6月3日④
「充さんはどこに行ったんですか?」
「手洗いだ。ただ、戻るまでにはもう少しかかるだろうな」
「そうですか……」
父さんの行き先について俺が答えると、白乃は安堵したように息を吐いた。
その反応を見て気付いてしまう。
「白乃。お前、父さんのことが苦手か」
白乃は触れられるのも嫌がるほどの男嫌いだ。もちろん表には出さないが(俺の前を除き)、父さんだけが例外であるとは考えづらい。
「答えたくありません」
「香澄さんのためにか」
「……わかっているなら、確認しないでください」
不機嫌そうに白乃は俺を睨んだ。
白乃が父さんに対して苦手意識を持っていることを香澄さんが知れば、香澄さんは再婚したことを白乃に対して申し訳なく思ってしまうだろう。
白乃はそれが嫌なのだ。
自分のせいで香澄さんの再婚を邪魔するのが。
だから、自分の男嫌いについては徹底的に隠している。実の母親である香澄さんに対しても。こいつが正面切ってぼろかすに言ってくる男は俺だけである。
せっかくだから、白乃には父さんとも仲良くなってほしいものだが。
ふーむ。
「白乃」
「なんですか」
「俺たちが知り合って一か月以上経つよな」
「不愉快なのでこっちを見ながら話すのをやめてもらえますか」
泣くな俺。ここで泣くと話が進まないぞ。
「……日頃家で顔を合わせることの多い白乃はともかく、俺はまだ香澄さんのことをよく知らない。どんな人なのか、教えてもらえないか?」
俺が言うと、白乃は怪訝そうに首を傾げた。
「なんですか急に。なにを企んでいるんですか」
「ただの世間話だ。何か不自然か?」
「……」
白乃はまだ疑いの目で俺を見ていたが、やがて「まあいいです」と答えてくれた。
「そうですね。娘の私が言うのもなんですが……きれいな人だと思います。一緒にいるとよく姉に間違われますし。授業参観の時とか」
まあ、どう見ても四十代には見えないからなあの人……
「それに、すごく仕事ができるみたいです。出張は多いですけど、それも全然苦にならないみたいで。職場では女性ではじめて、っていう役職に就いていると聞いてます」
「そうなのか。……こう言っては何だが、ばりばり仕事をこなす香澄さんというのは想像できないな」
「……それには同感ですが、電話とかでも基本的に謝られてる立場みたいですよ」
普段ののんびりした雰囲気からは想像もつかないが、香澄さんは相当やり手のキャリアウーマンらしい。これは意外な一面だ。
「休日以外は家にあまりいませんが、家にいるときは私のことも気にかけてくれます。優しくて、頭も良くて、尊敬しています。……私が料理を練習したのも、今思えばあの人に喜んでもらいたかったからなんでしょうね」
そう告げる白乃の顔は穏やかで――それだけで、白乃が香澄さんのことを大好きなんだと伝わってきた。
「そうか。いい母親なんだな、あの人は」
俺の視線に気付いた白乃が、はっとして俺を睨んでくる。
「……気持ち悪い顔で見ないでください」
白乃と話すたび半分くらいの確率で罵倒されている気がするな……
俺は咳払いし、こう言った。
「じゃあ、今度は俺の話を聞いてくれるか」
「興味がありません」
「いいから聞け。父さんの話だ」
「……」
「あの人は――」
俺は神谷充という人間のことについて、いくつか話した。
空手と柔道が鬼のように強いこと。収入が多い代わり、残業の多いハードな仕事に就いていること。不器用で家事がさっぱりできないこと。
「あとはそうだな。意外かもしれないが、かなり感受性が高い」
「……そうなんですか?」
「ああ。昔『カプセルモンスター』の映画を観に行ったとき、周囲の小学生に交じって号泣したことがある。最終的に、泣き過ぎて迷惑になるからと自主的に映画館を出て行ったな」
「そ、そうですか……」
何とも言えない顔になる白乃。
カプセルモンスターといえば、小学生に大人気のアニメ作品だ。毎年七月に映画を公開している。もちろん大人も観に来るが、基本的な客層は低年齢が多い。
そんな中にヒグマのような体格の大男がやってきて、開始二十分で号泣して迷惑になるからと離脱。あれはなかなかにシュールな光景だった。
「まあ何が言いたいかというとだ」
俺は言った。
「父さんはあれで繊細だし、家族思いでもある。手洗いから戻ってくるのがやたら遅いし、どうせ個室で白乃と仲良くなる方法でも考えているんだろうな」
「……」
「白乃が男嫌いなのは知っているが、もう少し歩み寄ってやってくれないか」
「……」
白乃は視線を落とし、溜め息を吐いた。少し落ち込んでいるようにも見える。
「……充さんが悪い人でないのはわかっています。もう少し打ち解けたい、とも思っています。母さんがきちんと見て、選んだ人ですから」
「ああ」
「ですが……どうすればいいかわかりません」
距離を置くことはできる。それを不愉快に思わせないよう、猫を被って取り繕うこともできる。けれど、距離を縮める方法だけがわからない――白乃はそんなことを言った。
俺はそれを聞き、衝撃を受けた。
距離を縮めたいという意志はある。だがその方法がわからない、だと……?
