6月13日⑥
ちょっと長めです。
香澄と誠が離婚したのは二年前の冬。
誠の浮気が発覚して間もなくのことだった。香澄は白乃から誠の浮気を聞かされるとすぐに行動を起こした。悲嘆に暮れるでもなく合理的に動く母を見て、白乃は初めて香澄が『強い』人間なのだと知った。
香澄はおそらく白乃が誠の浮気を知ったのはその時だと認識している。
けれどそれは誤りだ。
本当は――白乃は発覚する半年以上も前からそのことを知っていた。
時期は夏だった。白乃はたまたま風邪を引いて、学校を早退した。親には保健医が連絡したがどちらも仕事中のためかすぐには通じなかった。
保健医に車で送ってもらい、家に入ると妙な物音が出迎えた。
――居間では、実の父親と見知らぬ女性が裸で性行為の最中だった。
「え、あ」
「あれ、白乃ちゃん?」
「……っ!」
すっとんきょうな誠の声が聞こえた。白乃は頭が真っ白になり、居間から自室に逃げ込んだ。その場は何が起こっていたのか理解できなかったが、自室の扉を背に数秒考えて、そういうことなんだと思い至ってしまった。
けれどとても信じられず、白乃はそれをただの白昼夢だと思い直した。
自分は体調を崩している。ひどい頭痛もした。だからありもしない光景を幻視したのだ。だって、香澄と誠はあんなに仲がいい。夕食の時はいつも白乃の作った料理を食べながら談笑している。だから、見間違いだ。
そう思って、けれど居間の様子を確認しに行く気にもなれなくて、白乃は自室のベッドにもぐりこんだ。
起きたらすべてが元通りになっていると信じて布団を被り、目を閉じた。
どのくらい寝られたのかはわからない。
十分ほどにも、数時間にも感じられた。
白乃はぎしりという物音で目を覚ました。
「ああ、起きちゃった?」
のうのうとそんなことを言ってくるのは、白乃の自室に入ってきた誠だ。
そのいつも通りの姿に白乃はほっとする。ああ、いつも通りの父だ。寝る前に見た居間での光景は現実ではなかった。
「……父さん、さっきのは――夢、ですよね」
半ばうわごとのように口にする白乃に、誠はきょとんとした顔で。
「? いや、居間で浮気相手とやってたのは事実だよ」
「……ぇ」
「いやあ、白乃ちゃんが早退してくるなんて予想してなかったな。っていうかスマホ見たら学校から留守電入ってたよ。夢中でぜんぜん気付かなかった。色々気を遣ってるつもりでいたけど、やってる時って頭が回らなくなるものなんだねえ」
他人事のようにそんなことを言う誠に戸惑う。
何を言っているのかわからない。頭ががんがん痛む。それでも白乃は言葉を絞り出した。
「父さんは……浮気、しているんですか」
かすれた声でそう訊くと、誠はあっさり頷いた。
「うん。ちょっと前からね」
「――、」
信じられないような思いだ。浮気。その言葉は、当時中学二年生だった白乃にはひどく現実離れして聞こえた。
「どう、して……」
「別にたいした話じゃないけどね。職場の若い女の子と仲良くなって、一回やったらあとはなし崩し的にって感じで関係が続いてるだけ。よくあることだよ」
特に言い訳めいたふうでもなくあっけらかんと言う誠。
白乃があまりの言葉に愕然としていると、「まあそれはいいとして」と誠はあっさり話をぶった切ってしまう。
「でも、さすがにバレると色々面倒なんだ。白乃ちゃん、このままだと香澄に言うでしょ? それは困るからちょっと口止めしとこうと思って」
「口止め……?」
「うん」
そう言って誠は片手に持っていたスマホを操作し、白乃に見せてくる。
「――ッ」
それを見て白乃はさらなる驚愕に見舞われた。
「これ、って」
「そう、隠し撮り。うちって五台くらい隠しカメラ仕掛けてあるんだよね。まあ仕掛けたの僕なんだけど」
そこに映っていたのは白乃や香澄がトイレや脱衣場、浴室を利用している写真や動画の数々だった。アングルは上部や斜め下からなど気付きにくいものばかりで、当然白乃や香澄もそれを知らず当たり前のようにそれらの箇所を使っている。
場所が場所なので白乃も香澄もデリケートな箇所まで撮影されている。動画では音も。その光景が映像として誠のスマホに記録されている。
