6月11日(台風が来る)
ぺたり、と俺の胸板に白乃の小さな手が添えられる。
「………………、」
白乃の色素の薄い頭頂部がすぐ近くにあり、心なしか緊張したような白乃の息遣いさえ聞こえる。白乃の華奢な体が、今までにないほど至近距離にあった。
俺がその気になれば、白乃を無理やり抱き寄せることもできる。
というかこの状況ならどんな男だってそうしたくなるに違いない。
あの神秘的な美しさを持ち、男から距離を取りたがる白乃が目と鼻の先にいるのだ。
だが――、
「……千里さん、絶対動かないでくださいね」
「わかっている」
「今動いたら大変なことになりますからね」
「重々わかっている」
まあ、この緊張でこわばった白乃の顔を見て手を出そうという気にはとてもなれないわけだが。
……俺たちが何をしているかというと。
より具体的には、俺は手を後ろに組み、白乃はそんな俺の正面に立って俺に触れて何をしているかというと――
「はーっ、はーっ……」
「白乃。そろそろやめておいたらどうだ? 昨日まで二十秒だっただろう」
「いえ、今日はもう少し……、せっかく千里さんが私の男性恐怖症を克服する手伝いをしてくれるんですから……!」
つまり、そういうことだった。
球技大会の日以来、白乃は俺に歩み寄る意志を示してくれた。
その一環として、登校前の数分、俺に触れた状態をキープするという訓練をしているのだ。制服姿の俺の胸に手を当てて何秒耐えられるか、という感じの。
初日、白乃は過呼吸になった。
二日目は吐いた。
しかし今日はいつもより長く頑張っている。
やがて三十秒経ったとき、白乃は「やりました」と一瞬だけ嬉しそうな顔をして。
「え、あ」
「――白乃!」
足から力が抜けたように、その場に倒れそうになる。白乃の体を支えるべく慌てて手を伸ばすとどうにか間に合った。俺の左手は白乃の後頭部に、右手は白乃の腕に添えられている。
そこで香澄さんがやってきた。
「あら。仲良しねえ」
「いえ、そういうわけでは……」
単なる事故現場である。
「香澄さん、さっき家を出ていませんでしたか?」
「そうなんだけど、伝え忘れたことがあって戻ってきたのよ~」
「……? 何でしょう」
「私、今日出張なのよねえ。だから晩御飯は外で食べてくると思うから」
「そういうことですか。わかりました」
「あと、今日は雨が降るみたいだから傘を忘れちゃ駄目よ?」
そうだ。確か今日は夕方から明日にかけて大雨が降ると言っていた。
「忘れないようにします」
「よろしい」
満足げに頷き、「行ってきまーす」と香澄さんは家を出て行った。
「……千里さん」
「どうした」
白乃が言った。
俺に支えられたままの態勢で、白乃が言った。
「……あと五秒このままだと吐きます」
――真っ白に血の気の引いた顔で。
「すまん白乃! そして吐くならトイレだ!」
即座に手を離し距離を取る。大丈夫です、と肩で息をしながら白乃はそう言った。どうやらデッドラインは越えずに済んだらしい。
「……本当に大丈夫か?」
「……五分ください」
嘔吐こそしなかったが、依然顔色の悪い白乃。
白乃が男に触れられる日は来るのだろうか、と俺は思わずにはいられなかった。
お読みいただきありがとうございます。
果たして吐く乃は男性恐怖症を克服できるのか。




