第9話 「幼馴染」
テツとリリーはWの金属人間の少女、テンスと戦った。レアメタルたちはテツの『リング』を求めている。一方、カガクは自分の中でテツのことを軽視していた事実に気がつく。
ここは都内のコンビニ。豊富な品揃えが特徴のコンビニの中には、それを求める多様な客が揃っている。
「あ〜あ、折角の休みに、何でこんなことに…」
お菓子売り場の前、ぽつりと愚痴を漏らす背中ほどまである黒髪を後ろで束ねた少女の視界には、商品が陳列された棚を興味深げに覗きこむ、ぎざぎざした鈍色の髪の少年の姿が。
「値段の設定というものはどうやって決まっているんだろう」
「知らないわよそんなこと」
「材料費はどれぐらいだろう」
「知る訳無いでしょ」
「この箱の形はどうやって」
「うるさい!しつこい!」
漣 カガクと漣 テツの二人は、自宅の周辺を散歩していた。
Feマン 第9話 「幼馴染」
テツがWと死闘を演じてから2週間近くが経過していた。その間は特に何事も無く、漣家の三人は平和に生活を送っていた。
冒頭の場面の説明をするには、時刻は数時間前、漣家の朝の風景まで遡らなければならない。
朝食を片付けた後、後ろ手に何かを持った陽子は軽い足取りで、ソファーに腰掛けて朝のニュース番組を食い入るように見つめる少年の所へ歩いていく。
「テツ君、ここら辺のことってあんまり分からないんじゃない?」
「ここら辺?」
「この、田間市ベッドタウンのこと」
陽子はテツの隣に腰掛けると、にこにこと笑った。
「…確かに、詳しくは無い」
「そう思って、ほら」
「これは?」
「地図よ。私の知り合いの幼稚園の先生に協力してもらって、そこの子供たちに描いて貰ったの」
陽子がテーブルに広げて見せた、よれよれの画用紙には、クレヨンでぐちゃぐちゃに描き殴られた地図らしきものがあった。遠めに見て漸く判断できるといったレベルのもので、地図の周りの空白を埋め尽くすようにチューリップやら何らかの怪獣やら太陽やらがごみごみと存在している。
テツの眉間に皺が寄った。
「嫌?」
「…まず、方向感覚が狂いそうになる。線をまともに引けない連中が地図という正確でなければならない物を作ろうという段階で無理がある。それに、こんな馬鹿げたでかさの怪獣を俺は知らない。加えて、だいたいこのへんと言う言葉が地図上には存在しない。してはいけない」
「まぁ、そうでしょうねー」
「陽子さん……わざとか」
「え?」
テツの疑いの眼差しを知ってか知らずか、陽子は机上の地図を丸めてテツの手に渡した。
「そこで!よ」
「何だ」
「テツ君には、この辺りの事に詳しくなって欲しいの。色々便利だし、これからここで暮らしていくわけだしね」
テツはうなずいた。一理あると思ったからだ。
「もう案内役も考えてあるのよ」
「?」
「お母さん、電球買っといてくれた?」
そこにひょっこり現れた、陽子の娘のカガク。
テツと陽子がそこに顔を向ける。
「タイミングよくやってきたわね」
「え?」
「……案内役か」
再び時間は数時間後へ。コンビニを出た二人の手には、それぞれペットボトルの飲み物が握られていた。
カガクが陽子の突拍子の無い提案に首を横に振らなかったのは、理由がある。それは彼女の、漣 テツに対する後ろめたさの感情であった。
『テツが何も言わないと思って、バカにしないで』
「……」
彼はまったくと言っていいほど感情を表に出さない。
だから彼が本当に怒っているのか、傷ついているのか、何もわからない。
ただそれでも、リリーの言葉がトゲの様にカガクの心をチクリと痛ませ続けていた。
自分はどこかで彼のことを蔑んでいたのか?
カガクは仏頂面を浮かべながら、自分の思いを肯定しようとしていた。
それでいい!もともとこいつは私のことなんかどうとも思っていないはずなんだ!
