6月1日
神谷家の一階には和室がある。
父さんの書斎であり、作業用の低いガラステーブル、書棚などが置かれている。仕事に必要なものばかりなのはいかにもあの人らしいが、そんな中、たった一つだけ父さんの仕事に関係ないものが存在している。
仏壇、である。
登校前、今日から完全移行となった高校の夏服を着て、俺はその仏壇の前に腰を下ろしていた。
返却されてきた一学期中間試験の答案用紙を並べ、りんを鳴らす。
目を閉じる。
「…………」
一分ほどその場に座してから、立ち上がる。それから答案用紙を回収し、ふと遺影に視線を向ける。
線が細く、そしてそれを上回る快活そうな笑みをたたえた女性の写真だった。
試験の結果が出るたび、俺は仏壇に備える習慣があった。今日の場合は衣替えした夏服を見せる意味合いもあったが、それもここ一年の習慣の一部には変わりない。
時計を見る。時間は七時四十分。
「……そろそろ時間だ。行ってくるよ、母さん」
そう呟き、俺は通学鞄を持ち上げた。
ありがたいことに、数日前から白乃が学校用の弁当を作ってくれている。
もちろん俺に、というよりは家族全員ぶんを作る流れ上仕方なくだが。
父さんも義母さんも白乃の料理があると喜ぶし、白乃もそれが嬉しいようなので、自然と白乃は家族のぶんの弁当を作るようになっていた。
もちろん俺も手伝おうと申し出たのだが、断られた。
ビニール手袋を二枚重ねにしても拒否された。
どうも接触するかどうかというより、男がそばにいるのが不快らしい。もはや完全にキッチンは白乃の聖域と化しつつある。まあ、美味い料理が食べられるので俺としてはありがたいのだが、年長者としてどうなんだ、我ながら。
すでに両親と白乃は家を出ており、出発は俺が最後だ。
戸締りを確認し、ついでに元栓もチェックしていると――
「ん?」
「……」
先に出発していたはずの白乃が玄関のほうから戻ってきた。
「忘れ物か?」
「気にしないでください」
「体操着ならテーブルの下に落ちてたぞ」
「……、…………いちおう、ありがとうございます」
言うか言わないかギリギリまで迷ったような表情で礼を言われた。
通学の準備をしている間にダイニングテーブルの下に落ちたらしい体育着入りのバッグを回収する白乃の姿を、なんとなく眺める。
白乃が嫌そうに俺を見た。
「……なんですか。見ないでください」
「いや、本当によく似合っていると思ってな」
白乃は今日から衣替えをし、制服を夏仕様に変えている。襟とスカート、袖の端は紺色で染められ、胸の真ん中あたりには赤い大きめのリボン。何の変哲もない正統派のセーラー服だが、驚くほどこれが白乃に似合うのだ。
昨日まではデニールの濃いタイツを履いていた足元は、衣替えに合わせて白のニーハイソックスに変わっている。
「……足、見過ぎです」
白乃が不機嫌そうに通学鞄でスカートの前を隠した。
「鳥肌が立つのでやめてください。千里さんは女子の太ももが好きなんですか。そういうタイプのへんたいですか」
「待て、違う。誤解だ。そんなに長い靴下で暑くないのかと思っただけだ」
六月入りたてとはいえ今年は平均的に例年より気温が高く、今日の最高気温は二十八度。あまり布面積を増やすのは上策ではないように思える。
「単に見られるのが嫌なだけです。……足をさらすと、男の人がじろじろ見てくるので」
「……? 意外だな」
「なんですか。何が意外なんですか」
「白乃くらい美人なら、人に見られるのは慣れたものだと思っていた」
「そっ……」
白乃が固まった。
ぱくぱく、と何かを言おうとして言うことを思いつけないような仕草をする。なんだその反応は。数秒たって、白乃は少しだけ赤い顔で、
「そういうのは、やめてください」
「……そういうの?」
「なんですか。無自覚ですか。本当にやめてください。びっくりしますし不愉快です」
一体何の話だ。足を話題に挙げたことか? ……確かにやや不躾だったかもしれない。以後気をつけよう。俺は頷いた。
「わかった」
「わかればいいんです」
そう言い、白乃は俺の横をすたすたと通過し家を出て行こうとする。どうやら俺と一緒に登校するという選択肢はなさそうだ――って待て!
「待て白乃! 止まれ! それは義兄として看過できない!」
「何ですか急に……」
「スカートがめくれている!」
「え」
白乃は体をねじって自分の後ろを見て、すぐに気付いた。体育着の入ったバッグと足の付け根あたりがスカートの生地をはさんでおり、後ろからは思いっきり白と青の下着が見えていた。
「み、」
ばっ! と勢いよくスカートを下ろしてから、白乃は耳まで赤く染まった顔で俺を睨んだ。
「……見ました、よね」
「あー……その、だな」
見た。見えてしまった。嘘を吐く余地すらないくらいばっちりと。どうする。どうすればいい。そんな時、級友である信濃がかつて言っていた台詞が脳裏によみがえる。
いわく。
女性の服装を褒めるのは紳士の義務、と。
「――白乃。その下着もよく似合っているぞ」
生まれて初めて、通学鞄で顔面を殴打された。眼鏡が壊れなかったのが奇跡に感じられた。
その日一日、白乃は俺と口を利いてくれなかった。
お読みいただきありがとうございます。
六月一日はこの一話で終わりです。ようやくラブコメっぽいものを書いた気がします。
日間ランキング五位! ザエルアポロからノイトラに進化しました。いいのかこんな安価スレみたいなタイトルの作品が上位にいて……
次回は六月三日、休日に家族で買い物です。