ネットカフェ難民は窮屈な現実から離れる為、異世界に旅立つ
山田太郎は辛いことがあったはずなのに、何故か猛烈に寝覚めが良かった。凄まじい幸福感が胸に込み上げ、それをただ味わっていた。
何なんだ。この気持ちは。山田太郎は自身の感情に困惑していた。世界の美しい景色の中に身を投じているような、そんな感覚だった。余りにも気分がいいので、車で1時間ほど走ると到着する都会に行ってみようと思った。
久々に都会にやってきてはみたものの、異世界に行く前に何かしようとして結局思い浮かばず、新しい事にチャレンジしようとトレーニングジムに向かってみた。3ヶ月ぶりくらいだ。財布の中から会員証を取り出した。そこで無心になってひたすら体をイジメ抜く。汗だくになり、筋肉が悲鳴をあげた。シャワーで汗を洗い流すと今度はネットカフェに行ってみた。
ネットカフェに行こうと思ったのはトレーニングジムの会員証の下にあったから。漫画喫茶は半年ぶりくらいだった。
先ずは目覚めの熱いコーヒー。それから炭酸飲料。それからカルピスを基本に色々な飲み物を混ぜたもの。お決まりの飲み物コースを満喫してから、ホットチョコレートをちびちびと飲みながら読書に入る。
山田太郎は漫画を読む速度が速い。紙の利点なのか指を切るリスクはあるが次のページに進むのもスムーズだった。必要無くなれば売れるし、紙の媒体はやはり良いなと再認識。何より紙の手触りが好きだった。一冊読むごとに読破タイムが伸びていき、同じ漫画を15巻読み終えた時には7分で読破していた。
「うわ、はや!」
山田太郎は更に読書を続ける30巻を読破するつもりなのだ。
「マジで凄い」
山田太郎の読書スピードが話題になってきた。隣に座る男性は太郎が一冊読み終わるごとに驚く。彼は密かに競争をしているようだった。結局5倍の差をつけられて驚愕するの繰り返しなので、思わず声が出てしまった。
読書が順調に進み、山田太郎が飲み物を取りに向かうと、個室のドアが開いた。
そこは様々な物が置かれ、部屋のようになっていた。ネットカフェ難民の部屋らしい。
山田太郎は異世界バスツアーの事を知っているか部屋から出てきた女性に聞いてみた。今度来てみないかと。カラーコピーしたチラシに効果があるかわからないが、とりあえず渡してみた。
山田太郎は漫画30巻を読破した達成感と満足感に包まれながら熱いコーヒーを最後の締めくくりにして漫画喫茶を後にする。すると店を出た所で声を掛けられる。
「あの、私達を異世界に連れていって下さい。もう、この現実世界は疲れたんです!」
「え…なら、今日から参加しますか? それでは、車に乗って下さい。同じバス停から一緒に異世界に行きましょう」
声を掛けてきたのは、先ほど太郎が声を掛けたネットカフェ難民の女性で、大量の荷物を持っている。そしてリュックひとつぶん程度の荷物を持った、先ほど太郎の横で密かに漫画読み競争を楽しんでいた男性だった。
女性の方は前橋春菜で、男性の方は宮本拓郎という名前だ。こうして、山田太郎は異世界バスに新人をスカウトする形になってしまった。
「異世界のバスが来るまでは暇なんでゆっくり飯でも食べましょう。おごらせていただきますよ」
山田太郎はステーキハウスに車を駐車した。都会に出ると毎回行く店だ。おかわり自由のサラダバーにスープバーとカレーがお目当てというケチな山田太郎なのである。お得とか食べ放題とか半額食材に目がない。
ステーキハウスに入って先ずは山田太郎が注文をした。これくらい注文をしても大丈夫ですよというボーダーラインを決めてみた感じだった。それを聞いていた二人の反応が面白かった。
「同じものを!」
二人の声が見事にシンクロしていた。そして、二人の腹が鳴った。
「お二人は付き合ってるんですか?」
「いえ、初対面です!」
二人の声がまたシンクロした。本当に面白い人達だと太郎は思った。
「同じネットカフェ難民ですが繋がりはないですよね」
「そうですね。変ですよね。同じ場所で暮らしてるのに」
「あ、私は前橋春菜です」
「あ、はい。俺は宮本拓郎です」
山田太郎は二人のお見合いに立ち会うみたいで何か幸せな気分になって、ニコニコしながら二人を見守る。好きな漫画の話になって、夢中になって食べるのも忘れるほどだ。
「二人とも肉が冷めちゃいますよ。ほら食べて」
「あ、はい! 楽しくて忘れてた」
二人は思い出したように目の前の大量にある肉を無心で食べ続けた。すると二人の目なら涙があふれ出てきた。
「おいしいね…ほんと久しぶりにこんな良い肉食べた」
「うん。うめえ。俺なんか1年ぶりかも…うめえ…」
泣きながらステーキを食べる二人は涙のソースでステーキを食べているようだ。タレを掛ける余裕すらないのか、ただひたすらに肉を食べていた。
「ほらほら、ソースも掛けて下さいよ」
「あ、すいません…」
「どもっす…そう。どばーと行っちゃって下さい」
山田太郎は二人のステーキにソースを掛けてあげた。1キロの肉を食べ終えた二人はまた、漫画の話で盛り上がる。
空になったサラダバーとスープバーの器を持っておかわりに行く山田太郎。3人ぶんなので大忙しだ。
「ご馳走様でした! このご恩は一生忘れません!」
「俺も忘れません。一生ついて行くっす!」
店を出てすぐ、二人は深々と頭を下げる。山田太郎は照れくさくて真っ赤になった。辺りは暗くなり、夜の10時になっていた。