『俺はあなたと陽子を守るために戦いたい』
その出口も塞いでしまう、彼自身の言葉。
そしてカガクは、自分がいちいちこんなくだらないことで悩んでしまっていることにさらに自己嫌悪を感じていた。
ふと、隣のテツが立ち止まった。
遅れてカガクも立ち止まり、彼の顔をいぶかしげに見上げた。彼は視線を足元に向け、腰を曲げた。
彼は自らの足に貼り付くように飛ばされてきた一枚のビラを手に取った。
「これは?」
「…人探しのビラ、みたいね」
カガクはその写真に眼を剥いた。慌ててテツの手からビラを奪い取り、まじまじと眺めた。
「辿子…!」
「知っているのか?」
「うん…幼馴染だったの」
現に漣家のすぐ近くに、この京葉 辿子の家は存在している。
カガクは彼女の家族と、昔は親交があった。
彼女と辿子は親友といってもいいほど仲がよかった。
その繋がりが消えたのは彼女たちのもう一人の幼馴染が引き起こした殺人事件によるものであった。
カガクがその事件がきっかけでもう一人の幼馴染と一切の関係を断ち切ったのに対し、辿子だけは親に反対されようが、変わらずその彼と親交を続けていた。それを知ったカガクは彼女が信じられなくなり、次第に二人は疎遠になっていった。
カガク自身も最後に会話をしたのは何時ごろのことだったかすら覚えていない。
中学も別々の場所へ進み、高校が同じになったが、カガクは話す気にもならなかった。
辿子のほうが何を思っていたのかは知らないが。
「……ねぇ、ちょっと手伝って」
「何を」
「この娘を探すのを。どうせ暇なんでしょ?」
「ああ。わかった」
「じゃあ着いて来て。ほら」
「何処に向かうんだ」
「この子の家!」
カガクの記憶の中の場所が変化していなければ、今も辿子の家は同じ場所にあるはずである。
表札に『京葉』と記された、立派な一軒家の扉が開くのを待つカガクとテツ。
カガクがインターホンを押してからしばらく、突然に扉が開いた。
「お姉ちゃん!?」
「あ……」
「……ぁ、ごめんなさい……」
中から飛び出してきたのは、小学生ほどの女の子で、一目見て可愛いと言える目の大きな可憐な顔立ちをしていた。人違いだと気づいたのか、表情は次第に曇っていく。
そして彼女に、カガクは懐かしい感情を抱いていた。
「菜々(なな)ちゃん?…大きくなったね」
「え…?……あ…カガク…さん」
『カガク、絵本読んで!』
『うん、いいよ。さ、座って座って』
彼女は京葉 菜々(なな)。京葉 辿子の妹である。
カガクは菜々の言葉を聞いて、少し悲しくなった。
辿子には一人の妹が居て、よく彼女と遊ぶときに、こっそり様子を伺いに来たものだ。
その妹、菜々はカガクが大好きで、よく遊んでもらったので懐いていた。カガク、と呼び捨てにするほどに。
カガクと辿子の親交が途絶えてからは、当然のことながらカガクと菜々の親交も消えうせてしまっている。その隔たりは5年という長い時間。菜々は5歳から10歳になり、カガクも10歳から15歳になっていた。容姿も、性格もきっと、昔とは違うのだろう。
「お前は辿子の妹だな」
横からぬぅっと現れた見知らぬ緑目の少年、テツに恐怖を覚えたのか、菜々は僅かに後ずさった。
「静かにしててって言ったでしょ!?」
菜々はその少年が握る一枚のビラを見た。その瞬間、彼女の表情がゆがんだ。
「菜々ちゃん?」
「あのっ…お姉ちゃん、見ませんでしたか!?行方不明になって、もう2週間も帰ってなくて…ケータイも繋がらなくて」
だんだん声が震える菜々の後ろから、一人の陽子と同年代ほどの、疲れだろうか隈の走るくぼんだ目をした女性が現れた。
「どうしたの、菜々。お客様?」
「あ……おばさん」
その女性はカガクを一目見ると、表情をやわらかくした。彼女は辿子と菜々の母親、綾である。
「あら…まぁ、久しぶり。大きくなったわね」
「はい、ご無沙汰しています…それで、あの」
彼女は、カガクの隣で見知らぬ少年が広げて眺めているビラを見てカガクの用件を悟った。
「…家の子、二週間前から帰ってこないの。カガクちゃん、知らないかしら」
