第15話 神へ至らなかったばけもの
うねうねと蠕動する艶めかしい肉の塊は、その体色であるピンク色の色っぽさとは真逆の惨劇を演じていた。
細くねじ上げられ、体液を垂らしながら触手となった身体の先端が、必死で口を閉じるモレーノの抵抗も虚しく、口腔に侵入する。
何か、砕けてはいけないものが砕ける生理的嫌悪感を引き出す音に続いて、グラスの底に残ったジュースをストローで一滴も残さずに吸い取ろうという躾の行き届いていないお子様方が奏でるようなバキューム音が響く。
「……頭の中味を……吸ってる ? 」
相手の行儀悪さへの嫌悪感を表に出さないのは、ある意味、そのマナー違反を改める機会を奪うことでもあるので、それを気遣いと言って良いのか悩むこともあるが、今や化け物となった男に対してネリーは遠慮なく汚物を見るような目で彼を見た。
それは女性に虐げられることに快感を覚えるような歪な性癖の持ち主であれば即座に彼女の前に人間の尊厳を投げ捨てて、犬猫のように地面に転がってお腹を見せる服従のポーズをとるほど、冷たさと威厳を兼ね備えたものであったが、幸い周囲にそんな者はいなかった。
(……ポイズンドラゴン駆除の時、ベースキャンプ内で悩を食い尽くされた遺体が見つかって……今も街で似たような死体が毎日見つかって警備兵が奔走してるのは、トレイさんと同じような……それこそ試作品の薬を投与された者が似たような化け物になって人間を襲っているからかもしれないっすね……でも……なんで悩を…… ? )
それほど人間時代のトレイに思い入れのないサンドロは、地面に蹲って嗚咽をあげるシャロンとは違って、魔素切れの悪寒に耐えつつも冷静にそんなことを考えていた。
「……女神の『恩寵』に代わる力を追い求めた結果がこれか……ま、気持ちはわからなくもないがな」
上半身だけをなんとか起こしたキャスが葉巻を加えながら、ボソリと呟いた。
彼自身も十月の女神の恩寵が弱まった時、かなり落ち込んだものだ。
もし彼が武力だけに自分の存在意義を見出し、周囲との繋がりも強く頼もしい自分を前提としたものであれば、トレイと同じような道を歩んでいたかもしれない。
よいしょ、と可愛らしい声が背後から聞こえた。
「……キャスさん、大丈夫ですか ? 」
しばらくの間、気絶していて彼の背後に守られていたドナが起き上がり、彼の横へと走り寄る。
キャスは、彼自身も思ってもみなかった自らの価値を見出してくれた土妖精の少女に向かって片頬を上げてみせた。
不意に、蠢く肉塊に火が灯った。
同じく目を覚ましたサラが火の精霊魔法を発動させたのだ。
その命を灯芯とした炎は、ゆっくりと不定形の怪物を燃やしていく。
どうやら爬虫類人族の刻印と薬との奇跡的なバランスの上に成り立っていた無限の成長能力は消え失せたようで、炎は美しく揺らめきながら、醜悪な肉塊を確実に燃やしていく。
捕食器官である口が発声器官を兼ねてはいないようで、悲鳴に代わってその肉体が荒波のように激しく動くことが迫りくる自らの消失への拒絶の叫びのようであった。
「……皮肉なもんすね。もしシャロンさんの想いを受け入れて……もう一つ刻印が増えていれば……こんな結末にはならなかったかもしれないのに……」
サンドロは小さく溜息を吐いて、天を仰いだ。
抜けるような青空の先、黒い何かが飛んでいるのが、彼の視界に映る。
遠いそれに瞳の焦点を合わせようと目を細めた時、弱弱しく、されど逼迫した声で彼の名が呼ばれた。
「……フリストさん」
それはリンと共に行方不明となった爬虫類人族を捜索しに人間の街へやったきた者達の一人だった。
「サンドロ…… ! リン様が…… ! リン様が…… !! 」
「落ち着くっす。トレイの話だとリン様は王島にいて……コウさんへの人質になってるそうですから、俺達にはどうすることもできないっす。あとはコウさんに任せるっす」
ボロボロになった身体を引きずるように動かす男をなだめるようにサンドロは落ち着いた声で言った。
「だが……あの男は人間だ…… ! リン様を見捨てるに違いない…… ! 」
口角泡を飛ばしながら、男は絞り出すように言う。
そんなことはない……とトレイのシャロンへの仕打ちを最前列で見たばかりのサンドロは言えなかった。
────
王島の教会。
白く荘厳な外壁の内部、シンプルでありながらも数々の美術品によって飾り付けられた応接室の黒い革張りのソファーに男は座っていた。
いつもの竜人を模した鎧ではなく、まるでその室内の美術品の一つではないかと見紛うほどに美しい鎧を纏って。
それは細いシルエットで純白。
十月の女神が司る豊穣の象徴である小麦の意匠が彫り込まれ、さらに背には純白のマント。
顔は兜で覆われている。
十月の女神の御使いとして、本物らしすぎて逆に疑念を抱いてしまいそうなほどに荘厳な出で立ちの男の前のテーブルに置かれたのは、三杯目の紅茶であった。
「どうぞ……」
若干顔を引き攣らせた笑顔で、修道服の中年女性がそれを勧める。
「いや……もう結構だ」
コウが軽く手を挙げて辞退するも、女は退かない。
「私の紅茶が飲めないと言うのですか !? そんな狭量な方を『御使い』と認めるわけにはいきません ! 」
化学現象の「突沸」の如く、急激に沸騰した聖女は金切り声をあげる。
(な、なんでこいつはそんなにお茶を飲ませたがるんだ…… !? ノミニケーションとかほざいて、飲めない新入社員にアルコールを強要する令和には絶滅した昭和のアルハラ野郎かよ……。ひょっとしてカフェインを大量に摂取させて儀式中にオシッコを漏らさせようとでもしてんのか…… ? だとすれば小姑みたいな思考回路を持ってやがるということか……。どっちにしろ、ろくなもんじゃねえ……)
音もなく兜の口元がスライドして開き、コウは渋々、カップを傾ける。
幸い、彼の膀胱にはまだ若干の余裕があった。
聖女はその様子を血走った眼で見つめていた。
(なんで死なないのよぉぉぉぉおおお !? 普通の人間なら一口でぶっ倒れて、体中の毛穴から血を噴き出して死ぬほどの毒なのにぃぃぃいい…… !? )
彼女は知らない。
男が常軌を逸した破廉恥さによって、二人の爬虫類人族の女から親愛の刻印を打たれていることを。
その効果によって、どのような毒も男を死に至らしめることが不可能であることを。




