第20話 蛍の光
「『聖女』イマコラータ。お前は今からただのイマコラータだ」
彼女が背いた女神の「御使い」の静かな宣言。
それがなされると同時に、イマコラータは白い大理石の床にへなへなとへたりこむ。
「……光……私の光が……消えた……ミシュリティー様の声が聞こえない……返して……」
彼女は虚ろな瞳で天井に描かれた豊穣の女神へと両腕を伸ばす。
静かに微笑む彼女は、その哀願に応えはしない。
一瞬で十歳ほど年を取ったように見えるイマコラータは、数分前の彼女とはまるで別人。
地球でよく見る「この健康食品で若返る ! 」というキャッチコピーとともに張られる女性のビフォーアフターの写真。
必ずビフォーが仏頂面で、アフターが笑顔のやつだ。
そんな消費者庁が激怒すること間違いない広告のビフォーとアフターが逆になったような変貌であった。
「こいつを拘束してくれ」
「え ? あ、はい ! 」
コウは兵士達の隊長と思しき男に指示を出す。
男は一瞬とまどったものの、すぐに動き出した。
イマコラータ以外の二人の「聖女」が彼を「御使い」と認め、さらには「御使い」だけが持つ特権を実演してみせたのだ。
もはやコウを疑う者はこの場にはいない。
彼は踵を返して、ハイーナの膝に頭をのせて横たわるリンの元へ歩む。
彼女は、ハイーナに変化したものは再び緑へと変化させた瞳で彼を見つめた。
次の瞬間、その瞳が大きく見開かれ、その口は彼に何かを伝えようと動く。
シュレディンガーの猫、という思考実験がある。
「一定確率で毒ガスを放出する装置と一緒に箱に入れられた猫は、蓋を開けて観測するまで生きた状態と死んだ状態が重なり合っている」という話だ。
これは「観測するまで物事の状態は確定しない」という量子力学の考え方を説明するものである。
ところがこれを考えたシュレディンガーの意図はその「観測するまで物事の状態は確定しない」というコペンハーゲン解釈を否定するためのものであった。
現在、コペンハーゲン解釈が正しいと証明されており、皮肉にもシュレディンガーの猫は元々の意図とは逆に、否定するはずのそれを上手に説明するものとして知られている。
さて現在コウは自分の背後で何かが、それもとびきり良くないことが、起こっているのが想像できた。
マクロの世界ではそれを観測するまで物事の状態は確定しない、ということはない。
彼が後ろを振り向かなければ、背後の物事は良くも悪くもないなどということはありえず、ただただ無防備に背中を晒し続けるだけだ。
よって彼はすぐさま振り返る。
そこに観測されるのは兵士に引っ立てられる無力な熟女であるはず。
そうであり、そうではなかった。
「種よ !! 」
彼の視覚と聴覚とが、同時に危機を認識した。
どこから取り出したのか、彼女の太い指に挟まれた種。
パチンコ玉ほどの大きさのそれが彼女の大きな口に飲み込まれた。
「全員退避 !! 今すぐにこの礼拝堂から出ろ !! 」
そう叫んで、コウは腰に巻いた上質な白い革製のウエストバッグ型のアイテムボックスから黄色い魔石を取り出し、走る。
「え ? 一体…… ? 」
イマコラータを拘束するため、彼女の目の前まで来ていた二人の兵士は、事態を飲み込めないのか、どこか呆けたようにコウを見た。
そんな彼らにお構いなく。
始まる。
変身が。
日照時間の多いこの群島特有の褐色の肌は、親友が死んだ夜のように黒く、棺桶の釘を打ちつける石の音のような硬さに。
夏の太陽の光をはね返し、頭を熱から守る銀色の髪は、冬の寒風に吹かれた枯草のように散る。
眩しさを和らげる黒い瞳は、その領域を広げ、どんな光も届かないような常闇の暗さに。
豊かさを象徴するような丸い体形は、そのラインを保ったまま黒い外骨格に覆われた。
両肩だけがどうしてか純潔な乙女が流した鮮血のように赤い。
そして背中には砲弾を逆さにしたような形の翅が黒いマントのよう。
両手足の形は人間のものと大差はないが、それも外骨格に包まれている。
人と虫とが歪に融合したようなものが出来上がった。
「ま……まさか…… ? 」
「伝承にある蟲人…… ? そんな……なんで『聖女』様が…… ? 」
もし今コウが装備しているのが、大陸で彼が愛用していた鎧であれば、彼女が種を飲み込む前に彼女は死んでいた。
だが今現在の彼の鎧は、人工筋肉の補助もない、彼自身の筋力でのみ動く鎧。
「ヒカリ……ヒカリ……」
彼女の腕に光が灯る。
それは真昼の輝く太陽とも違う。
温かな暖炉の火の明かりとも違う。
寂れた飲み屋街のネオンサインのように、何かしらの情欲を掻き立てるような退廃的でくすんだ光。
黄色い蛍光色のそれは、放たれる。
妖精族の光の精霊魔法とは違い、線状の光が視認できた。
その光は断りもなくコウの左胸を貫いて鎧の内部に入り、しばらく無許可で滞在した後、背中をぶち抜いて去っていった。
かつてイマコラータであった蟲人の複眼に、彼に穿たれた穴の向こうで悲鳴を上げる女の顔が映る。
どうしてか、その女の顔は、かつての彼女のメイドであった顔は、見え隠れする。
穴が揺れているからだ。
それは彼が走り続けているから。
死してなお闘志が身体を動かし続けるという狂戦士ぶりを発揮したわけではない。
魔素が彼の右手に握られた魔石に注ぎ込まれ、変換されていく。
彼の女神の攻撃の象徴でもある雷へと。
空気が震え、弾けた。
「聖女」ニルダは思わず目を閉じ、耳を両手で塞ぐ。
それでもなお凄まじい雷光と雷鳴は彼女を震わせた。
やがて静寂が戻り、彼女は恐る恐る目を開ける。
まず見えたの焼け焦げた礼拝堂の壁。
そして右手を前に突き出した「御使い」。
蟲人はいない。
「全員退避しろ ! 早く ! こいつは俺が始末する ! 」
そう叫んでコウは高い天井に顔を向ける。
ニルダが彼の視線を追うと、何か黒いものが集まっていく。
数えきれないほど多い小さな蟲の群体だ。
それが人型に群れたかと思うと、さきほどの蟲人となる。
「退避 ! 退避だ ! 」
隊長の声が響き、兵士達は礼拝堂のドアへとなだれ込む。




