第18話 彼女が望むもの
「……どういうことだ ? 」
ストーカー犯罪者が警察からの「警告」を無視し続け、ついには加害者に義務や権利の制限を課す「禁止命令」が出されても無視し続け、最終的に「逮捕」に至るような意図的で、自らの破滅と、けして成就することのない利己的な愛とを天秤にかけ、後者を選んだことによる警鐘の無視。
意図的ではないにしろ、そんな破滅に至る警告を無視して塔を降りて来た男にも、ようやく理解できた。
「コウ……」
彼がこの群島で初めて出会った純粋な爬虫類人族の女。
黒絹のような髪。
太陽のような瞳。
翠玉のような鱗。
彼女そのものでありながら、彼女を美しく飾っていたそれらは無残であった。
「リン ! 」
駆け寄ろうとする彼を、彼女の喉元に突き付けられた剣が止めた。
この荘厳な礼拝堂に似つかわしくない薄汚れた剣身の根本はそれを握るごつごつした黒い手、そのたくましい腕は群島の気候に合わせた風通しの良い軽鎧によって露出しており、太い首の上に乗る日焼けした顔は無表情、そしてその頭は銀髪。
この王島の酒場を覗けば、どこにでもいるような男であった。
そんな普通の男が、爬虫類人族の女の生死を握っていることに何の感情の動きも持ってはいない。
それがこの島の現在を充分すぎるほどに表していた。
「いますぐリンを解放しろ ! 」
いつの間にかリンの横で、でっぷりとふんぞり返っているイマコラータに怒鳴るコウ。
礼拝堂の中心にいる彼女の後ろには二人の「聖女」とハイーナ。
そして兵士が三十人ほど。
「何をおっしゃっているのかしら ? これは試験ですのよ ? 」
「試験だと ? 」
「ええ、あなたが本当に私達人間の『御使い』だというなら、この生臭い蜥蜴女をあなた自身の手で殺してくださいな」
この群島一のクラムスキー商会謹製の上質な化粧品でも隠せない下品さで、女は嗤う。
「お前……本当に『聖女』か !? ミシュリティー様の声が聞こえないのか ! 」
神域からこの状況を見ているのか、彼女の「御使い」であるコウの耳に響く声は、もはや金切り声となっていた。
「……聞こえませんわ。ある時からミシュリティー様は全く託宣をなさらなくなりましたの。ですから私は過去のミシュリティー様の託宣に従っておりますのよ。『人間族以外の種族は全て下等な亜人種に過ぎない。だから奴隷として、家畜として、資源として、利用せよ。それこそが最上の種族である人間族の在り方だ』という託宣にね」
大陸とは異なる白く薄い麻製の修道服が、その内部からの圧力に耐えきれず破裂してしまうのではないかと不安になるほど、イマコラータは身体を膨らませて、恍惚な顔となる。
(こいつ……今のミシュリティーの言葉を意図的に無視しているのか !? 自分に都合の悪い、信じたくない言葉を !? )
人は信じたいものを信じてしまう。
正規の国家試験をくぐり抜けた専門家の厳しい金言よりも、どこから仕入れて来たか分からない浅薄な知識を自家薬籠中の物として披露するユーチューバーの耳ざわりのよい甘言の方を信じてしまうように。
(他の「聖女」は…… !? )
イマコラータの後ろに隠れている二人の「聖女」。
彼女達は虚ろな瞳で中空を見つめるばかり。
(……薬でも盛られてるのか ? それにしてもこの状況はまずい…… ! )
今、彼が装備している鎧は防御力に特化したもの。
それほど多彩な攻撃手段を備えているわけではない。
例えば剣を突き付けられた人質だけを回避して、他の者を一瞬で行動不能にさせるような都合の良いものは。
「……コウ……こいつらが……行方不明の爬虫類人族を攫ってたんや……。そして……まるで家畜みたいに……毒をしぼり出させて……それを薬にして……言うことをきかんかったら……ひどい拷問を……そんで毒が出せなくなったら……ゴミのように……」
リンは片方だけの黄金色の瞳で、すがるように男を見つめ、かすれた小さな声で言った。
男はかつてそんな視線を向けられたことがあった。
大陸で戦争中に。
だから女の次の言葉が予想できた。
「……殺して……」
「あらまあ ! 殊勝なこと ! 彼が殺しやすいように自ら死を望むなんて ! 」
イマコラータは何が面白いのか、けたけたと嗤う。
「殺して…… ! 爬虫類人族を踏みにじったこいつらを…… ! そしてこの群島の人間を……皆……殺して…… ! 」
涙にも色々と種類がある。
今、リンが残った片方の瞳から流しているのは、怒りでも悲しみでもなく、尊厳を踏みにじられた者だけが流す涙だった。
コウはそれを正面から受け止め、この場の対処法を考えることで押さえていた怒りが、もはや暴発しそうになっているのを感じた。
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「ところで、人間にとって……いや失礼しました。知性と感情を持つものにとって一番難しい行為とはなんだと思いますか ? 」
相変わらず中央のテーブルの上で胡坐をかきながら、グリルは濃いクマの上の瞳で女神達を見渡す。
しばしの沈黙の後、一柱の女神が答えた。
「……『赦し』ではないでしょうか」
五月の女神、マイアルペリだ。
「おや、よくわかりましたね」
「……私達自身にも言えることですから」
そう言って彼女はちらりとミシュリティーを見やる。
「世界を最善に回すためにはね、どんなに赦しがたい者でも赦さなけれならないことがあるんですよ。特に神にとっては。だから憎悪に囚われ、他者を赦せなくなった神は地獄へと落ちるんです」
いつの間にか膝を抱えていたグリルは誰に言うとでもなく、ぼそりと呟いた。




