6月5日
ぱたぱた、と慌てたようなスリッパの足音が近づいてくる。
「おはよう、白乃」
「おはようございます……あれ? 千里さん?」
と、寝間着姿の白乃が、台所に立つ俺に呆気に取られたような目を向けてきた。
現在時刻、朝の六時四十分。
俺はエプロンを着けて弁当づくりをしている途中だった。といっても、あとは詰め込むくらいだが。
白乃はいまいち頭が回っていない様子で、
「あの、私、つい寝坊してしまって。お弁当の準備をしないとって……」
「昨日あれだけ体調を崩していた白乃に、早起きして弁当を作れなんて言うはずがないだろう。……というか、明日は俺が作ると言わなかったか?」
「……そういえば、言われた気がします」
寝ぼけて忘れてました、と白乃が恥じ入るように言った。
いつも弁当づくりは白乃がやってくれるので、習慣で早起きしてしまったのだろう。
どうでもいい話だが、この時間には父さんはすでに起きてシャワーを浴びている。香澄さんは微妙なところだが、そろそろ起きてくるだろう。普段なら俺もこの時間はランニングを行っている。それなりに朝の早い神谷家だった。
「そういえば千里さんの作るお弁当を見るのは初めてですね」
「確かにそうだな」
「どんなものを作ったんですか?」
白乃が台所に入ってくる。別に普通のものだぞ。
「卵焼き、ウインナー、きゅうりのハム巻き、あとはミートパイだな」
「意外と洋風なんですね。……というか、ミートパイ? パイシートなんて冷凍庫にありましたっけ」
「いや。生地は自作だ」
「じ、自作?」
珍しく白乃がぎょっとしたような顔をした。
確かにいまどき冷凍のシートを使えばパイ作りは各段に楽になるが、どちらかと言えば一から作るほうが俺の好みだった。
いちいち生地を冷やさなくてはならないので手間はかかるが、その間は他のおかずや朝食の準備でもしておけばいい。
白乃は珍しいものを見るように、皿に乗ったミートパイを眺めている。
「よくもまあそんな時間のかかるものを朝から……」
「別のものにしてもよかったんだが、どうせならうまく作れるものをと思ってな」
「それも正直意外です。何となく、千里さんは和食とかが得意そうなイメージがありました」
「そうか? 言っておくが、俺の得意分野は菓子やパンだぞ」
白乃が目を瞬かせる。
「……その外見で?」
失礼なことを言われていないか。
「甘いものが好きなんですか?」
「嫌いではないが、そういう理由でもない。そう、あれは二月半ばのことだ――、白乃、お前はバレンタインデーを知っているか?」
「それ知らない女子はそうそういないと思いますよ」
なら話は早い。
「昔から俺は『義理チョコ』というのをよくもらっていたんだが、あるとき女子に返礼は何がいいか聞いたら、俺の手作りがいいと言われた。
うまく作れるか自信がない、と言ったところ、どうしても神谷君の作ったものがいい、と返された。おそらく男子の手作りを受け取るのが当時のブームだったのだろう」
「面倒くさいのでもう突っ込みません。それで、どうしたんですか」
「人に渡すものなら下手なものは渡せないと練習しているうちに、作るのが楽しくなって趣味になった。パイやらパンやらはその延長だな」
幸いにもホワイトデーに配った手作りの菓子は好評だった。よけいに嬉しくなった俺は、それ以降、暇を見つけては菓子作りの研究なんかをしている。
それにしても、好きで作ったもので喜んでもらえるのだからホワイトデーは素晴らしいイベントだと思う。次の三月が待ち遠しい。
「……千里さんらしい理由ですね」
なぜ白乃は呆れた顔をしているんだ。
「……」
「白乃?」
それから、白乃は台所から出て行った。俺と話すのに飽きたのだろうか。
微妙に寂しい気持ちで卵焼きをひっくり返していると――白乃はすぐに戻ってきた。今度はエプロンをつけている。引き出しから予備の菜箸を取り出して、
「見てるだけというのも何ですし、手伝います」
「……? いや、あとは詰めるくらいだぞ」
「じゃあ、それをやります」
「今日は休んでいていいんだぞ、白乃。体調もまだ万全じゃないだろう」
何しろ昨日は球技大会の途中で倒れたくらいだ。疲れも残っているに違いない。
それにいつも白乃は弁当や食事当番をやってくれているんだから、今日くらい俺に任せてゆっくりしてくれていい。
俺がそう言うと、白乃は口元をむにむにさせながら、やや俯いて、
「……けませんか」
「?」
「一緒にやったら、いけませんか。私がいたら迷惑ですか」
その言葉を聞いて、俺ははっとした。
『行動で示すしかないんでしょうね』と、昨日白乃はそう言った。
おそらくこれは、白乃なりの歩み寄りなのだ。俺と一緒にキッチンに立つのも嫌がっていた白乃が、自分から手伝いを申し出てくれている。
大きな変化だ。
その変化が、俺には嬉しかった。
「……いや、助かるよ。それじゃあ詰めるのは白乃に任せる」
「わかりました」
こくん、と白乃は頷き、手際よく菜箸を動かし始める。
実際に作業していた時間は数分だろう。その間ずっと、むずがゆいような、照れくさいような、そんな空気が場に流れていた。
「ところで千里さん。なんだかオーブンが動いているように見えますが」
「ああ、朝食用にメロンパンを作っているんだ」
「何なんですかその女子力……」
お読みいただきありがとうございます。
弁当のために四時起きする主人公。




