異世界無人島生活 第49話 少女は諦め、男は足掻く
「何……この臭い…… !? 」
香りでも匂いでもなく、臭いとしか表現できない腐臭がいつの間にか充満していた。
せっかく黄金マグロの余韻が残り、芳醇な海の香りで満たされていた口内も、その不躾な臭いに蹂躙され、ルチアナは顔を歪める。
隣に座るジョンも険しい顔だが、それは彼女とはまるで違う理由であった。
「立つんだ ! ベースキャンプまで戻るぞ ! 」
そう言って、ジョンはルチアナの同年代の少女に比べても細い腕を掴んで、立ち上がる。
「ど、どうしたの !? 」
「昨日、ジャングルでゾンビと遭遇した奴がいたって聞いてないのか ? 」
そう言われて彼女は、アンデッドドラゴンの報告を受けていたことを思い出した。
「この腐った肉のような臭いがそうだって言うの !? 」
「多分な ! でも問題なのは……」
ジョンがルチアナの手を引いて、ベースキャンプへと通じる獣道へと駆けだした時、ジャングルの樹々の上から何か大きなものが落ちてきて、道の前に立ち塞がった。
美しかったであろう毛並みは乱れ、所々抜け落ち、まだ赤い肉が露出していた。
そのブラックジャガーという大型猫のようなモンスターであったものは、死を象徴したような斑で汚らしい黒い毛皮を纏い、白く濁り切った意思のない瞳で二人を見つめた。
「ひっ…… ! 」
ルチアナは小さな悲鳴を上げて、脚を止める。
「大丈夫だ ! こっちに…… ! 」
別の小道らしきところへと向かおうとするも、周囲の茂みはいつのまにか大量の何かによって枝が動いたり折れたりする音で満たされていた。
「……囲まれてる…… !? そんな……いつの間に !? 」
「……恐らく臭いでバレないように風下から静かに回り込んでたんだ」
「まさか…… !? それじゃあこいつらに知性があるって言うの !? 」
「それか……誰かに命令されているか、だ」
密林の暗がりから次々と腐死者達が開けた日の元へと這い出してくる。
それは巨大な蛇の化け物であったり、猿の化け物であったり、鰐の化け物であったり、昆虫の化け物であったり、空には腐肉をばら撒きながら飛ぶ蝙蝠の化け物がいたり、つまりはこの密林原産のモンスターが死んで腐り、それでも動いている姿であった。
それはこの密林そのものが死者となって二人に襲い掛かってきているようでもあった。
さらにその密林の巨大な化け物どもの隙間にはそれを埋めるかのように、人型の、かつて人であった化け物がいた。
「……人間のゾンビも…… !? このジャングルで死んだ冒険者 !? 」
ジョンがベースキャンプとは反対側のさらに密林の奥に活路を見出さんと振り返るが、そこにもすでに巨大な腐竜が数匹、布陣していた。
(「フライングベルト」をウエストバッグのベルトに仕込んであるから、ルチアナを抱えて飛ぶことはできるが……そうなると両手が塞がって無防備になる…… ! 空にはジャイアントバットのゾンビが数十匹……。二人で空から逃げるのは無理か……)
忌々しげに空を睨むジョン。
そんな彼にお構いなしに、死の包囲はどんどんと狭まってくる。
「……やれることはやっておくか……ヒーちゃん…… ! 」
男の呟きに反応して彼の口元のカイゼル髭の端がアンテナのようにピンと立った。
「ルチアナ……すまない……俺が捜査に付き合わせなければ……」
「……いいの。どうせ人はいつか死ぬんだから……」
引き攣り、青ざめた顔ながらも少女にしてはいささか達観しすぎたことを言うルチアナ。
「何を……」
「私は……長い間病気で寝たきりだったの。ずっと酷い痛みに苦しめられていた。……たまにある痛みのない日は少しだけ身体を起こして……物語を読む……それだけが楽しみだったわ……」
青白い顔で、ルチアナは続ける。
「でも……半年前にとうとう医師に余命を宣告されたの。一年はもたないって……。だから……私はお父様にお願いしたの。最後に物語の主人公みたいに冒険してみたいって……。ちょうどその時期、クラムスキー商会が兵士用に開発した痛覚を遮断して無理やりに身体を元気にさせる薬を献上してきたの……。強力な副作用はあるけど……私は……それを服用して最後に夢を叶えることにしたの……」
彼女の独白の間も、腐臭を放つ化け物どもの包囲はどんどんと近くなっていく。
それはまるで彼女に迫る死、そのものに見えた。
「……フィリッポ達との冒険は楽しかった……死を忘れるほどに……でも、そうやって……死から目を逸らしてたけど……逃げられるわけないんだよね……」
そう言って、ルチアナは胸元から美しい装飾の施された懐剣を取り出す。
「ねえジョン……生きたままあんな腐った化け物に食われるなんて……絶対に嫌…… ! お願い……これで私を刺し殺して…… ! 大丈夫……薬の作用で痛みは感じないから……お願いよ……」
それは病魔におかされ、常に死を身近に感じて来た少女の懇願だった。
生きるための足掻きに疲弊した少女の哀願だった。
物語のように美しく散ることを少女は切に願った。
まるで神にすがるような瞳に耐えきれなくなったのか、男はその懐剣を受け取る。
すると彼女は安堵したようにその美しい黒い瞳を閉じた。
しかしそんな安寧の闇を打ち破る者がいた。
それは声だった。
潔く死を受け入れようとする少女の代わりに、少女を生かそうと足掻く者の声だった。
「ルチアナ様ああぁぁぁぁああ !!!!!!!! 今、行きますぞおぉぉぉおおお !!!!!!!! 」
その大声に思わず瞼を開けた彼女の瞳に映ったのは、死の壁の向こうから必死で駆けてくる、彼女のためにスカした「戦闘狂」を演じ続けた男だった。
「フィリッポ……」
ルチアナはどこか惚けたように呟いた。




