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6月11日④


 居間のソファに白乃と並んで座る。


 ソファの前のガラステーブルには点けっぱなしにした懐中電灯が置いてあり、周囲くらいはどうにか見える状況だ。


 まだ復電する気配はない。


「白乃、大丈夫か」

「……懐中電灯があるのでまだマシです」

「それはよかったが……お前、俺に触りっぱなしで平気なのか?」


 停電するなり白乃は俺の部屋に突撃してきて、それからずっと俺にくっついている。


 今は俺の服を掴んでいるだけだが、普段の白乃ならかなりつらいはずだ。


「……今はそれどころじゃないので」

「男性恐怖症よりひどいのか……」


 俺の服を掴む白乃の手は、小刻みに震えている。相当に怯えているのは間違いない。


 というか近い。


 本当に大丈夫なのかこの近さは。一応ビニール手袋は装着しているが、電気が復旧した瞬間にどうなるか想像がつかないぞ。


「せ、千里さん。何か話してください」


 白乃がそんなことを言ってきた。


 どうやら会話することで恐怖を紛らわせたいらしい。名案だ。


 では、こういうのはどうだろうか。


「第一問」

「え?」

「生物の受精卵において発生初期の細胞分裂を何という?」

「え? ……ら、卵割?」

「卵黄が少なく均等に分布する種類はわかるか」

「等黄卵、ですけど」

「ではその等黄卵に属するウニの発生について桑実胚以降の流れを簡潔に説明してくれ」

「桑実胚から胞胚になりその時期に孵化、さらに原腸胚を経てプルテウス幼生に――千里さん」


 流れるように答えていた白乃が途中で待ったをかけてくる。


「あの、なぜこのタイミングで生物の問題を……?」

「? このあたりは期末試験の範囲じゃなかったか?」

「それはそうですが、そういうことではなくてですね」


 確か去年の俺はこの時期そのあたりを勉強していたはずだか、どうも白乃は気に入らないようだ。


 となると問題が悪かった、ということだろうか。


 やはり試験に出やすい種子形成の計算やシュペーマンの交換移植実験から出題するべきだったのかもしれない。あるいは原基分布図か。

 しかしこうも暗いと図が必要になる問題は出しづらいんだが――



 がたがたがた、と窓が揺れた。



「……っ!」


 その音に肩をこわばらせ、白乃が俺の服を握る手に力を込めた。

 相当な怖がりようだ。その様子に俺は内心で少し不思議に思ってしまう。


「雷は平気そうだったのに、暗いのはそんなに駄目なのか」

「……はい」

「何か原因でもあるのか?」


 暗闇といえば真っ先に浮かぶのは幽霊のたぐいだろうか。もしくはどこかに事故で閉じ込められてしまったことがある、というのも考えられる。


 今後のためにも、そのあたりのことを聞いておきたかったのだが。


 白乃は、ただ無言で俯いた。


 白乃の表情は見えない。だが、唯一見える口元は固く引き結ばれている。


 数秒経って、白乃はようやく口を開いた。


「……言いたくありません」

「……?」

「思い出したく、ないんです。だから言えません」


 思い出したくない。だから言えない。


 この反応だけで、白乃が暗闇に怯えていることには明確な理由があることがわかる。


 それが何かはわからないが、まあ、言いたくないことを無理に聞き出す必要はないだろう。


 それにしてもだ。


「白乃は……」

「……」

「――意外と弱点が多いな」


 ぴき、と白乃のほうから何か聞こえた気がした。


 男嫌い、方向音痴、運動音痴、暗所も苦手。


 白乃が家に来てからまだ二週間しか経っていないというのに判明した弱点の数はすでに四つ。もちろん容姿だったり料理だったり長所もたくさんあるのだが、正直心配になる数だ。