「あの…ごめんなさい。さっき知ったばかりで、心当たりも全く…」
その言葉にあからさまに落胆した菜々は、肩を落として家の中に戻っていった。
「そう…いえ、ごめんなさい、ありがとう。うちのお父さん、警察官だから。すぐに見つかると思ったんだけど…」
「おばさん、その…何て言ったらいいのか、わからないけど…」
「ありがとう、カガクちゃん。昔からあなたは優しい子だったわね」
照れてしまうカガクの隣、二人の会話を眺めていたテツが口を挟んだ。
「京葉 辿子に関して何か情報は無いのか?」
「あなたは…?」
「漣 テツ」
「あ、その、遠い親戚っていうか、…祖父の、知り合いの…いや、その」
しどろもどろどうにか説明しようとするカガクをじっと見つめるテツの様子を目の当たりにして、それ以上の言及は無かった。
「そう…実はね、最後にあの子を目撃された方の話によると、梅木くんみたいな人が傍にいたって…」
「!」
綾の言葉に、カガクの表情が一変した。
「梅木?」
「……やっぱり、無理にでもあの子を遠ざけておくべきだったのかしら。こんなことになるなんて…」
「……」
「誰だ」
「ちょっと黙って」
「…ごめんなさい、愚痴っぽくなっちゃって。カガクちゃん、何か気になることがあったら、どんなことでも伝えてくれる?」
「はい、私のほうでも、探してみます…それじゃあ。おばさん、菜々ちゃんにも、その、元気を出してください」
「ありがとう…本当にありがとう」
綾は微かなため息を一つ吐いて、家の中に戻った。
そんな彼女を迎えた、痩せ型の中年の男性。丸い眼鏡をかけた、目つきの鋭い男だった。
「誰が来たんだ?」
「ほら、昔辿子とよく遊んでた、漣さんのカガクちゃん」
「!……」
「あなた…どうかしたの?」
「どうもせん」
男は多くを語ろうとせず、2階へと上っていく。綾は今度は深々とため息を吐いた。
男の姿は書斎にあった。彼の日課は一日に数分でも数時間でも机に向かい、何らかの本を読むことであった。その彼は今机に向かい本を読むのではなく、一枚の写真を眺めていた。それは家族4人で撮った写真だった。男と綾、夫婦の二人を挟むように、辿子と菜々が満面の笑みを向けている。
「辿子……お前のことを思えばこそ……」
彼は京葉 辿子の父親、京葉 守。彼は警察官である。無論、骨の髄までそうという訳ではない。
先を行くカガクは早足に歩き続けていた。
「梅木は私と辿子、3人で幼馴染だった。それだけ」
「その梅木は辿子に会っていたということだな。誘拐されたにせよ殺されたにせよ、関係がありそうだ」
振り返ってテツを睨みつけるカガク。むき出しの感情が彼女の顔に表れていた。
「……辿子はね、明るくて、優しくて!誘拐とか殺されたりなんかされるような子じゃ…!」
「明るくても優しくても誘拐も死ぬことも可能だ」
無機質なテツに激昂したカガクは平手でテツの頬を張った。しかし身体が鉄で出来ているテツには効果があるはずも無い。代わりに激痛がカガクの手のひらを縦横無尽に駆け巡っていく。
「……」
力を込めすぎたと実感したカガクは後悔の中テツの動向を見守ったが、張られた側の頬を僅かに赤くしたテツは涼しい顔だった。
「すまない。また気に障る言い方をしたようだ」
「……、こっちもごめん、イライラしてるだけだから」
気持ちがまとまらないカガクは感情に任せてテツを殴りつけたことを悔やんだが、テツは何もおきなかったような顔で、
「その梅木の家の位置はわかるか?」
「わからない!…ちょっと前に引っ越したきりだもん」
「そうか。なら引っ越す前の家は」
「それなら、わかるけど…今は別の人が住んでるかも知れないけど」
「それと、手は大丈夫か」
「……心配ない」
二人は梅木の住んでいたマンションの前までやってきた。7階建ての古いマンションの一室が彼の実家だという。
「ここか」
「…ここの三階の、一番奥の部屋」
カガクの言葉に元気は無い。テツはその理由を聞こうとはしなかったが、彼はカガクの言葉の後、しばらく押し黙ったまま彼女の反応を待っているようだった。
「…何?」
