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婚約破棄されたので、ソロハネムーンで聖地巡礼!学者先生と推し活することになりました。

作者: くみの
掲載日:2026/10/12

「エルナ、君との婚約を破棄する」


 応接間に、ジェラルドの声が無駄に堂々と響いた。


 隣には、やたらと派手なドレスの女性が立っている。胸元のリボンだけで、私の旅行鞄が三つは買えそうだ。


「紹介しよう。ロザリーだ。僕は真実の愛を見つけたんだよ」


「はあ」


「君は信心深いだけの、つまらない女だった。会えば聖女様の話ばかり。僕はもう、うんざりなんだ」


 ……聖女様の話ばかり、の部分は否定できない。事実だし。


 それより私の頭の中では、すでに計算が始まっていた。


 一方的な婚約破棄。つまり慰謝料。つまり、まとまった旅費。


 そして何より、結婚を待つ必要が、なくなった。


 私には前世の記憶がある。そこで遊んだ乙女ゲームの世界が、今のこの世界によく似ているのだ。そしてゲームの最推しは、攻略対象の誰でもなく、世界を救った伝説の聖女ルシア様だった。


 各地に残る聖女様ゆかりの神殿。いつか巡りたいと、ずっと思っていた。結婚して、新婚旅行という名目で、堂々と。


 その「結婚」が、今、なくなった。


「分かりました。婚約破棄、お受けします。慰謝料は書面にして、きちんとお支払いくださいね」


「……は?」


 ジェラルドが固まった。


「泣かないのか? すがりつくとか、考え直してくれとか……」


「泣く理由が見当たりません。むしろ」


 私は立ち上がり、できる限りの笑顔で言った。


「それでは、ソロハネムーンに出発です!」


「ソロ……ハネムーン……?」


 背後でジェラルドが何か言っていたけれど、もう私の耳には入らなかった。


 北の神殿からにしようか。いや、まずは近い順に。持っていく手帳は三冊で足りるかな。


* * *


 一つ目の神殿に着いて、私は固まった。


 ……小さい。


 ゲームでは、聖女像は真っ白な大理石の立派な像だった。ところが目の前にあるのは、風雨に洗われて角が取れた、素朴な石の像だ。顔立ちもぼんやりしている。


 しかも参拝客は、私一人。


 がっかり、は、しなかった。


 像の鼻先と手のひらだけが、つやつやと光っている。


 これは。


「何百年も、人に撫でられてきた跡だ……!」


 思わず声が出た。


 ゲームの立派な像より、ずっといい。この丸みは、聖女様がずっと人に愛されてきた証拠だ。私は手帳を取り出し、猛然と書きつけた。「角が取れている」「鼻先ぴかぴか」「愛されの跡」。


 そのまま三十分ほど拝み倒してから、少し離れた記念碑の方へ向かった。


 そこでは管理人のおじいさんが、箒を持ったまま目を丸くしていた。


「今どき、ここに来る人は珍しいねえ」


「そうなんですか? こんなに素敵な場所なのに!」


 私は身を乗り出した。


「あの、この碑の裏の彫り、ゲ……いえ、書物で読んだものとちょっと違うんです。いつからですか? それから、あの井戸も聖女様が使われたと聞きましたけど本当ですか? それと」


「お、おお、おお」


 おじいさんは最初は押され気味だったけれど、気づけば嬉しそうに笑っていた。


「そうかい、そんなに好きかい。ならいいことを教えてやろう。聖女様はな、この村に泊まった晩、子どもらに星の名前を聞いて回ったそうだよ。教科書にゃ載っとらん話だ」


 星の名前。


 かわいい。尊い。何それ、知らない。


 ゲームには、そんな話は一切なかったはずだ。


 私は手帳に「星の名前を聞いて回る」と書き、二重線を引いた。


「そういえば」


 おじいさんが思い出したように言う。


「毎年来る、眼鏡の先生がおってな。その人もずいぶん熱心じゃった」


 眼鏡の先生。聖女様の熱心なファンが、私のほかにもいる……?