白乃は羞恥より先に恐怖を覚えた。
理解不能な事態に眩暈がする。頭が痛い。吐きそうなくらいだった。
「本当は浮気相手をハメ撮りして、脅された時なんかの防衛策にしようと思ってたんだけど……まあ結果オーライだよね。ほら見て、白乃ちゃんがシャワー浴びて素っ裸で出てくる動画とかすごい綺麗に撮れてる」
子どものように笑ってそんなことを言う誠。
白乃は絞り出すように尋ねた。
「そんなの、どうするつもりなんですか」
誠はごく自然な口調で、
「決まってるじゃないか。白乃ちゃんを脅すんだよ。この写真や動画を流出させたくなかったら、僕の浮気について黙ってろって」
「――――、」
白乃は今度こそ絶句した。その様子に満足するように誠は頷く。
「君たち見た目が綺麗だから、サイトに上げたらすぐ話題になるだろうね。うっかり身元が特定なんてされたらどうなるかな。破滅だよ破滅。まあそうなると僕も危ないんだけど……白乃ちゃんが黙ってさえいれば誰も不幸にならない。香澄もね」
誠は親だけあって白乃の性質を理解している。
白乃は無理をする性格だ。
親が共働きで夜遅くまで帰ってこず、一人ぼっちの時間が多くても文句ひとつ言わない。同世代の子と比べて明らかに多い家事を与えられても泣き言ひとつ言わない。親を困らせたくないからわがままも言わない。
自分のためならともかく、香澄を巻き込んでしまえば絶対に言うことを聞く。
「わかり……ました」
白乃は頷くしかなかった。
誠は浮気をしている。いけないことだ。正さなければ。けれど言えば自分だけでなく香澄までひどい目に遭う。自分が我慢すればそうはならない。
「誰にも、言いません。母さんにも……」
白乃がそう言うと誠は満足そうに笑った。「ありがとう、助かるよ」明るい声でそんなことを言った。
けれど、それで終わらなかった。
「――でも、一応保険かけとこうかな」
そう言って誠は白乃の横たわるベッドに無造作に近づき、掛け布団をまくり上げた。
白乃は行動の意図が読めずに呆気にとられる。
誠はベッドの上に白乃をまたぐように乗り、着たままだった制服を脱がそうとしてくる。
「え、あ、何を」
「んー、やりづらいな」
困惑する。動けない。金縛りにあったようだった。夏服のシャツのボタンを一つずつ器用に外していく誠に、白乃はいよいよ恐怖を覚えた。
「やめ、やめてください」
「あーもう動かないで」
自分の体をよじって逃げようとするがかなわない。もともと体調が悪かったうえに相手はまがりなりにも成人男性だ。ただでさえ力の弱い白乃は、押さえつけられて動けない。片手だけで両手首を掴まれ、頭の上に固定される。どれだけ暴れてもびくともしなかった。
シャツのボタンをすべて外される。
白乃のきめ細やかな肌も、形のいいへそも、ささやかな膨らみもすべてが外気にさらされる。白乃は思考が空白になって何も考えられない。
誠は白乃に馬乗りになったまま空いた手でスマホを構えた。
そして、ぱしゃり、とシャッター音が鳴る。
何度も、何度も、何度も。
「――ぁ」
撮られた。こんな姿を。自分の状況を理解して白乃の胸中が恐怖と焦りで溢れた。やめさせなければと思うが、手は押さえつけられ、体は誠の下敷きにされてどうにもならない。
誠はシャッターを切りながら小さく笑う。
「あはは、白乃ちゃんまだぺたんこだね。中二ってこれくらいが普通なの?」
「~~~~っ」
まるでモノを見るような無遠慮な視線や言葉に傷つけられ、白乃は言葉にならないほどの羞恥を感じた。
けれど逃げることはどうしてもできず、最後には脱力した。
早く終わってくれとそればかり考えていた。
「はい、もういいよ」
しばらく白乃のあられもない姿を撮ってから誠は白乃の上からどいた。
それから撮ったばかりの写真を白乃に見せつけて、
「浮気のことをバラしたらこれも公開する。でも、言わないでいてくれたら誰にも見せたりしない。約束するよ」
「……、」
誠は一仕事終えたような満足そうな表情を浮かべた。
「そういうわけだから、これからも家族としてよろしくね」
