6月4日⑥
暗い部屋にいた。
たった一人で、暗く、狭い空間にいた。
扉は施錠されており、自分で出ることはできない。
そこでうずくまって、時間が過ぎるのをただじっと待っている。
ぎい、と、扉が開いた。
それはこのおそろしい空間から自分を連れ出してくれる優しいひと――では、ない。
もっとおそろしいものだ。
『笑顔』を張り付けた何かだ。
それは自分に手を伸ばしてくる。
逃げ場のない暗闇の中で、覆いかぶさるように迫ってくる。
春宮白乃は。
その『笑顔の誰か』が、何よりも怖かった。
「……ぁ」
保健室のベッドで、白乃がようやく目を覚ました。
「起きたか」
ベッドのそばに座っている俺がそう声をかけると、白乃はゆっくりと顔を横に倒して俺を見た。
さて、寝起きの白乃が俺の顔を見てどんな反応するだろう。罵倒されるか、状況を尋ねられるか。結論からいえば、そのどれもが的を外していた。
「――ひっ!」
白乃は、怯えた。
目を見開き、跳ね起き、俺から少しでも距離を取ろうとするようにベッドの上で後ずさろうとする。がしゃり、と白乃の額に載っていた氷嚢が床に落ちた。
「……は、白乃?」
俺は、唖然として動くことができなかった。白乃の行動があまりに予想外だったためだ。
「はっ……はっ……はあっ……、……っ」
白乃はまるで罠にかかった猫のように息を荒げていたが、起きたばかりで無理な動きをしたせいだろう。ふら、と頭を揺らす。
それをどうにか堪えたところでようやく瞳が正気を取り戻したように俺には見えた。
周囲を見回して、白乃は呟いた。
「ここは……?」
「保健室だ。覚えていないのか。お前は日射病で倒れてここに運び込まれたんだ」
「……そう、ですか」
徐々に意識がはっきりしてきたようで、こんな質問をしてくる。
「どうして千里さんがここに? ……それに、保健室は閉鎖されていたはずでは」
「救護テントに空きがなかったから仕方なくここの鍵を貸してくれた。だが養護教諭が持ち場を離れるわけにもいかなかったから、俺が看病していたんだ」
俺の言葉に、なるほど、と白乃は頷いた。
俺が白乃を抱えて救護テントに向かったとき、すでにそこは満員で白乃を寝かせる場所などなかった。養護教諭に相談すると、ここを使っていいと言ってくれた。今からおよそ三十分前のことだ。
白乃はぽつりと尋ねてきた。
「……ずっと、いてくれたんですか?」
「まあ、そうだな」
「試合、よかったんですか」
「問題ない。俺の出番はもう終わっている」
これは嘘だ。今頃俺のクラスメイトたちは、バレーの決勝戦を行っている。
さっき校内放送がかかったから間違いない。信濃にLINEで事情付きで不参加と伝えてあるので、おそらく俺の代わりに別のクラスメイトが参加していることだろう。
……あとで謝らなくては。
「とりあえずこれをやる。飲んでおけ」
救護テントでもらってきたスポーツドリンクを白乃に手渡す。白乃はそれを受け取って、飲まずに手の中でもてあそんでいる。どこか居心地が悪そうだ。
「……その、さっき、すみませんでした」
「何がだ?」
「千里さんに、驚いてしまったことです。……悪い夢を見ていたので」
虚無的な表情でそんなことを言う。どんな夢を見たんだ、とは聞けなかった。
その時、がらりと保健室の扉が開く音がした。
「失礼します」
「失礼します……白乃ちゃん、大丈夫!? 保健の先生に訊いたらここだって!」
ぱたぱたぱた、という足音に次いで、白乃のベッドを囲んでいたカーテンが勢いよくめくられた。入ってきたのは二人の女子生徒だ。
「へっ? かっ、神谷先輩!?」
そのうち片方――内巻きの茶髪の少女が驚いたように俺を見て言った。もう片方の黒髪の少女は、「あ、本物だ」とよくわからないリアクションをしている。
「みくりさん、凛さん」
と、白乃が名前を呼んだ。知り合いか? ……そういえば白乃が倒れたとき、こんな感じの女子がそばにいたような気もするな。
俺は二人に話しかけた。
「二人とも、このあとまだ試合はあるか?」
「い、いえ。ありません。さっき最後のが終わったところで」
「なら、すまないが白乃のことを見ていてやってくれるか」
本当はこんなことを他人に頼むのも心苦しいが、起きた瞬間の白乃の反応を見る限り、俺がそばにいると白乃は落ち着けないのだろう。なら、俺は出て行ったほうがいい。
「わ、わかりました!」
茶髪のほうがそう言ってくれたので二人に礼を言い、俺はその場を後にした。
× × ×
「……体、大丈夫? 白乃ちゃん」
千里が去ったあとの保健室。
内巻きの茶髪の少女――須磨みくりは白乃に問いかけた。白乃は小さく笑って、