 それは会ってみたい。


* * *


 その人に会えたのは、三つ目の神殿だった。


 霧の深い山あいの神殿で、聖女像の台座の前に、ぼさぼさ頭の男の人がしゃがみこんでいた。


 長い前髪、曇った眼鏡、袖口には墨の汚れ。


 研究者というより、徹夜明けの人だ。


 台座の下には、薄れた文字が彫られている。私も、同じ場所にしゃがんだ。


「あの」


「あの」


 声が重なった。


 お互いに「どうぞ」と手を出し合って、結局、彼の方が先に口を開いた。


「この台座の文字は、ほとんど読めなくなっているのです。ですが、おそらく」


「『この道の先に、誰かの朝がありますように』、ですよね?」


「……え?」


 男の人が、ぴたりと止まった。


「なぜ、読めるのですか。ここは摩耗が激しくて、私も復元に三年かかったのですが」


「えっ、あっ」


 しまった。ゲームで読んだ、とは言えない。


「む、昔、とある書物で読みまして」


「どの書物です? 題名は? 写本ですか、刊本ですか」


「えっと、その、古くて……もう手元になくて……」


 食いつきが、すごい。


 さっきまでぼんやりしていた眼鏡の奥の目が、ものすごい速さで輝いている。


 私は冷や汗をかきながら、話題の方向をそっと変えた。


「あの、この文言、ほかの神殿にもありますよね。場所ごとに少しずつ違う、聖女様の祈りの言葉。私、全部集めたくて」


「ご存知なのですか! 実はその祈りは、聖女が各地から王都へ送った手紙の末尾にも、同じように添えられていたのです」


「…………えっ」


 手紙。


 聖女様の、手紙。


「えっ、知らないです! 聖女様にそんなお話があったんですか!?」


 自分でも驚くほど大きな声が出た。霧の中で、声が反響した。


 彼は一瞬きょとんとして、それから、ふっと吹き出した。


「失礼。……ご存知なのは台座の文字だけで、手紙は初耳なのですね」


「はい! ぜひ! 詳しく! お願いします!」


「ユリウス・ハイネと申します。聖女の歴史を研究しています。よろしければ、立ち話ではなく、座ってお話ししませんか。お茶を淹れましょう」


 彼が案内してくれたのは、神殿の軒下だった。


 腰を下ろしたところで、私は気づいた。霧で、手帳がしっとり湿っている。


 あわてて袖で拭こうとすると、横からすっと布が差し出された。


「どうぞ。乾いています」


 先生の手ぬぐいだった。自分の鞄の口は、まだ開けてもいない。


「あ、ありがとうございます。でも先生のが濡れちゃいます」


「構いません。……書き込みが滲んでしまっては、もったいないですから」


 もったいない。聖女様の情報が、ということだろう。分かる。


 それから二時間、私たちは軒下で語り合った。


 私がゲームで知った聖女様のエピソードを話すと、彼は「それは一次資料にありませんが、方角と日付が一致する」と目を丸くした。彼が各地の記録から拾った話を教えてくれると、私は「それ、すごい!」と十回は言った。


