6月11日②
ざああああ、と激しい雨が窓の外から聞こえてくる。
教室の出入口からは「早く帰らないと」「っていうか傘忘れた!」と慌てたような声が聞こえてくる。
(……すごい雨だな)
そんな状況の中、俺は自分の席に座ったままプリントの整理をしている。
信濃が話しかけてきた。
「あれ? 千里、帰らないの?」
「まだやることがあるんだ」
「やることって、そのプリントの整理? ……それって委員長の仕事じゃなかったっけ」
と、俺の手元を見ながら信濃が言ってくる。
確かにこれは俺の仕事ではない。
「委員長は家が遠いからな。雨がひどくなる前に帰ったほうがいいと思って、仕事を引き受けたんだ」
今日の夕方から明日の朝にかけて、季節外れの台風がやってくる。
交通機関で通学している生徒は下手をすれば帰れなくなってしまうかもしれない。そうなると、徒歩通学の俺のほうがまだ居残りしやすい。
信濃は呆れたような顔になった。
「千里らしいね。せっかくだから、プリントの仕分けくらいボクも手伝うよ」
「いいのか?」
「職員室に運ぶのはめんどくさいからやんないけど」
「じゅうぶん助かる。ありがとう」
と、作業再開。
生徒ひとりにつき三枚もある数学の問題用紙を出席番号順に並べながら、信濃がふと思い出したように言った。
「そういえば、姉さんからこれ預かってたんだった」
そんなことを言って鞄から何やら布製の袋を渡してくる。小型の巾着のようなもので紐を引くと口の開閉ができるようなやつだ。
「姉……というとイヴさんからか」
「うん」
信濃には大学生の姉がいる。一応俺とも顔見知りで、たまにLINEが飛んできたりするくらいの交友はある。
「ふむ。中には一体何が――」
俺は信濃から受け取った袋を開き、
→ 手錠
「一応使い道があるかもしれないからって」
「あの人は俺を何だと思っているんだ」
一般的な男子高校生が手錠を使う機会などそうそうないだろう。
「あと、もし使うなら千里がそれ着けてるところ写真に撮って送ってくれって言ってた」
「ああ……そういうことか」
あの人は相変わらずだな。悪ふざけの可能性も否定できないが。
「まあ、着ける機会があればそうしておこう」
「千里ってほんと動じないよね」
「そうか?」
そんな感じで話しながら手を動かしていると、作業が終わった。
「こんなものか。助かった、信濃」
「いえいえ。代わりに、って言ったら何だけど……千里、予備の傘とか持ってない? 忘れちゃって帰れないんだよね」
と、信濃はそんなことを言ってきた。
まったく、台風が来ると天気予報でさんざんやっていたのに忘れたのか。
俺はロッカーに入れてあった折り畳み傘を信濃に渡した。
「これを使え。俺はもう一本持っている」
「さすが千里。用意周到だね」
「お前は楽観が過ぎるんだ」
そんなやり取りを最後に、信濃は帰っていった。どうでもいいが、おそらくあいつは俺が予備の傘を持っているのを知っていて、それを借りる礼代わりにプリント整理の手伝いを申し出たんだろうな。
意外と律儀なやつである。
「さて、俺も帰るか」
プリントの束を抱えて、誰もいない教室を出る。
そのまま職員室までそれを持っていき、数学教師に渡してそのまま下駄箱へ。
上履きからローファーに履き替える。
さて行くかと傘立てまで歩いて行って――
傘が、ない。
「…………バカな」
土間にある傘立てはすべて空になっている。一本の傘も残っていない。俺が朝持ってきて立てかけておいたはずのものもない。なぜだ。まさか誰かに持っていかれてしまったのか。
外は土砂降りだ。
遠くの方から雷の音も聞こえる。
風で窓ガラスがぎしぎし鳴っている。
……いや、まだ諦めるには早い。予備の傘は信濃にさっき貸してしまったが、まだ打てる手があるはずだ。
そう、たとえば――
作戦一。
職員室で傘を借りる。
「先生。貸し出し用の傘はありますか」
「あー、もう全部貸し出しちゃったわよ?」
「わかりました」
ないなら仕方ない。次だ。
