第16話 孤独な女神
荘厳な黒い大理石の床、そして同じ素材で灰色の壁、白い天井。
中央には同じく円形の白いテーブルが設置されて、等間隔に十二の椅子がテーブルに沿って並べられている。
そんなモノクロな円形の大きな部屋。
地球の風水では白黒をはっきりつけられるからギャンブル運が向上するという理性の及びつかない理由で賭博狂にもてはやさるそのシンプルなカラーリングは、青い閃光で彩られる。
七月の女神、そして竜人族の女神であるドヌマリコーリーの爪撃を十月の女神ミシュリティーが稲妻で迎撃したためだ。
「……出迎えにしては、穏やかじゃないですね。今はこの神域を、この世界を、皆で悪魔から守護しなければならないのに……。それくらいはお分かりになるはずよ。いくらドヌマリコーリー姉様でもね…… ! 」
「うるさい ! そもそもこの事態を招いたのは誰だ !? お前が悪魔に憑りつかれて、母様が創ったこの世界を淀ませて……悪魔達のために扉を開いてやったからだろうが ! 」
端正な顔を歪め、鋭い牙をむき出しにして、竜人の女神は吼える。
五月の女神、エルフ族の女神のマイアルペリは溜息を吐いて、そんな姉妹喧嘩というにはお互いの殺傷能力が高すぎる争いを眺めていた。
すぐに仲裁に入るべきなのに、そうしなかったのは、彼女自身にもドヌマリコーリーと同じ思いが多少はあったからであろう。
「……落ち着いて。ドヌマリコーリー姉さん。ミシュリティーの禊は済んでるわ。地獄に赴いて、堕ちたエイプリル姉さんを救い上げ、その後封印されたことでね。……刑期はコウに一任することに姉さんも同意したはずよ」
マイアルペリが傍観している間に、全身が黒い美女が割って入る。
九月の女神、人狼族の女神ワーブドリードだ。
「うるさい ! お前だって……悪魔に憑かれていたくせに ! 」
さらに闘気を高めるドヌマリコーリーを見て、マイアルペリはさらに溜息を重ねる。
「……確かにそうよ。でも私は憑りつかれる瞬間に分霊を作って、別の世界へと逃がした。その分霊が再びこの世界へと転生して、コウとともに神域の悪魔を打ち祓い、分霊は再び私に融合した。充分に落ち度を取り返しているわ」
黒い髪から黒い狼の耳をぴょこりと出した黒い肌の女が、悪びれもせずに言い放つ。
過去に彼女の分霊は地球へと転生し、コウの飼い犬となり、再びこの世界に人狼リーニャとして転生して、コウと出会ってからは行動を共にし、世界を一時的に救った。
そして本体である九月の女神の悪魔を祓った後に、再び統合されたのだ。
今はこんなことをしている場合ではないということは、彼女達もわかっている。
百年戦争で勝利し、主神の座についたエイプリルは地獄堕ちの後遺症から、今も彼女固有の神域で眠っている。
地上では悪魔が好き勝手に跳梁跋扈している。
それどころか油断すればこの神域にも侵入してくる始末。
主神の座についた女神が万全でないということは、例えば会社の古くてファイヤーウォールのないパソコンで海外の怪しげなアダルトサイトを閲覧して、その勤労中に暴発した性欲の代償としてウイルスに感染したり、会社のクレジットカード番号や機密情報を抜かれるような脆弱性を有しているということだ。
三月の女神イルシューアがその姦しい争いに参戦しようと腰を上げた時、彼女は現れた。
大きな円形のテーブルの真ん中に。
白いワンピースで行儀悪く胡坐をかいて。
ボサボサの黒い髪の下、美しくはあるけれど、頬がこけて、目の下は落ちくぼみ、クマになっている。
肌は青白く不健康。
そんな幽霊のような女だった。
けれど、外見とは裏腹に、その存在感は凄まじい圧力をもって女神達を圧倒する。
「あ、あなたは…… ? 」
一瞬だったのか、それとも数分たったのか、マイアルペリは誰何する。
外見は似ても似つかないのに、彼女の、彼女達の母と似た空気を纏ったやせこけた女に。
「……私はグリル・グレル・グレスです。好きな部分で呼んでくれてかまいません。できれば『ちゃん』づけで」
グリルは、ちらりと彼女の方を向くと、ニコリともせずに言う。
そんな接客業務にまるで向いていないグリルの態度にクレームを入れることもなく、彼女はさらに問う。
「ではグリル…………ちゃん、私の問いの意図が十分に伝わっていなかったようなので、もう一度問います。あなたは何者なのですか ? 」
友好的とは言い難い招かれざる客には、呼び捨てで構わないであろうと考えたマイアルペリは、そうしかけたところで凄まじい圧を感じて、慌てて「ちゃん」をつける。
「……おや、感じ取れませんでしたか。それは失礼しました。私は女神です。あなた方の母と同じく『創造』の権能を極めた……それだけの女神です。そして監察官のようなこともやっています。今回ここに訪れたのはその役目のためですね」
一瞬だけ彼女の方を向くと、グリルは抑揚のない声で早口に言ってのける。
「監察官 !? わかったわ ! ミシュリティーを処罰しにきたのね ! 早速やってちょうだい ! 」
三月の女神、巨人族の女神イルシューアがその小さな肩を震わせて、歓喜に満ちた表情で大きな声をあげた。
