5月29日⑤
「……いない」
自宅に戻った俺は、そう言って眉根を寄せた。
白乃は先に帰ったとばかり思ったので、最短距離で自宅に向かったのだが……白乃がいない。どこか寄り道をしているのかとも思ったが、あんな重たいビニール袋を持ってそれはないだろう。
「……」
となると、嫌な予想がいくつか立ってしまうわけだが。
俺は通学鞄を家に置き、思い返して『あるもの』だけは鞄から出してポケットにねじ込み――再び外に出た。
結果から言うと、白乃が陥っていた事態は俺が予想していた中で一番マシなものだった。
「ここをこうして、こう……、なるほど、右の道ですか」
「どこに行くんだ白乃。家は逆方向だぞ」
「――っ!?」
俺が声をかけると、スマホから視線を上げた白乃がぎょっとしたように飛びのいた。
「……何だその反応は」
「い、いえ、変な人に声をかけられたかと」
「言ってくれるな……」
誰が変な人だ誰が。
改めて白乃の姿を見る。白乃は買い物袋を足の間に置き、地図アプリを起動したスマホをくるくる回して帰り道を探している途中だった。雪色の髪が汗で濡れ、頬に張り付いている。まだ五月だが、重たい荷物を持ち、しかもタイツに冬服という格好で歩き回れば当然だろう。
白乃を見つけた場所は、スーパーから我が家とは九十度逸れた方向に十分ほど歩いたあたりの大通りだった。要するに、白乃は道に迷っていたのだ。
「まあ、無事でよかった。トラブルに巻き込まれていたらどうしようかと思ったぞ」
「大袈裟な……」
白乃は迷子になっていたのが俺にばれて少しだけ恥ずかしそうにしていたが――ふと、俺を見て目を瞬かせる。
「あの」
「何だ」
「どうして千里さんは私の居場所がわかったんですか?」
「ああ……」
確かに俺は白乃の居場所を効率的に探す手段を持っていない。連絡先すら知らないありさまだ。俺がとった行動は実に単純である。
「通りかかる人全員にお前の写真を見せて、『この子を見ませんでしたか』と聞きながらこのあたりを探し回っただけだ。……落ち着いて考えればもう少しいいやり方があったかもしれないが」
スマホの画面を見せる。そこには、白乃たちが我が家に来た日に撮った家族写真が写っている。
「……」
それを見て、それから白乃は俺を――あたり一帯を走り回って汗だくになったみっともない男の姿に視線を移して。
ふい、と目を逸らした。
「……探してくれ、なんて頼んだ覚えはありません。私は一人でもきちんと帰れました。恩に着せようなんて思わないでください」
「そんなつもりはないが、一つだけ確認させてもらうぞ白乃」
「なんですか」
「西はどっちだ」
「あっちです」
「そっちは東だ」
「……引っかけましたね」
「俺は何もしていない……」
よくわかった。白乃は方向音痴だ。
よくよく思い返してみればうちに来た初日、白乃の母親が白乃に何度も学校までの行き方を教えていたが、それはこういうことだったのだろう。
白乃が一人で出かけようとした際は要注意だな。
「とにかく帰るぞ」
「……はい」
白乃が当たり前のようにその細い腕で買い物袋を掴んだので、俺は呆れ顔で手を伸ばした。重たい荷物は男が持つのが当然だろうに。
白乃は一瞬、びくりと肩を震わせたが、俺の手を見ると訝しむように眉根を寄せた。
「……千里さん。何ですか、それ」
「これか?」
気付いたようだな。
俺は手に嵌めている半透明のそれに視線を落としながら、得意げに言った。
「さっきスーパーで買ったビニール手袋だ。これがあれば俺が白乃に直に触れることはない。なかなかいい考えだろう?」
「まさかと思いますが、さっきスーパーでわざわざ買い足したのって……」
「ああ。これだ」
白乃は男に触れられるのが嫌だ、と言っていた。だが一緒に暮らしている関係上、どうしても俺は白乃と距離が近くなってしまう。その対策としてビニール手袋を用いるのは、我ながら名案だと言わざるを得ない。
その証拠に、白乃の手から荷物を受け取っても特に白乃は反応しなかった。
白乃はぽかんと俺を見ている。
「……それ、私のために買ったんですか」
「そう言っているだろう」
掃除用のビニール手袋は家にきちんと常備されている。これは紛れもなく俺が白乃と不用意に接触しないようにするためだけに買ったものだ。
「そう、ですか」
そう言って白乃は黙り込んでしまった。なぜに?
「あー、とりあえず帰ろう。あまりのんびりしていると夕飯の用意が遅くなる」
俺が言うと、白乃は大人しくついてくる。
帰り道、白乃はしばらく無言だったが、やがて口を開いた。
「……連絡先」
「連絡先? ……LINEのか?」
「交換しませんか。私が、その、また道に迷ったときとかに、使うじゃないですか」
振り返って尋ねると、白乃がそんなことを言ってくる。なぜ今そんなことを、と思わなくもなかったが、それよりもだ。
「……いいのか?」
「必要だからするだけです」
「今朝断られたような気がするんだが」
「今はいいんです。……何ですか。だめなんですか」
もちろん駄目なわけがない。俺はそそくさとビニール手袋を外してからスマホを取り出し、白乃とLINEのIDを交換した。
「では、帰りましょう」
「あ、ああ」
そう言う白乃に促され、再び買い物袋を持ち上げる。案内役の俺が先行し、その少し後ろを白乃がついてくるという、スーパーに行くまでと同じ並び。当然ながら、白乃がどんな表情をしているかは見ることができない。
それにしても、どうして急に連絡先を教えてくれる気になったんだ?
帰り際、ずっと俺はそのことを考えていたが――結局答えはわからなかった。
お読みいただきありがとうございます。五月二十九日はこれにて完!
まさかの日間ランキング八位! 夢にまで見た十刃入りです。感慨深いものがありますね……。感慨深いので、今日中にもう一度更新しようと思います。
次回は少し日付が飛んで六月一日のお話になります。