聞き返すカガクの目を見るテツ。数秒後、カガクが目を逸らした。
「な、なんだって言ってんの」
「カガクはどうする。ここで待つか」
意図の外の言葉に一瞬呆然となったカガクは、すぐに反論しようとする強気の顔になったかと思うと、ふっと表情を消して俯いてしまった。
「…私は、ここで待ってる」
「そうか」
テツは一人ですたすたと歩いていった。カガクはその背中を視線だけが追い、身体はそばの植え込みに腰掛けていた。
(……気を使ったのかな。あいつ……まさか…ね)
そのことが何故か少し嬉しくなって、カガクは薄く微笑んだ。その笑顔もすぐに消えた。
テツは三階の一番奥の部屋まで足を運び、インターホンのボタンを押した。
電子音が響いた10秒ほど後、扉が静かに開いた。
「はい…」
「梅木を探している。ここは彼の実家なんだな」
「まさか…轍を?…あんたは?」
「俺はテツだ」
「…んん?」
中から出てきたのは、白髪交じりの恰幅のいい壮年の男性だった。怪訝な顔つきの彼の前に、テツが人探しのビラを突きつけた。
「梅木の友人の京葉 辿子が行方不明になっている。最後、この二人が一緒にいる姿が目撃されている。情報がほしい」
「…あ、あぁ。よく分かったよ。あんたの探してるのは、梅木 轍だな」
「俺と同じ名前だ」
「そうなのかい?」
男はポケットから煙草を取り出すと、太い指でその中の一本を咥えてドアの外まで出ると、ライターで火をつけた。煙を吐き出した後、男はテツに向き直った。
「俺は轍の伯父だ。轍の父親の兄貴だな」
「なるほど」
「結論から言うと…だ。俺は轍がどこに居るのかは知らん。あいつはずっと一人暮らしだ」
「そうなのか?」
「父親も母親も死んじまってるし、俺もこの部屋をずっと預かったまんまだし。助かってるけどよ…あいつが、またそんなことをやったのかい?」
「そうと決まったわけじゃないが。またというのは?」
「……」
その頃、階下では座って俯くカガクの下に、一人の純真そうな少年が現れた。
「あ、漣さん」
「ぁ……斉藤…君」
彼はカガクの同級生、斉藤 博。クラスで学級委員を務める、自他共に認める真面目な学生である。
「買い物の帰り?」
「……まぁ」
「そういえば、もうすぐ運動会だね。漣さんは何か出たい種目とかある?」
「……別に……」
カガクは小学校のある時期から、男子とだけ気軽に話せなくなってしまっていた。例外なく、『同年代の男』に恐怖を感じてしまうのだ。
そんな男子と会話をするとき、彼女は目もろくに合わせられない。女子と話すときの活発な姿とまるで違い終始俯いているため、昔の彼女を知らない男子などは彼女のことを気味悪がっていた。加えて、彼女の特異な名前がその感情に拍車をかけ、彼女に積極的に話しかける男子は彼女をからかうという目的以外ではほとんどいなかった。
しかしこの斉藤君、カガクを気味悪がることなどなかった。誰にでも分け隔てなく接しることが彼の特長だった。
彼は赤く腫れたカガクの右手を見て、仰天した。
「どうしたの、その手!?真っ赤だよ!」
「何でもない。ちょっと…」
「ちょっと待っててね。ここに僕の家があるんだ」
「あ、斉藤君。別に……」
カガクの制止を聞かず、彼はマンションの中に一目散に駆け出していった。
「はい、氷。握れる?」
「……う、うん」
カガクの右手の熱が氷によって冷えていく。カガクは心の中で、お礼を言わなければという心と、それにブレーキをかける心。二つがせめぎ合いになっていた。
「病院行った方がいいよ。かかりつけの病院、あるんだろ?」
「……うん」
心配そうにカガクを見おろしていた博の傍に、いつの間にか影ができていた。人型の影が博の頭上を覆っていた。
それに気が付いた博は、くるりと頭をそちらへ向けた。
―――感情の無い瞳が、真っ直ぐに見ていた。
「うわぁっ!?」
「テツ」
人形のような少年の突然の登場に心臓の音が余計に響く中、博はカガクが落ち着き払っていることに気が付いた。
「カガク、行こう」
「…もういいの?…その、梅木は、居たの?」
