第32話 裏方の戦い③
室内は静かで、時は過ぎていく。
「……おかしいな」
控室の壁際にドンと鎮座する大きな柱時計を睨むように見つめて、パオロが言った。
「ええ、もう三十分は経つのに……その場で処刑されるにしても何か騒ぎにはなるはず……」
同じように時計を見つめ、同意するブリジッタ。
「ひょっとして……うまくいったのでしょうか…… ? 」
ジョナタは不安が零れ落ちそうな瞳でパオロを見上げた。
彼が絶対にそれだけはありえないと否定しつつも、この静寂の理由を説明できないでいる時、ドアが静かに開いた。
「伯母さん ! 大丈夫だったのか !? 」
誰に対して、何に対しての「大丈夫」なのかは、言った本人もよく分からないまま、パオロは帰還したメイド長に駆け寄った。
彼女はそんな甥っこを手で制しつつ、無言で椅子に腰かけた。
三人がそんな彼女を無言で見つめる。
「……何もなかったわ。ただ世間話をして……領主様の人となりや……この王島のこと……それに私の仕事なんかを……それから貴賓室に備え付けのティーセットで……この群島の紅茶の淹れ方の流儀を教えてあげて……それを二人で飲んで……」
どこか虚ろにカミラは語る。
「そして『御使い』様は……独りで寂しかったから話せて良かった、と。それから……頼みたい仕事は数時間かかるから、体力のある若い者を寄越してくれないか、と」
「とりあえずお怒りは買わなかったようだな……。『御使い』様の器のデカさに感謝しなきゃならないな。しかし『数時間かかる』だと…… !? どれだけ長い時間やる気なんだ…… !? 」
語り終えたメイド長の前で、パオロとジョナタはとりあえずの危機の回避に胸を撫で下ろすが、ブリジッタはより身を固くする。
「……『御使い』様は……若い者を御所望なんですね ? 」
確認するような、覚悟を決めるためのような、そんな問いにメイド長は無言で肯いた。
「よせよ ! お前が行くことはないって ! さっき言ってただろ ? もう少しすればクリスティアーナが帰ってくるって ! 」
「そ、そうですよ ! 僕……ブリジッタさんがそんなことになるなんて……嫌です ! 」
メイド長を制止した時とは違う理由で、二人はブリジッタを止める。
「心配してくれてありがとう……。でも……これ以上『御使い』様をお待たせするわけにはいかないわ。それに……今二人が私の身を案じてくれたように……クリスティアーナやビビアーナにだって……彼女達を大切に想っている人達がいるはず。誰かがやらなきゃならないのよ……」
ブリジッタは散りぎわの華のように、儚げに微笑んだ。
「ねえパオロ、昔よく遊んだ入り江を覚えてる ? 」
なおも彼女を押しとどめようとするパオロを制するように、ブリジッタは語り出す。
「私……あの海の青色が、どこまでも透明な青色がすごく好き……。でも何百年か前に魔王軍が攻めてきた時、あの入り江は血の色で赤く染まって、どうしてか魔王を退けた後数十年も赤黒いままだったそうよ。もし……領主様一族が『王族』でなくなって、この群島で戦争が起きて……あの入り江の青い海がまた人間の血で赤黒く染まってしまうなんて……嫌なの…… ! 」
その笑顔は今にも消え去ってしまいそうなのに、どうしてか凄まじい力が感じられて、パオロもジョナタも息を呑む。
「だから……私……行ってくる ! それに……『御使い』様に気に入られて玉の輿になれるかもしれないし ! そうしたら『王族』みたいな待遇になるんだから、もうあなた達は私と気軽に喋れなくなるかもね ! 」
パオロはそんな精一杯の強がりを吐くブリジッタを、幼馴染の女をじっと見つめた。
昔はパオロ達のような悪ガキと一緒に走り回っていた活発な少女は、いつの間にか綺麗になった。
そしてある想いのために、パオロの伯母であるカミラの伝手を使って領主の館でメイドとして働くようになった。
「本当にいいのか ? だってお前は……」
「いいの ! きっとこれはタンマーロ様のためになることだから……」
そう言ってブリジッタは胸の前で両手をそっと重ねた。
それは彼女の覚悟の礎となっているものを大切に包み込むようにも見えた。
そして彼女はメイド服の裾を翻して、彼に背を向けて扉に向かう。
パオロは思わず片手をあげたが、その手は何も掴むことなく宙に留まった。
少年の時なら、その手はきっと彼女の手を掴んだであろう。