 途中、私は何度か先生の話を遮って質問した。そのたびに、先生は話を止めて、きちんと答えてくれた。


 どんなに突飛な質問でも、「いい着眼点です」と笑う。


 途中でふと、彼が黙った。


「どうしました?」


「いえ。……私の研究の話を、こんなに楽しそうに聞いてくださる方は、初めてだったもので」


「え、だって面白いじゃないですか。聖女様のことですよ?」


「そう、ですね」


 ハイネ先生は、眼鏡を押し上げて、少しだけ笑った。


 前髪で表情が半分隠れているのに、なぜか、すごく嬉しそうなのは分かった。


 お茶が冷めかけているのに、彼は一口も飲んでいなかった。


 ……そんなに聖女様の話が好きなんだ。この人とは、絶対に気が合う。


 聖女様の話ができる人に出会えた。


 しかも、私の知らない聖女様を知っている人だ。


 これは、もう、ご一緒するしかない。


* * *


 それからの旅は、一人旅ではなくなった。


 手紙の末尾の祈りは、彼の集めた記録を合わせると、全部で十二通ぶん。私たちは、その手紙が書かれた土地を、順番に訪ねていくことにした。


 先生は、歩くのがちょっと速い人だった。研究者のくせに、と思っていたら、いつの間にか私の隣で歩幅を合わせてくれていた。


 坂道では、さりげなく荷物を持ってくれる。私が「自分で持てます!」と言うと、「では、半分だけ」と、絶妙に重い方を取っていく。


 ずるい、と思った。何がずるいのかは、よく分からなかったけれど。


 四つ目の町で、事件が起きた。


 星の形をした焼き菓子を、宿の女将さんに勧められたのだ。


「流星の夜に、願いを込めて食べるお菓子なんですよ。この辺りの昔からの風習でね」


 かじると、素朴なバターの味がした。


「おいしい……! 先生、これ、聖女様の時代からあるんでしょうか」


「記録では、少なくとも三百年前から。聖女が滞在した時期とも重なります」


 先生は研究手帳にさらさらと書きながら、焼き菓子をもう一つ手に取った。


「何を書いているんですか?」


「先日、あなたが神殿の管理人の方から聞いてきた、『星の名前』の話です。私の記録にはなかったので」


 のぞきこむと、そこには几帳面な文字で、こう書かれていた。


『聖女、村の子らに星の名を尋ねる(エルナ嬢による聞き取り)』


「えっ、私の名前が……!」


「当然です。あなたの発見ですから」


 先生は、何でもないことのように言った。


 私は、手帳に載ってしまった、と思って、なんだか急に背筋が伸びた。推しの資料に自分の名前が載るなんて、恐れ多い。


「流星の夜に、このお菓子をここで食べられたら素敵でしょうね」


 私は、つい、そう言っていた。


「聖女様の時代から続くお菓子を、流星を見ながら……。そんな推し活、最高じゃないですか」


「……そうですね」


 先生は、少し間を置いて、手帳の端に何かを書き足した。


 あとで気づいたことだけど、それは日付の欄の、さらに隅っこの、小さなメモ書きだった。


 私は焼き菓子を食べつつ、これまでの手紙の祈りを思い返す。


「この道の先に、誰かの朝がありますように」


「どの土地にも、温かな灯がともりますように」


「泣いている子が、今夜は眠れますように」


 どれも、聖女様らしい祈りだった。


「……ずっと思っていたんですけど」