「つまり白乃が俺に冷たいのも、もしかして仲良くなりたい気持ちの裏返しという――」
「千里さんと仲良くなって何かメリットが?」
罵倒の切れ味が鋭すぎやしないだろうか。
「……そうか。まあ、父さんと打ち解けたがっているのがわかっただけでも十分だ」
それなら、簡単な方法があるぞ。
俺が言うと、白乃は大人しくそれを聞いた。
「……そんなことでいいんですか?」
「まず間違いない。騙されたと思って言ってみろ」
俺の言葉に、白乃は懐疑的な表情で頷いた。
それからすぐに香澄さんがベンチにやってきて、そのさらに数分後に父さんが戻ってきた。
香澄さんが言う。
「今日はいい買い物したわねえ」
「香澄、もういいのか」
父さんの言葉に、香澄さんは「ええ、もう十分よ~」と頷いた。
荷物も多いし、飲食店で一休み、という雰囲気でもない。必然的に帰宅する流れになる。
父さんは白乃に尋ねた。
「……白乃。お前はもう何か入り用のものはないか」
「はい。もう大丈夫で――」
白乃はいつものよそ行きの顔で頷こうとして、ふと言葉を切った。ちらりと背後の俺を見て、それからこう言った。
「……すみません。充さん、一つだけおねだりをしてもいいでしょうか」
視線を落としながら、恥じ入るようにそう言った白乃に父さんは目を瞬かせる。
だが、すぐに再起動して訊き返した。
「な、何が欲しい」
「その……さっき調理器具コーナーで見た、せいろが気になっていて」
「……」
「だめ、でしょうか?」
そう言って上目遣いで見上げてきた白乃に対して父さんは――
泣いた。
直立不動のまま、ロボットが油を排出するような感じで。
ああ……よっぽど嬉しかったんだな……
「な、なんで泣くんですか」
「いや……何でもない。今から買いに行こう」
「……ありがとうございます。図々しいことを言って、すみません」
「子どもが気にすることではない。……今後も遠慮はするな」
「は、はい」
そんな感じのやり取りをしながら、白乃と父さんは一メートルほどの距離を空けてではあるが、連れ立って食品コーナーに向かって歩き始める。
うまくいったらしい。
要するに、俺が白乃に行った入れ知恵とは『父さんに何かねだってみろ』というものだった。白乃の性格では言いづらいだろうが、父さんがもっとも望んでいるのがそれだ。
「せいろかあ〜。あれって肉まん作るやつよねえ。夏はコンビニで買えないし、白乃ちゃんが作ってくれたら嬉しいなあ」
「夏に肉まんは暑くない……? 作るのはいいけど」
香澄さんは白乃がそんなことを話している後ろをついていく。
ふと、スマホが震えた。LINEでメッセージが届いたのだ。見るのはあとでいいかと思っていると、前方を歩く白乃が何かを指示するように自分の太もものあたりを軽く叩いている。
何となく意味を察して俺はスマホを取り出した。案の定、そこに映し出されているのは白乃からのメッセージだった。内容は以下のようなものだ。
神谷 白乃『一応、お礼を言っておきます』
神谷 白乃『うまくいったので』
神谷 白乃『ありがとうございます』
どういたしまして、だ。それにしても意外と素直に礼を言ってくるんだな。
神谷 白乃『注:返信不要』
……あなたとは会話したくありません、と言われているような気分だ。
まあ、うまくいったならいい。俺は苦笑し、食品コーナーに向かう三人を追いかけた。
お読みいただきありがとうございます。
六月三日はこれにて終了!
次回は六月四日、球技大会編になります。