拒否権などあるはずもない。
白乃は言うことを聞くしかなかった。
――結局、白乃はその後半年にわたって誠の浮気を隠し続けた。
家族三人で食事する時も何も知らないふりをした。
父の日には香澄と一緒に誠のためのプレゼントを選んだ。
誠が処理し忘れた居間のソファに染みついた生臭い匂いの後始末もした。吐き気をこらえながら。
そんな生活が崩れたのは冬のある日のことだった。
白乃は半日授業で、誠はそれを知っていたのに、白乃が中学から帰ってくると誠は居間で浮気相手との性行為の真っ最中だった。
そういったことは何度かあって、白乃は見るに堪えないので例によってすぐ家を出ることにしていた。外で時間を潰して、浮気相手がいなくなるタイミングを見計らって戻る。
けれどその日は違った。
玄関から出て行こうとする白乃を誠が呼び止めたのだ。
「あ、待った待った白乃ちゃん」
「……」
喋る気にもなれず黙っていると、今から上半身裸に下はズボンだけという恰好で誠が居間から出てきた。
嫌な予感がした。悪い予感ばかり当たる。
誠はこんなことを言った。
「今日は白乃ちゃんも一緒にやらない?」
「……は?」
「僕と彼女と白乃ちゃん、三人でさ」
新しい遊びを思いついた子供のように。
「家でやってる、ってだけだと最近マンネリ気味なんだよね。白乃ちゃんが混ざったらいい刺激になると思うっていうか」
何を言われているかわからなかった。わかりたくなかった。
混ざれ? 誠と浮気相手に? 自分が?
あまりのことに硬直する。
この男は自分を脅すだけではなく、快楽を得るための道具にすると言っているのか。
「ほら、こっち来て」
固まる白乃を急かすように誠が腕をぐいっと引いた。
それが引き金になった。
強い力だった。白乃が逆らえないような。一瞬で半年前、ベッドで押し倒され脅迫用の写真を撮られた時の記憶がよみがえる。
限界だった。
「ああ、ああっ、あああああああああああっ!」
半年もの間浮気の片棒を担がされた罪悪感や恐怖がごちゃ混ぜになり、白乃の判断力を奪った。白乃は半ば反射的に誠の手を振り払って外に逃げ出した。
逃げる先があったのは白乃にとって唯一の幸運だった。
香澄の父母、白乃にとっては祖父母にあたる二人が白乃の移動できる範囲に住んでいたのだ。白乃はがむしゃらにそこまで走り、逃げ込んだ。誠は追ってこなかった。
何があったのかと尋ねる祖父母に白乃はとうとう色んなことをぶちまけた。
誠が浮気をしている。
家で知らない女と寝ていた。
自分も混ざれと言われて怖くなって逃げ出した。
そこから先は早かった。
祖父母――祖母が香澄に連絡し、仕事を放り出して帰って来た香澄が誠を問い詰める。誠はあっさり浮気を認めた。そこからわずか一か月後には協議離婚が成立していた。
財産分与や白乃の親権などについて、誠は香澄が告げた条件をすべてあっさり呑んだ。
香澄の父などはそれを反省の証拠と認識したようだが、白乃から見ればそれは単に面倒ごとを避けただけだ。誠は香澄や白乃のことなどすでにどうでもよくなっていたのだ。
「ごめんなさい、白乃、ごめんなさい……」
すべてが終わって、誠の痕跡がすべて消えた自宅で香澄は初めて涙を流した。
白乃はこう言った。
「母さんが謝ることないよ」
いったい香澄の何が悪かったというのだろう。彼女は被害者だ。悪いのは誠と――自分だ。
白乃は香澄に二つ、隠し事をした。
一つは誠が持つ盗撮写真のことを最後まで言えなかったこと。
言えば誠がどんな行動に出るのか予想できなかった。誠はまだあの写真を持っている。今後誠の気まぐれで香澄や白乃に悪いことが起こるかもしれない。
もう一つ。
白乃は誠に「混ざれ」と腕を掴まれてから、男性との接触や接近に激甚な拒否反応が現れるようになった。
誠にされたことが瞬間的にフラッシュバックするからだ。けれどそれはとても言えない。これ以上香澄に重荷を背負わせるような真似はできなかった。
それから一年半。
白乃は現在に至るまで、ずっと嘘を吐き続けている。
お読みいただきありがとうございます。