「居なかった。というよりここには住んでいない」
「そう…何処に行ったのかな、辿子」
「…君は?漣さんの知り合い?」
「俺は漣 テツ」
博はテツの言葉に出来ない迫力のようなものに圧倒されていた。
「さざなみ…って、苗字が同じ…親戚の人?」
「違う。だが彼女とは同棲している」
「どっ…!?」
「バカ!」
慌ててテツの肩を掴んだカガクがテツの顔を自分のほうに向けさせた。
「事実だろう」
「そりゃ、そうだけど!もうちょっと言い様ってあるでしょ!?」
「例えば?」
「うぐ…た、例えば……例えば……」
「他に無いんだな」
「考えてんの!」
カガクの表情がころころ変わり、博は彼自身が聞いたことも無いような大声のカガクを目の当たりにしていた。終始無表情の少年に食って掛かる彼女は、博にとって想像外の光景だった。
「もう質問が無いなら失礼する。行くぞ」
「あ、ちょっと…じゃあ、ありがとう…斉藤君」
「あ、う、うん。また…」
博は力なく手を振った。
「いい、今後私の知り合いの前では不用意に喋らないで」
「わかった」
「…ほんとに?」
「わかった」
遠ざかる二人の背中を見送って、博は自分の心臓が妙にドキドキしていることに気が付いた。
「あれが、漣さん…!?」
時として、ギャップは魅力の一つになり得る。
「その氷は?」
「さっきの人に貰ったの」
「そうなのか。痛むのか?」
「へぇー、心配してくれてんの?」
挑発的な態度でカガクがテツの顔を覗きこむが、彼の顔に目立った変化は無い。
それどころか、
「ああ」
彼があまりに自然に頷いたので、カガクは自分が恥ずかしくなった。
「そ、それは…ありがとう」
「カガク。梅木が過去に殺人事件を起こしたというのは本当か?」
「!……」
「カガク」
「知らない。どうだっていいじゃない」
「…そうか」
あえて追求してこないテツの態度に、カガクは僅かな疑問を感じたが、触れたくない話題のことだったので僥倖と見たようだ。
カガクの脳裏に過ぎるのは、過去の記憶。
そのときだった。彼女が、自分の幼馴染がどこかおかしいことに気が付いたのは。
むせ返るような暑い夏の日、入道雲のさらに上から、太陽の光が照り付けてくる。
私はそれを覚えている。私は…そう、幼馴染と、それから母と一緒に、市民プールからの帰り道を歩いていた。もう一人の、辿子は、その日は一緒に来られなかった。たしか親の用事で一緒に行かなくちゃいけないって言っていた。
私たちは細い路地を歩いていた。
母の力では対抗できず、バッグはあっさり引っ手繰られた。男はそのまま走り去っていった。
『お母さんのバッグ!轍、取り返して!』
私は隣の幼馴染が心の優しい、そして身体は同年代の誰よりも大きなことを知っていた。
『わかった』
『待ちなさい、危ないから!』
母の悲鳴にも似た叫びにも関わらず、梅木はその男を追いかけていった。
『大丈夫だよ、お母さん。あいつ滅茶苦茶強いんだから』
『すぐに交番に行って警察の人を呼んできて!』
母は私の言葉を聞かず、轍の後を追おうとした。しかし2,3歩も行かないうちにその場にうずくまってしまった。
『お母さん!足、怪我してるの?』
『だ、大丈夫…大丈夫よ』
私は母の必死な顔に、慌てて、梅木の後を追った。
曲がり角を曲がって、次の路地の交差点の中央に梅木が居た。さきほどのスリに馬乗りになっていた場面を私は見た。
『やった!さすが、て……』
幼馴染の名前を呼ぼうとして、私はそれができなかった。
梅木は固く握った拳を振り上げ、何度も何度もスリの男の顔面に振り下ろしていたから。
『た、たすけ……』
『黙れ』
梅木が何故そこまでしなければならなかったのか、私には……分からない。
数分後、近所の誰かが通報したのか駆けつけた警察官が梅木を止めた。
「離してくれ。カガクに、鞄を…鞄を」
警察官に羽交い絞めにされる彼の姿。それを呆然と眺めている自分の姿。血まみれの拳。その手に握られた、母のバッグ。横たわるスリの身体。ざわつく声。照りつける太陽。
引き鉄が何だったのか。
轍にそうさせたのは何だったのか。