そうできなかったのは、彼もまた少年のままではなかったから。
沈黙の室内には、ただただメイド長が化粧を落す粘着質な音だけが聞こえる。
それはどうしてかパオロの心をざわつかせた。
ジョナタはテーブルに突っ伏し、時折思い出したかのように顔をあげて時計の針を見やる。
長針が円形の舞台を半周ほど舞った頃、扉が静かに開いた。
パオロはどうしてか、扉の方から目を逸らす。
ジョナタが駆け寄る足音が聞こえた。
「……ただいま。ジョナタ、何泣いてるのよ ? 男の子でしょ ? ……大丈夫よ。何もなかったから……メイド長と同じように……さっき教えてもらったからって御手ずから紅茶を淹れてくださって……それを飲みながらこの島で最近流行ってることとか……女の子に人気のお店なんかを聞かれて……」
普段と変わらぬ声に、ようやくパオロはブリジッタに目を向ける。
どうしてかその瞳だけが、先ほどのメイド長のように虚ろであった。
「……そして最後に申し訳なさそうに……頼みたい仕事は男の方がいいから、部屋に寄越してくれって……」
「……『御使い』様は……そっちだったのか……。まあ、良かったじゃねえか。貞操を捧げなくてすんで」
パオロはようやく破顔した。
「え ? そ、そうね ! 良かった……良かったわ ! うん ! 」
どこか自分に言い聞かせるように、ブリジッタは大きく頷いた。
「でもそうなると……」
メイド長が硬い声で男の子を見つめた。
「……ジョナタ、もうあなたしかいないの……」
ブリジッタはジョナタの両肩を両手で掴み、目線を下げて、言い聞かせるように言った。
「……僕、行きます ! ……本当は嫌だけど……でも……ブリジッタさんがそんな目にあわなくて本当に良かった……僕が……この群島のために……犠牲になります ! 」
大きな瞳に一杯の涙を溜めて、ジョナタは部屋から飛び出していった。
勢い良く閉められた扉を、残された者達は無言で見つめた。
四十分ほどが経っただろうか。
またしても扉が静かに開いた。
「ジョナタ……口元をそんなに汚して…… ! 」
(口元が汚れてるだと !? 一体何をさせられたんだ !? )
扉から意識的に目を逸らしていたパオロがブリジッタの声に思わずそちらを見やる。
「す、すみません ! 貴賓室に用意されていた焼き菓子を『御使い』様が勧めてくださって……」
ジョナタは恥ずかしそうに口元をハンカチで拭う。
「なんだ……びっくりさせやがって……それで……どうだった ? 痛くなかったか ? 」
彼なりの気遣いなのか、パオロは務めて明るく問いかける。
「痛い ? いえ別に痛いことは何も……」
「そうか……『御使い』様は、そういう側なのか」
パオロは腕を組み、大げさに頷く。
「……よくわかりませんけど……僕も……何もありませんでした……。ただお話をして……『御使い』様は大陸にいた時に僕と同じくらいの年齢の子達と行動を共にしていたらしくて……懐かしがっておられて……お小遣いまでいただいてしまいました……。それから……どうも自分の用件が正確に伝わってないんじゃないかって……」
「なんだと ? 」
「『御使い』様は見張りの兵士に『自由な時間に、使いに行ける者』を寄越してくれとおっしゃったそうです。『自由に使える者』ではなく……」
「なるほど、なるほど、どうもおかしいと思ったんだ。じゃあ俺が今から『御使い』様の部屋に行ってその用件を承ってくるとするか……ついでに大事な『御使い』様の用件を聞き間違えた早とちりの見張りの兵士も一発ぶん殴ってな…… ! 」
パオロは腕を組んだまま大きく頷き、それから拳を握りしめた。
「……パオロ、私の分も一発お願いね ! 」
「ぼ、僕の分もお願いします…… ! 」
「わかった、わかった、合計三発だな ! 」
そう言い残して、颯爽と部屋を出ようとするパオロをメイド長が引き留めた。
「待ちなさい、パオロ ! 」
「なんだよ ? 伯母さんだって、見張りの野郎にムカついただろ ? あいつの勘違いのせいで俺達はどれだけ気苦労を重ねたか……止めないでくれよ ! 」
「止めるわけないじゃない……私の分は二発、お願いね」
メイド長は片頬を上げた。
「……了解 ! 」
久しぶりに部屋の扉が小気味よく閉められ、しばらくしてから怒声と情けない男の悲鳴が聞こえた。
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