 口に出してみた。


「聖女様の祈りって、全部、誰かのためですよね。自分のことを祈った言葉が、一つもないというか」


「ええ」


 先生が顔を上げた。


「ゲームでも、聖女様は『皆のために』って言うばかりで。自分のためには何も望まない人でした。私、それがちょっと」


「ゲーム?」


「しょ、書物で!」


 危ない。


 先生は不思議そうな顔をしたけれど、追及はしなかった。かわりに、静かに言った。


「……それが、少し寂しい、と?」


「寂しい、というか。聖女様にも、何か自分のための願いがあったらいいのに、って思っちゃうんです。余計なお世話ですけど」


「余計では、ありません」


 先生は、焼き菓子を持った手を止めて、言った。


「同じことを、私もずっと思っていました。……それを口に出して言ってくれた人は、あなたが初めてです」


 どきり、とした。


 いや、違う。聖女様のことで、同志を得た喜びの「どきり」だ。


「実は、最後の手紙だけ、少し毛色が違うのです。ただ、私が先に言葉で説明するより、まっさらな状態で読んでいただきたい」


「最後の手紙って、どこにあるんですか?」


「王都の文書館です」


「行きましょう! 今すぐ!」


「手紙は逃げませんし、文書館は閉館中です。まずは焼き菓子をお食べください」


 彼は穏やかに笑って、残りの焼き菓子を私の皿に載せた。


 ……なんだか、先生の分が減っている気がするんですけど。


* * *


 王都の文書館は、古い紙の匂いがした。


 閲覧室の机の上に、一通の手紙が置かれていた。聖女様が、自分の手で書いた手紙。


 白い手袋が、私の分だけ用意されていた。


「閲覧の申請は、あなたのお名前で出してあります。先に読めるように」


「えっ、いつの間に」


「焼き菓子の町で、あなたが『行きましょう』と言った時には、もう」


 ……この人、実は最初から私が行くと見越していたんだ。


 手袋をはめて、私は、手を膝の上でぎゅっと握って、のぞきこむ。


 先生は何も言わず、椅子を引いて、一歩下がった。


 先に読んでください、ということらしい。


 私は、手紙の最後の一文を、声に出さずに追った。


『流れる星の夜に、あなたと同じ空を見上げられたなら。それだけで、私は十分です』


 読み終えて、息を止めた。


 あなた。


 私。


 今までの祈りには、一度も出てこなかった言葉だ。


「先生」


「はい」


「これ、聖女様の、自分のための願いごとじゃないですか……!」


「ええ。ですが従来の解釈では、星は希望の比喩であり、『あなた』は遠くの民のことだとされてきました」


「比喩じゃないです! だって『流れる星の夜』って、日付つきの予定ですよ!」


 私は勢いよく先生を振り返った。


「流れ星の夜に、会いたい人と、同じ空を見る。これ、星降る丘の言い伝えです! 私の地元の!」


 先生が瞬きをした。


「星降る丘……。流星の夜に、愛する人と星を眺めれば、神の祝福を受けて願いが叶う、という」


「それです! 小さい頃から、おばあちゃんに聞かされていました。聖女様の時代からあるって。でも、まさか、聖女様ご本人の願いと繋がるなんて!」


 先生は少し黙って、それから、ゆっくり言った。