カガクは今も答えを見つけようとしていない。
思慮の外に注意の向かないカガクは、二人の前方に立って軽く手を上げた男の存在に気が付かない。
「須見」
テツの声に思わず顔を上げたカガクの顔に、喜びの色が混じる。
「直人さん」
「おう」
須見はこちらまで歩いてくると、カガクの頭をくしゃくしゃに撫でた。
「お守りか?大変だなぁ、カガクも」
「まぁ…お守りと言うか」
「ん?なんだ、デートか。いいなぁ」
「ち、違うよ!!」
「あっはっは、冗談冗談」
けらけらと笑う須見は次にテツの頭を撫でようとして、怪訝な顔つきになりするすると手を引っ込めた。
「刺さりそうだからな…悪いな」
テツは口をつぐんだままぶんぶんと首を振った。須見はテツの口を指差しながら、
「ん?どした、火傷でもしてるのか?」
「いや、不用意に喋るなと彼女に言われた」
「へ?」
ぽかんとした須見とぽかんとさせたテツの間に滑り込むように、カガクが反論した。
「不用意に喋るなって言ったの!喋っちゃ駄目なんて言ってない!」
「あっはっは、不器用だな」
須見はカガクの隣まで歩を進め、テツと視線を合わせた。
「それにだ、女の子の言いなりじゃあかっこつかないぞ」
「かっこつけると得があるのか?」
「そりゃあ、ある。色んな女の子にモテたりする」
「な、直人さん!」
「わかった。喋ろう」
カガクが小さな声で、「えっ」と漏らした。
「須見はここで何を?」
「ん、いやな。こっちはデート相手に逃げられちまったところなんだ」
「デート相手…!?」
「お前らと同じだよ」
なにか言いたげに口をパクパクさせるカガクの顔に笑みをこらえきれない須見は、続けてこう話し出した。
「にしても、聞いたぜお前ら。人探ししてるんだって?どんな奴なんだ?」
「あ、うん。この」
テツが広げて見せた一枚のビラをまじまじと眺める須見。
「京葉 辿子…か。しらねえなぁ」
「私の幼馴染…なの」
「…へぇ、そうなのか。でも、言っちゃあなんだけどな。お前らが探すよりは警察の人達に任せたほうが懸命だと思うんだ」
「……それは、そうだけど」
「変わってないな、カガク。優しいところは本当に」
カガクは俯いたままだったが、微かに首を振った。
「気持ちは分かる。けどさ、その為にお前が必死になって頑張っても結果は出そうに無いんじゃないかな」
「うん……」
「大丈夫、その子は無事だよ。あんまり確証無いことは言いたくねえけど、お前もそうやって信じてやらなくちゃ」
「……うん。きっとそれが一番なんだよね」
カガクは下を向いたまま先に歩いていく。それを見やった後、テツは須見の目をじっと見た。
「ん、どした?」
「何か隠していないか」
「…何でだよ?」
「意図的に俺達を遠ざけようとしているように感じる」
「さぁな。俺はただ単に、時間が勿体無いって思っただけさ」
「…そうか、わかった」
テツは先を行ったカガクの後ろへ足を伸ばす。その背中を見送って、須見は苦笑した。
「あの娘は自分より他人を優先するタイプに見えたが…誰かが何かを吹き込んだ、ってことになるか…?」
帰り道は二人で、夕暮れの道を帰路とする。隣を歩くテツを見上げたカガクは、軽く微笑んだ。
「今日は無駄につき合わせちゃったね」
「お互い様だ。気にしていない」
そのカガクの瞳を真っ直ぐに、テツは無表情に見た。
「そりゃ、そうだけど」
「それに、あなたが辿子を探したいという気持ちはよくわかった。だから協力した」
「……」
「具体的な成果は得られていない。申し訳なく思うことも無い」
理屈っぽいテツのいいように、笑みを消したカガクは憮然とした顔で責めるように言った。
「わかってる。でも、もうちょっと普通に話しなさいよ」
「これが俺の普通だが」
「…もういい!」
そっぽを向いたカガクの様子を見て、視線を前に戻したテツの口から零れた言葉。
「変えたほうがいいだろうか」
「……え?」
目を丸くしたカガクを見ようともせず、テツは歩いていく。
(……しかし。梅木 轍と京葉 辿子の失踪日、俺がこうして居る初めての日と同じ……)
偶然か、否か?