「多少、落ち着きました。まだちょっと眩暈がしますけど」
「スポドリ飲んだほうがいいよ。脱水とか怖いし」
「そうですね」
須磨の言葉にしたがって大人しく手に持っていたスポーツ飲料に口をつける白乃。
須磨の隣では、黒髪ロングが特徴的な隠岐島凛がポケットからあるものを取り出す。
「アタシからはこれ、制汗シート。汗べったべたで気持ち悪いでしょ」
ウェットティッシュのように平べったいサイズの袋を「ありがとうございます」と素直に受け取り、白乃は首元やシャツの中をぬぐい始めた。隠岐島の言う通り、体を綺麗にしたい欲求があったのだ。
「「……」」
「……あの。そんなに見られるとやりづらいんですが」
体操着のシャツの下をめくってシートで体を拭いている白乃を、須磨と隠岐島の二人が凝視している。
「前から思ってたけど、白乃ちゃん肌きれーすぎない……?」
「同じ女だと思えないわよね。アタシけっこう美人って言われるけど、白乃見てると自信なくなる」
「二人とも大袈裟で――ひっ!? なっ、なにしてるんですか隠岐島さん!?」
何の前触れもなく白乃に距離を詰めた隠岐島が、白乃のシャツを下から勢いよくまくった。
真っ白な肌や小さなへそ、決して大きいとは言えないが形のいい胸を覆う下着などがあらわになる。男が見れば一瞬で理性を失うような煽情的な姿だ。
目を丸くする白乃の手から制汗シートを取り上げつつ、大きく肌をさらした白乃に隠岐島は満足げな笑みを浮かべた。
「いやー、よく考えたら白乃って病人だし、体拭くのって看病する側の仕事じゃない?」
「べ、別にそこまで重症というわけでは……ひゃあっ!?」
「一回白乃の肌触ってみたかったのよ。看病するんだし、このくらいの役得あってもいいわよね、うん。みくりも触ってみない?」
「……ちょっとだけ」
「みくりさん!?」
裏切られた、というような声を上げる白乃。
女子から見ても白乃の肌は信じられないほどきめ細やかで滑らかなのだ。一度触ってみたい、という欲求を『体を拭く』という大義名分を得て実行に移した二人の友人に、好きにされること約二分。
「……体がすーすーします……」
「アタシ白乃なら恋人にできる気がする」
「凛はちょっと落ち着いてね。あと白乃ちゃん、テンション上がっちゃってごめん……」
疲れたように呻く白乃に対し、須磨は大人しく謝罪した。隠岐島のほうは特に反省した様子もなく手をわきわきさせていたが。
「……とにかく、白乃ちゃんが思ったより元気でよかったよ」
みんな心配してたんだよ? という須磨に、隠岐島が思い出したように言った。
「心配っていえば、すごかったわよね、神谷先輩」
「うん、ほんとびっくりした」
「……? 千里さんが、何か」
白乃が首を傾げると、須磨が拳を握ってわずかに興奮した様子で、
「白乃ちゃんが倒れたとき、すぐ駆け付けてくれたんだよ! 校舎の二階から飛び降りて!」
「白乃は、ほら、男子苦手だから、男子が抱えていくわけにもいかないでしょ? アタシや須磨が運ぶにしても男子ほど力ないから時間かかっちゃうし」
――そうして倒れた白乃をどうしようか決めかねていたところに颯爽と現れたのが、神谷千里だった。二人はそう告げた。
「日比谷君が、白乃ちゃんは男苦手なんだから触るのはまずいんじゃないか、って言ったら――先輩、すごく必死な顔で『白乃が死んだらどうする』って怒鳴ってたよ」
「言われたときはピンと来なかったけど、言われてみればその通りよね。熱中症だって悪ければ死んでもおかしくないわけだし」
須磨と隠岐島が口々に言うのを聞いて、白乃は目を伏せる。
「……そうですか。千里さんが、そんなことを……」
白乃はある程度千里の抱える事情を知っている。母伝いに充から聞いているからだ。
千里がどんな心境だったか、ある程度推測することができた。
考え込んだ白乃に、須磨は笑いかける。
「『赤城先輩』のこともそうだけど……こんなに一生懸命妹を守ってくれるお兄さん、そんなにいないよ」
「…………、」
「白乃ちゃん、大事にされてるんだね」
その言葉に。
「……そう、ですね」
白乃は、胸の奥がわずかに暖かくなるような気がした。
お読みいただきありがとうございます。
……すでにお気づきの方もいらっしゃると思いますが、話数がずれております。
序盤の二話目と三話目を合体させたからなのですが、内容に変更は加えておりませんので、戻って確認していただく必要はありません。二話目で離れてしまわれる読者さまが多かったので、その対策です。
……ややこしいことをしてすみません。
次回で6月4日はラストの予定ですが、今日中に上げられる気がしない……!