作戦二。
コンビニで買う。
「すみません。傘かレインコートはありますか」
「らっしゃっせー。もう売り切れましたー」
「……わかりました」
ないならどうしようもない。最終手段だ。
「――それで、傘も差さずに走って帰ってきたんですか」
「その通りだ」
呆れた顔の白乃に言われ、ずぶ濡れのまま俺は頷いた。
白乃は先に帰ってきていた。すでに夕食の準備を始めていたようで、お気に入りらしい水色のエプロンを身に着けている。
一方俺は、台風の中をノーガードで帰ってきたため濡れネズミである。
念のためビニール袋を持って行っていたため、通学鞄だけは無事だったが……それにしてもひどい。この貯水タンクのようになっているローファーは明日までに乾くのだろうか。
白乃は、まったく、と腰に手を当てた。
「人の仕事を引き受けて予備の傘を貸して、それで自分が濡れて帰ってきているんじゃ世話がありません。貧乏くじを引くのがそんなに好きなんですか」
「返す言葉もない……」
白乃が持ってきてくれたバスタオルで体を拭いつつ言う。
義妹に叱られる情けない義兄の姿がそこにはあった。
「だいたい、どうして私に連絡しないんですか」
「いや……こんな雨の中、白乃に迎えに来させるわけにはいかないだろう。白乃が風邪を引いたらどうするんだ」
「私が担当している家事を千里さんがすべてやることになりますね」
「そういう話じゃない。白乃が体調を崩すところを見たくないんだ俺は」
そうなるくらいなら自分が風邪を引いたほうがマシである。
俺が言うと、はあ、と白乃の溜め息が聞こえた。
それから俺の頭に手を伸ばして、バスタオルの上からわしわしと俺の頭を拭い始める。
あまりに予想外のことに俺は一瞬硬直してしまう。
「……は、白乃?」
「いいからじっとしていてください。千里さんは手際が悪すぎます」
「いや……その、そんなことをしていいのか」
白乃は男に触れるのが苦手なはずだ。長時間に及ぶと体調を崩すほどに。
白乃はぶすっとした顔のまま言った。
「少しくらいなら大丈夫です。大人しくしていてください」
「いや、だが」
「それに、これはこれでリハビリに役立ちます」
そう言われては無理に固辞することもできない。
大人しく背伸びして頭を拭ってくる白乃に任せることにする。
……しかし何というか、眠くなってくるなこれは。
非力なせいか、白乃がバスタオルを動かす仕草は痛みや刺激の強さとは無縁のものだ。頭を撫でられているような感覚に近い。
「……くぁ」
「何あくびしてるんですか」
「気持ちいいんだ、それ。もう少しやってくれないか」
「甘えないでください。疲れたのでもう止めます」
白乃が優しいのか厳しいのかよくわからない。
「もういいでしょう。早くシャワーを浴びてきてください」
びしっと廊下の奥を指さして、
「着替えは私が適当に持っていきます。制服は洗濯機に。靴から水気を取るのもやっておきますから」
「……、」
テキパキと指示してくる白乃を、俺はぼんやりと眺める。
それを見た白乃が訝しむような顔をした。
「なんですか。変な顔して」
「いや」
俺は小さく笑い、
「白乃が心配してくれるのが嬉しくてな。貧乏くじを引いた甲斐があった」
「……またそういう」
なぜか白乃が視線を逸らした。わずかに頬が赤くなっている気がする。……なぜに?
「いいから早く行ってください。風邪を引かれても看病なんかしませんからね」
「あ、ああ。わかっている」
なぜか微妙にむくれている白乃に追い立てられ、俺は浴室に向かった。
お読みいただきありがとうございます。
ぎ、ギリギリ毎日更新キープ……! いい加減筆の遅さが露呈しつつありますね。
そろそろ更新が途切れるかもしれません。白乃の過去を明かさないままエタる、なんてことにはならないつもりですが、間が空いてしまったらすみません。単純に書くのが遅いだけです。
信濃の姉は作画資料として色んなアイテムを持っています。
つまりそういうキャラです。




