。男性との接触による拒否反応の前触れ。
「やめてください!」
「こら、大声出したら目立つでしょ。静かにね」
秋名誠は足を止めない。白乃の不調などどうでもいいのか、あるいは気付いてすらいないのか。ぐいぐいと腕を引いてホテルに隣接する駐車場に白乃を連れ込もうとする。
「やめて、ください……」
白乃がほとんど泣きごとのようにそう口にして――
「何、やってる」
声が聞こえた。
いるはずのない人間の声だった。秋名誠が目を瞬かせて白乃の背後を見ている。
白乃が呆然と振り返ると、そこには見慣れた青年の姿があった。
(せんり、さん……?)
神谷千里。血のつながらない白乃の兄。
千里は大股で歩いて近づいてくると、白乃の腕を引く誠の手を強く掴んだ。ぎしり、と軋むような音が鳴る。
「ちょ、痛い、痛いんだけど」
「手を離せ。今すぐ」
怒りを無理やりに抑えつけるような平坦な声で千里が言う。秋名誠は慌てたように白乃を掴んでいた手を離した。
千里は白乃を引き寄せて背に庇う。千里の温かい手が、広い背中が、白乃のぐちゃぐちゃだった精神状態を和らげていく。泣きたいような安堵感が白乃の胸を満たす。
(……ぁ)
いつもそうだと白乃は思う。
白乃が助けを求めたわけではないのに、千里はいつだって白乃が困っていたらやってくる。クラスの男子に腕を掴まれた時も。慣れない土地で道に迷った時も。体育祭で倒れた時も――今だって。
白乃の身勝手で都合のいい願いを叶えるように。
まるでヒーローみたいに。
秋名誠は「いったぁ……」と掴まれた手をさすりながら千里を見た。
「……きみ、誰?」
「白乃の家族だ。――俺の義妹によくも手を出してくれたな」
そう言って。
千里は秋名誠を正面から睨んだ。
お読みいただきありがとうございます。
ここから千里のターン!
……感想欄で複数の方にご指摘をいただきまして、疑問に思った方が他にいらっしゃるかもしれないのでこちらで回答をさせていただきます。
白乃が盗撮写真のことを離婚の際に打ち明けなかった理由。
これは、誠に対する恐怖が白乃の判断力を奪っていたためです。
香澄もいる。
弁護士も味方についてくれる。
けれどどうしても誠に逆らうのが怖い。写真を回収できたとしても、それをバラしたことで誠の怒りを買うかもしれない。いつか復讐されるかもしれない。
その不安によって白乃は結局写真のことを言えませんでした。
特に離婚手続きで余裕をなくしている香澄には言いづらかったと思われます。
そのことについて白乃は今では後悔しています。