「地方の言い伝えは文献に残りにくく、私もこれまで、結びつけられませんでした。……あなたの知識と発想がなければ、気づけなかった」


「先生が手紙を見つけて、ずっと保存していてくれたからです!」


「いいえ。あなたが読んだから、分かったのです」


 ……なんだろう。


 先生の声が、ちょっと優しすぎる気がする。


 でも今は、それどころではなかった。


 聖女様は、世界を救うための旅の途中で、会いたい人がいた。


 好きな人と、星が見たかった。


 完璧な聖女様じゃなくて、ひとりの女の子としての、ささやかな、本当に小さな願い。


「……聖女様、かわいい」


「はい」


「めちゃくちゃ、かわいい」


「はい」


「教えてくださって、ありがとうございます。私、もっと好きになりました」


 先生は何か言いかけて、やめて、眼鏡を押し上げた。


 それから、小さな声で、独り言みたいに言った。


「……あなたが、そういう風に喜ぶ人で、よかった」


 え、と顔を上げたとき、先生はもう机の手紙を見ていた。


「流星の夜は、暦によれば、十日後です」


「十日後!? 準備しなきゃ! 毛布と、温かい飲み物と、あと双眼鏡と!」


 私は手帳を開いて、ものすごい勢いで買い物リストを書き始めた。


 隣で、先生が、小さく笑っている気配がした。


* * *


 星降る丘は、私の地元にある。


 なので、準備の買い出しは、久しぶりの地元の市場になった。


 毛布を二枚抱えて歩いていると、聞き覚えのある声に呼び止められた。


「エルナ?」


 ジェラルドだった。


 隣にはロザリーさんはいない。かわりに、少し疲れた顔をしている。


「ああ、こんにちは」


「……ずいぶん楽しそうだな。あれから、一人で旅をしていると聞いたが」


「はい、おかげさまで。慰謝料のお振り込み、ありがとうございました。おかげで神殿を十七か所、回れました」


 ジェラルドの顔が、わずかにひきつった。


 慰謝料と、それに絡む諸々のせいで、彼の周りの評判はあまり良くないらしい。……私が何かしたわけではない。


「相変わらず、古い言い伝えを追いかけているのか。そんなものに時間を使うなんて」


 彼の視線が、隣に立つ先生に移った。


「しかも、そんな見るからにみすぼらしい男と。君もずいぶんと落ちたものだな」


 先生は、何も言わなかった。


 その間、私は毛布の柄を見ていた。


 ここの店の毛布は、少し厚みが足りない気がする。もう一枚買うべきか。


「エルナ、聞いているのか」


「あ、はい。聞いていませんでした」


 そのとき、ふっと隣で動く気配がした。


 先生が私の腕から毛布を受け取って、片腕に抱え直した。


 それから、空いた手で眼鏡を外し、前髪を軽く払った。


 ……眼鏡、外して大丈夫なのかな。先生、手元のお茶も見えないくらい、目が悪いのに。


 先生の声は、いつもと同じように穏やかだった。


「彼女は、素敵な方ですが?」


「……は?」


「聖女の祈りの言葉を、石の摩耗した文字から言い当て、私が三年かけて見落とした手がかりを、半日で読み解いた方です」


 ジェラルドが口を開けたまま、先生の顔を見ている。


「あなたは、彼女の何を見ていたのでしょう。彼女が聖女の話をするとき、どんな顔をするかご存知でしたか? つまらない、と切り捨てたその時間が、どれほど価値のあるものか」