「……、そうかもしれません」


 白乃は何か言いたげだったが、結局口にしたのはそんな言葉だった。


「私はできないことや怖いことがいっぱいあります。そのたびに周りの人に――みくりさんや、凛さんや、千里さんに負担をかけています」


 沈んだ声だった。


 もしかしたらそのあたりについて、白乃は気にしていたのかもしれない。


 俺は慌てて言った。


「いや、別に責めているわけじゃない。須磨や隠岐島も気にしていなかったと思うぞ」


 何しろ白乃が心配だから情報共有をしましょうと、二年の俺の教室まで尋ねてきたくらいだ。白乃を迷惑だと思っていたらそんなことはしないだろう。


「それに俺は毎日白乃に美味い料理を食わせてもらっている。負担になど感じたことはない」

「ですが……」


 白乃はあからさまに納得していない様子だ。

 釣り合っていない、とでも思っているのかもしれない。


 このあたりは主観の問題なので何とも言いづらい。白乃の料理はもうどうしようもないくらい美味いのだが、白乃がその価値を正しく認識していない節がある。


 俺は少し考えて、言った。


「少なくとも俺は、迷惑をかけられるほうが嬉しい」


「……え?」


「母さんの話は知っているだろう。母さんは俺が中学三年の時に病気で倒れた。そして俺は目の前で母さんが倒れるまで、不調に気付いてやれなかった」


 その時のことは今でもよく覚えている。


 これから先も忘れることはないだろう。


 決してそうは言わなかったが、母さんの中には高校受験を控えた俺に心配をかけまいという意識があったはずだ。だからこそ俺の前で気丈に振る舞い続け、手遅れになるまで病院に行かなかった。


 俺が気付いていれば、母さんは死ななかったかもしれない。


 そう思うと今でもやりきれなくなる。


 仏壇の前に座るたびに、りんを鳴らすたびに、試験の成績を見せるたびに、後悔ばかりが腹の底にわだかまっていく。


「俺は察しが良くないから、気をつけていてもわからないことが多い。嫌なことも怖いことも、きちんと言ってくれたほうが気が楽になる」


「……」


「白乃は負担をかけていると言ったが――それは逆だ。俺は助けを求められないことが一番怖い」


 だから、と俺は言った。


「だから、白乃は気にしなくていい。苦しかったりつらかったら頼っていいんだ。義理とはいえきょうだいだ、遠慮する必要はない」


「…………、」


 白乃は黙って俺の話を聞いていた。


 数秒黙り込んでから、ぽつりと言う。


「……またそうやって私のことを甘やかす」

「そういうつもりではないんだが……」

「でも、覚えておきます。私、弱点が多いので」

「もしかして根に持っていないか」

「冗談です」


 白乃は小さく笑った。


 その様子を見て俺は、おお、と思う。


 会話の影響かはわからないが、俺の服を掴む白乃の手から震えが止まっていた。


「白乃、少し怖さがおさまってきたんじゃないか?」


 白乃は今気づいたように、


「そう、ですね。話していたらわりと――」



 ふっ、とテーブルに置いていた懐中電灯の明かりが消えた。

 白乃がすごい勢いで抱き着いてきた。



「せっ千里さっ……千里さぁん!」

「落ち着け白乃! 物体の位置関係は何一つ変わっていない!」


 よりによって白乃が暗闇への恐怖を薄れさせつつあったこのタイミングで懐中電灯の電池が切れたようだ。


 電源を何度も入れるが復活しなかった。


「ああ……ああああ……」

「だ、大丈夫か……?」


 これはまずい。


 完全な暗闇となったことで白乃が服を掴むだけではなく、かなり強く俺の腕に抱き着いている。何かにすがっていないと耐えられないのだろう。


 白乃は余裕がないため気付いていないらしいが。

 そして俺の立場からこんなことは口が裂けても言えないが。


 ……髪からいい匂いがする。


 あと、二の腕のあたりに何か柔らかい感触が――


「ふっ!」

「ひっ!? 千里さん何をしているんですか!?」


 何でもない。義妹相手に一瞬とはいえ不埒な考えがよぎった情けない自分に対して殴打という名の喝を入れただけだ。


「は、白乃。悪いが少し離れてくれないか」

「無理です! お願いですからそばにいてください!」


 思い切り腕を掴んできて、しかもそれがたいして強い力にもなっておらず、さらに怖がってこちらにすがってくる白乃は反則的なまでに可愛い――まずい、違う、不謹慎にもほどがあるぞ! 白乃は本気で怖がっているというのに!


 この状況はまずい。本当にまずい。俺の調子がおかしい。


 だが白乃を引きはがすのはあまりにも酷だろう。


 どうする。


「……あ」


 そこで俺はふと思い出した。


「白乃、少し俺の部屋に行ってもいいか」

「せ、千里さんの部屋に……?」

「取りにいきたいものがあるんだ」

 お読みいただきありがとうございます。


 作者の通っていた高校では理科は一年が生物、二年が物理と科学でした。今だと確か地学も含めて四つやると聞いたんですがマジですか……?

 三教科でもしんどかったのに四は死ぬのでは。


 次回かその次あたりで6月11日は終わる予定です。

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