悪夢
地平線を埋め尽くす程の黒い影。それは、地面をこれでもかと揺らしながら近づいて来る。それは、魔物の大群であった。何万、いや、億に届くかもしれない数の魔物が、人類に総攻撃を掛けてきたのだ。
しかし、一部の者は知っている。これが、唯の魔物の暴走などではないことを。いや、今回だけでは無い。今まで、彼らはずっと騙され、踊らされていた事を。
「何故・・・何故だ!何故こんなことをする!」
黒髪と黒い瞳を持つ青年が、目の前に悠然と立つ女性に叫ぶ。蝶々の描かれた真っ赤な着物を着た、妖艶な美女だ。腰まで届く程に伸ばした黒髪は艷やかな光を放っており、胸は少し小さいが、それが着物にとてもよく似合っている。
しかし、彼は知っている。彼女が、とてつもなく邪悪な存在なのだということを。
男と女が対峙しているのは、大地の国サン・アペンロの首都、マルスの大聖堂であった。しかし、普段は厳粛な空気に満たされている筈の空間には、血臭が満ちていた。男の後方には、彼と共に戦ってきた仲間の無残な死体が散らばっている。腕は飛び、足は引きちぎられ、上半身と下半身が分離している者までいる。これを成したのが、目の前の美女だと一体誰が信じられるだろうか?
ドーン・・・と遠くで音が響く。魔物の咆哮、人々の怒号と悲鳴、それらが合わさり、国中に響いている。・・・いや、国中どころではない。この世界のもう一つの国である、海と空の国ブルー・アポロティスでも、同様の光景が見られるだろう。
「お前たちは、ずっと我々を騙していたのか!?下界で足掻く俺たちの姿を見て、嘲笑っていたのか!?」
男が叫びながら、黄金に輝く見事な意匠の剣を振りかざす。彼と女の距離は何メートルも開いているが、彼にとってそんなことは問題ではない。
「あああああああああああああ!」
男が地面に叩きつけた剣から、直視するのも難しい程に眩い光の奔流が女に向かって飛び出た。その光は大聖堂の地面を粉々に砕き、余波で周りの物を吹き飛ばしながら進む。それは、触れれば絶対に助からない死の刃。破壊のエネルギーの塊であった。
しかし・・・
「この程度か。」
女は、その光を止めた。何の力を使ったわけでもなく、唯の指一本で。全てを浄化し、破壊し尽くす光の刃は、その細い指に触れた瞬間、弾け飛んだのだ。そして、弾かれたそのエネルギーは、大聖堂を木っ端微塵に破壊していく。ガラガラと、瓦礫が落ちてくる中、男は女に首を締められ持ち上げられていた。
「この程度で我々・・・に挑もう等・・・わ。もう少し・・・を・・・・・・な。」
唐突に周囲の景色が歪んでいく。女が何を言っているのか判別出来なくなる。
「く・・・そが・・・。何時か・・・絶対に・・・・・・。」
空間が黒く塗り潰され、彼の意識が薄れていく。何故かと彼は考えようとして・・・
(そうか・・・これは夢だったのか・・・・・・)
それを自覚すると同時に、急速に浮遊する感覚に襲われた。
これは、彼の人生でたった一度の敗北の記憶。
彼の心を未だに縛り付けている、鎖である。
・・・・・・・・・
・・・・・・
・・・
「・・・・・・嫌な夢を見た・・・。」
廃村の中にあった馬小屋の干し草の上で目を覚ましたクロム。何時もは寝起きがいい彼だったが、今日は悪夢を見て魘されていたせいか、まだ頭がボンヤリとしている。
「今何時だ・・・?」
腕時計を見てみると、昼の3時を過ぎていた。完全に寝坊である。
人間離れしている彼だが、ベースが人間である以上は、睡眠もするし食事も摂る。しなかったからといって死ぬわけでは無いが、精神衛生的にも、したほうが良いのである。
昨日、というより、既に今日なのだが、吉井と話をして仲良くなったところで四谷兄妹に見つかり、何故か説教を受けたクロムは、釈然としないものを感じながらも眠気には勝てずにそのまま寝てしまったのである。この世界に来る前の世界で、殆ど睡眠を取っていなかったせいでもある。その世界は、この世界よりも危険な状態にあったため、睡眠を取る時間さえ無かったのだ。事実、後数分解決するのが遅ければその世界は崩壊していただろう。
さて、まだ続く眠気から、干し草の上でぼうっと座っていた彼だが、不意に彼の感覚に引っかかる多数の存在を感知した。それは、ここから約2キロ程離れた森の中。最初は獣の群れかと感じたが、それは間違いであった。
「これは・・・人間か。人数は50人ってところか。・・・強いな。」
研ぎ澄まされた殺気から、相当の手練だと判断する。普通の山賊などでは到底出せない殺気だ。
「軍隊・・・かな?」
となると、狙いは間違いなくレジスタンスの壊滅だろう。
「真也に知らせるか。」
彼は体に付いた干し草を落としながら外に出た。
「あ・・・・・・!」
クロムが真也達に教えようと外に出た瞬間、補足していた敵が動き始めた。これでは、レジスタンスを逃がしている暇など無い。
「おい。」
「は、はい?」
近くを通りかかった女性を呼び止めたクロムは
「すまんが、真也達に伝えてくれ。『敵が現れた。時間稼ぎはするので後宜しく』と。」
「は、はあ・・・?」
その女性は始め意味が分かっていないようだったが、その言葉を理解すると顔を青くして震え出した。
「じゃあ、ちゃんと伝えてくれよ!」
クロムはそう言って走り去るのだった。