 先生の声は、最後まで静かだった。


「……私は、その時間のそばにいられることを、幸運だと思っています」


 周りの人が、ちらちらこちらを見ている。


 ジェラルドは、何か言い返そうとして、結局何も言えず、口をぱくぱくさせていた。


 私はといえば。


「先生、眼鏡、かけた方がいいんじゃないですか? 見えにくいでしょう」


 先生が、なぜか「……はい」と小さく言って、眼鏡をかけ直した。耳が、ほんのり赤い気がする。風邪かな。


 それより私には、もっと大事なことがあった。


「先生! 流星の日に、星を見に行きましょう!」


「……はい?」


「聖女様が見たかった星を、私たちも見られるんですよ! 毛布は、あと一枚買い足します!」


 ジェラルドが「え? あ?」と、行き場をなくした声を上げている。


 ごめんなさい、今、毛布の厚みの方が大事なんです。


 先生が、毛布の店の方へ私の背中を軽く押してくれた。


「では、買い物に参りましょうか。毛布は、私が持ちます」


 その声が、なんだかとても機嫌が良さそうだった。


* * *


 流星の夜。


 私は、持てるだけの荷物を抱えて、星降る丘の頂上に立っていた。


 毛布が三枚。保温水筒が二本。双眼鏡。手帳。予備の手帳。そして、聖女様の絵姿を小さく刺繍した、手作りのクッション。


「……戦に行くのですか?」


 遅れて丘を登ってきた先生が、荷物の山を見て苦笑した。


「失礼な。完全装備です」


「失礼しました。……クッションは、聖女の絵姿ですか」


「はい。座り心地は保証します」


 先生にも一つ渡すと、彼は大真面目にお礼を言って、クッションの上に正座した。


 私は、そこでふと気づいた。


「先生、今日は、寝癖が少ないですね」


「……そうでしょうか」


 前髪は、いつもよりきちんと整えられている。眼鏡も、磨いたのかよく光っている。


 でも、それだけだ。うん、いい日だ。流星の日に寝癖が少ないのは、縁起がいい。


「それから、これを」


 先生が差し出したのは、小さな紙の包みだった。


 開けると、星の形の焼き菓子が、二つ。


「あっ、あの町の!」


「宿の女将さんに、頼んでおきました。……流星の夜に、ここで食べたいと、あなたが言っていたので」


 私は、焼き菓子と先生を見比べた。


 覚えててくれたんだ。


 あんな、何気ない一言を。


「先生、天才ですか……! 推し活のプロですか……!」


「大げさです」


「大げさじゃないです! 聖女様の時代からのお菓子を、聖女様が見たかった星の下で! 最高です!」


 私が両手でお菓子を掲げると、先生は、眼鏡の奥で目を細めた。


 ……先生、今日はよく笑うなあ。


 二人で並んで、毛布にくるまった。


 風が少し強くて、先生は、さりげなく風上の側に座り直してくれた。


 おかげで、私のところだけ、風がほとんど来ない。


「寒くはありませんか」


「大丈夫です! 毛布、三枚あるので!」


「そうでしたね」


 空は、よく晴れていた。


 星が、いくつも、数えきれないほど、頭の上に並んでいる。


「聖女様も、ここに来たかったんですよね」


「ええ。この丘のことは、おそらく、旅の途中で聞いたのでしょう。例の、星の名前を子どもたちに聞いて回ったという逸話も、きっとその頃です」


「あっ、そうか。あれも星の話ですもんね! 先生、すごい、全部繋がってる」


「あなたが、おじいさんから聞いてきた話です」


「えへへ」


 小声で、そんな話をしながら、流星を待った。


 焼き菓子を食べて、温かいお茶を飲んで。聖女様が好きだった花の話や、子どもたちに歌った子守唄の話。


 先生は、私の話を、星を見るのも忘れたみたいに聞いていた。


 しばらくして、会話が途切れた。


 丘の上は静かで、風の音だけがした。


 先生がぽつりと言った。


「聖女もきっと、こうして好きな人と星を眺めたかったのでしょうね」


 先生は、空を見たままだった。


 声が、いつもより少し低くて、静かだった。


「そうですよね! 聖女様、絶対そうだったと思います!」


「流星の日を指定しているんですよ?」


 先生が続けた。


「とても好きな人に決まっています」


 ……そう言ったあと、先生は何も言わなかった。


 私も、何も言えなくなった。


 聖女様の話だ。当たり前だ。


 聖女様は、好きな人と星が見たかった。


 とても好きな人と、同じ空を。


 好きな人と、星を見るって。


 どんな気持ちなんだろう。


 私は、そんなこと、一度も考えたことがなかった。


 ジェラルドとは、一緒に星を見たことなんて、なかったし。


 ふと、隣を見る。


 先生が、空を見上げている。


 横顔の、前髪の隙間から、まっすぐな鼻筋が見えた。星明かりに、眼鏡のふちが光っている。


 いつもと同じ距離。いつもと同じ、毛布のはしっこと、クッション。


 それなのに、なんだか、さっきより、少しだけ近い気がする。


 ……あれ。


 寒いのかな。


 毛布、足りなかったかな。三枚あるのに?