答えは無い。
「テツ…」
「何だ」
「……何でもない」
カガクはテツの僅かに揺れた感情に、反応した。カガクは聞き返さなかったが、テツの言葉は無機質な感覚を覚えさせるが、先ほどの言葉はいわば人間臭いのだ。カガクは自分でも分からないが、何故だか胸の中に晴れ晴れとした、爽快感、または意外な嬉しさといった感情を抱いていた。
その感情が顔に表れたのか、カガクは微かに笑っていた。そのカガクの顔を見て、テツが一言。
「なんだ、にやついているな」
「誰がにやついてんのよ!」
「漣さん」
二人の前に、自動販売機の前に立った落ち着いた印象を与える顔つきの、一人の少女が居た。彼女の傍らには一台の自転車が止まっていた。
「…あ、知里…!」
「その人、彼氏?」
カガクの顔が耳まで真っ赤に染まった様子を、隣のテツが無表情に観察している。
知里、とカガクに呼ばれたこの少女はくすくすと笑っている。
「知り合いか」
「同級生よ!黙ってて!」
肩ほどまで伸びた髪、カチューシャで広げた前髪、七草 知里。それが彼女の名前だ。
「そっかそっか、とうとう漣さんも男の子に対する免疫が付いてきたのね」
「ちっ、違う!そんなんじゃなくて、本当にこいつはただの親戚で」
「大丈夫大丈夫、私は口堅いほうなの」
何とか言い訳をしようとするカガクの言葉を変な方向へ解釈していく知里。思い込みの激しいタイプだ。
「やわらかそうに見えるが」
「黙っててって!」
「ふふ、面白い人ー。私 七草 知里。よろしくね」
「俺は漣 テツ」
「へぇー、同じ苗字なんだ」
知里はテツの顔を興味深げに眺めた。
それからテツとカガクの顔を数度見比べ、何か含んだような笑みを浮かべた。
「それじゃ、漣さん。また学校で」
素早く自転車にまたがると、知里は軽く地面を押した。自転車のスタンドがガチャンと音を立てて上がる。
「あ、ちょっと!知里…」
さっさと自転車は遠ざかっていく。それを追いきれないカガクの右手がわなわなと震えていた。
「…変な誤解が……」
「?」
いまいち状況の理解しきれないテツが首をかしげていると、涙目になりながら彼を睨んだカガク。
「あんたのせいよ!もう絶対あんたとは一緒に歩かない!」
「そうか。自由にしてくれ」
「この……」
まるで意に介さないテツはすたすたと歩いていった。カガクはなんだか自分がとても子供のような気がして悔しさに唇を噛んだ。彼女は大またにテツに近づくと、
「言っとくけど!本当に迷惑して」
「一緒に歩かないんだろう?」
「あ……も、もういいの!」
「そうか」
夕暮れの影は伸び、空は赤色から藍色へ。夜になっていく。
轍とカガクと辿子の3人の幼馴染。どう動くか…次回、お楽しみに。