「……ぬか喜びさせて申し訳ないんですが……処罰対象というものがあるとすれば、それはあなた方全員ですし、場合によっては……いや、かなりの高確率であなた方の母様が創った星を消すことになります」
しれっと、無表情で、グリルは恐ろしいことを言う。
「ど、どうして !? この世界が滅茶苦茶になったのはミシュリティーのせいだろ ! 」
ドヌマリコーリーが掴みかからんばかりにグリルに詰め寄る。
彼女以外の女神達も、大半は同じ思いであった。
どうしてミシュリティーの過ちのせいで母なる創造神が創り出したこの世界を消さねばならぬのか、と。
「……過程はそれほど重要ではありません。問題なのは今現在の結果です。この星はあともう少しで不可逆に汚れてしまいます。そうすれば逆に悪魔に防壁を張られてしまい、私達に手出しはできなくなります。そうなる前に手を打たなければなりません」
「そんな……この世界には多くの種族の……多くの命が生きているんですよ !? それなのに…… ! 」
いつも傍観してばかりのマイアルペリも、さすがに大声をあげてテーブルへ上り、グリルへと詰め寄る。
他の姉妹達も騒めいた。
「そう言うんならば、こうなる前に手を打って欲しかったです。あなた方は困難に際して自分の眷属を護ることばかり。誰一人として姉妹が悪魔に憑りつかれて苦しんでいることに気づかなかったではありませんか ? 」
「それは……」
痛いところを突かれたのか、マイアルペリは口ごもる。
「ところで、管理する世界に住む知性を持つ種族をどういう状態へ導くのが、正しい女神の在り方だと思いますか ? 」
じろりと、睨めつけるようにグリルの漆黒の瞳が彼女を見上げた。
「……急に何を……そんなの……全ての者が最高に幸福を感じて過ごせる世界を目指すのが女神の在り方です…… ! 」
「なるほど……では、逆に目指すべきではない状態、つまりは悪魔が作り上げようとする世界は ? 」
「目指すべき世界の逆です。全ての者が最悪の不幸に苦しむ世界です」
十二柱の女神の中で「知性」を司るマイアルペリの答えを聞いて、グリルは無反応だったが、わずかにその瞳の闇が濃くなったように見えた。
「なるほど……他の方も異論はありませんか ? 」
気だるげに女神達を見渡し、そのあまりに当然と思えるマイアルペリの解答への異議がないことを確認したグリルは、一片の気遣いもなく、大きな溜息を吐いた。
「……夢物語ですね。そんなものは。地上に生きる者全てを眠らせて、永遠の夢でも見させない限り、そんなことは実現しませんよ。もちろん最大多数の最大幸福は目指すべきですが」
「な、何を言うのですか !? 」
「もし自国の発展のために他国に攻め込む者がいたらどうします ? その者が最高に幸福になるためには他国の者が不幸になるしかありませんが ? 」
「それは……極端な例えです。それぞれの者は他者の幸福を阻害しない範囲での最高の幸福を得れば……」
まるで古典的な功利主義の議論であった。
「……それから、悪魔の目指す世界はあなたが言うように全ての者が最悪の不幸に喘ぐ世界なんかじゃありません。皆が不幸ならば、どういうわけか意外と不満に思わないものなのです。知性ある生き物は。だから悪魔は少数の者に世界を支配させるのです。他の大多数の者を。その少数の者が最大の幸福を得る代わりに、大多数の者がそれを支えるためだけの家畜の生涯を送るのです。けしてひっくり返らない序列の中でね」
「それって……」
「そう、この世界はそうなるように導かれています。悪魔によってね」
かつて人間族が支配していた時の怨恨から、今は少数の妖精族が大多数の人間族を支配しようとして、それはほぼ達成されつつあった。
「悪魔達はそんな世界で苦しむ者の魂を見て、愉悦し、弄ぶのが大好きなのです。そんな世界に生きていて何の希望があるでしょうか ? だから消してしまうのです。そうなってしまう前に…… ! 」
瞬間、女神達は深海に放り出され、その水圧に瞬時に押しつぶされるような圧に息を止める。
それはグリルの静かな怒りであった。
女神の役目を果たせず、地上に生きる者を正しく導けなかった弱い女達への。
「……ですが私も鬼ではないどころか、女神の端くれですから、なるべくはそんな手段を取りたくはありません。よってあの『シンジン』が悪魔を打ち払い、この世界を正しく導けるならば、見逃すことにするつもりです」
「……『シンジン』 ? 新人ですか ? それとも新神 ? 」
ふっと消えた圧に、胸をなでおろしながらマイアルペリが問う。
「『神人』です。知りませんか ? 悪魔と神との両方をその力で打ち破った者には神人の位が授けられるのです。ちなみに私もかつては人から神人となり、女神となった口です」
そう言ってグリルはちらりと、コウが倒した神であるミシュリティーを見やる。
「あいつが……」
「彼はまだ期待できますよ。まだ半端な神人の身でありながら、神の孤独を理解して、それに苦しんでもいますからね。あなた達と違って」
そう言ってグリルは、自らを抱きしめるように両腕を組んだ。
かつての自分を、そして現在のコウを憐れむかのように。
「……ちょうど今から、彼は選択を迫られます。それを見てみようじゃありませんか」