 私が毛布の端をぎゅっと握りしめたとき、空の端で、ぱっと光が走った。


「あっ」


 流れ星だ。


 一つ、二つ、三つ。


 銀色の線が、空を斜めに裂いていく。


 聖女様。


 私、いま、あなたが見たかった景色を見ています。


 きっとあなたも、この空の下で、誰かを思っていたんですよね。


 世界を救うために、必死で旅をしながら、それでも、ほんの少しだけ。


 願い事をするのも忘れて、私は夢中で空を見上げた。


 流れ星が、また一つ流れた。


「先生、見ましたか! 今の大きかった!」


「……ええ。見ていました」


 振り向くと、先生は、さっきから空ではなく、こちらを向いていた気がした。


 目が合った。


 先生は、ゆっくり、空に視線を戻した。


「……ちゃんと、見ていましたよ」


「ですよね! すごかったですよね!」


 私は、また空に向き直った。


 でも、さっき、先生と目が合ったところが、なんだか、じんわり熱い。


 ……焼き菓子のお茶が、熱かったせいだ。


 今は、星の方が大事だ。


 ……たぶん。


* * *


 翌朝。


 丘のふもとの停留所で、私は欠伸を噛み殺していた。


 一晩中、起きていたのだ。眠いけれど、気分はこれ以上ないくらい良かった。


「先生、昨夜の流星、全部で何個数えましたか? 私、四十一個まで数えたところで、記憶が」


「四十七です」


「負けた!」


「あなたが途中で寝落ちされたので、不戦勝です」


「寝てません! 目を閉じて、味わっていただけです!」


 先生が笑った。


「それに」


 先生は、ふっと目を細めた。


「あなたが眠そうに目を閉じたあと、私の肩に毛布が落ちかけていたので、かけ直しておきました」


「えっ」


 気づいたら、私の肩の毛布が、きちんと襟元まで引き上げられていた。


 いつの間に。


「……ありがとうございます。あの、寝てはいないんですけど」


「はい。味わっておられました」


 笑いをこらえている。この人、意外といい性格をしている。


 しばらくして、先生は、少しだけ改まった声で言った。


「……エルナさん」


「はい?」


「また、私と旅をしていただけますか?」


 先生は、前髪の奥で、じっとこちらを見ていた。


 私は目をぱちぱちさせて、それから、ぱあっと顔が明るくなるのを自分で感じた。


「もちろんです! まだ調べたい神殿が、たくさんありますもの!」


 やった。聖女様の研究を、これからも一緒に続けられる。


 それなら、旅はまだまだ続くんだ。


「聖女様が最後に訪れた北の神殿は、まだ行っていませんし。それから、南の港町の記念碑も。あっ、あと、先生の持っている十二通目の写しも、もう一度じっくり見たいです!」


「ええ。それも、全部」


 先生は、少し笑ってから、静かに言った。


「エルナさんに見せたいものが、たくさんあるんです」


 歴史も、場所も、まだ誰にも話していない発見も。


 そう言った先生の前髪を、朝の風が、ふわりと持ち上げた。


 眼鏡の奥の目が、まっすぐ、私を見ている。


 いつもは前髪に隠れている目が、朝の光の中で、ものすごく優しい色をしていた。


 胸の奥が、ほんの少しだけ、跳ねた。


 ……え?


 いや、研究のことだ。


 聖女様の、まだ見ぬ聖地のことだ。


 きっと、そうだ。


「楽しみです! 次は、北の神殿ですよね!」


「……はい」


 先生は、ほんの少し困ったように笑った。


 どうして困っているのだろう。


 北の神殿が遠いからかな。防寒具をもっと買い足さないと。


「北は、雪が深いですよ。防寒具は、私が見立てましょう。あなたの好きな色は、覚えていますから」


「えっ。私、好きな色の話、しましたっけ?」


「……三つ目の神殿で。手帳の表紙の色を、聞いたときに」


 言った気がする。


 でも、そんな、ずっと前の話を。


 停留所に、馬車がやってきた。


 荷物を持ち上げようとすると、先生が先に、私のクッションと毛布を抱え上げた。


「半分、持ちます」


「いつも半分って言いながら、重い方を持っていきますよね」


「気のせいです」


 絶対、気のせいじゃない。


 馬車に乗り込みながら、私は昨夜の流れ星のことを、もう一度思い出す。


 聖女様のこと。


 先生のこと。


 隣で見た、あの空のこと。


 まだ、胸の奥が、少しだけ落ち着かない。


 きっと、寝不足のせいだ。


 ……たぶん。


 でも、私の後ろから乗り込んでくる先生の気配を感じながら、私は思った。


 次の旅も、きっと、楽しい。


 聖女様のことと、それから、この人と。


 一緒に見られる景色が、たくさんあるといいな、と。

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