婚約破棄されたので、ソロハネムーンで聖地巡礼!学者先生と推し活することになりました。
「エルナ、君との婚約を破棄する」
応接間に、ジェラルドの声が無駄に堂々と響いた。
隣には、やたらと派手なドレスの女性が立っている。胸元のリボンだけで、私の旅行鞄が三つは買えそうだ。
「紹介しよう。ロザリーだ。僕は真実の愛を見つけたんだよ」
「はあ」
「君は信心深いだけの、つまらない女だった。会えば聖女様の話ばかり。僕はもう、うんざりなんだ」
……聖女様の話ばかり、の部分は否定できない。事実だし。
それより私の頭の中では、すでに計算が始まっていた。
一方的な婚約破棄。つまり慰謝料。つまり、まとまった旅費。
そして何より、結婚を待つ必要が、なくなった。
私には前世の記憶がある。そこで遊んだ乙女ゲームの世界が、今のこの世界によく似ているのだ。そしてゲームの最推しは、攻略対象の誰でもなく、世界を救った伝説の聖女ルシア様だった。
各地に残る聖女様ゆかりの神殿。いつか巡りたいと、ずっと思っていた。結婚して、新婚旅行という名目で、堂々と。
その「結婚」が、今、なくなった。
「分かりました。婚約破棄、お受けします。慰謝料は書面にして、きちんとお支払いくださいね」
「……は?」
ジェラルドが固まった。
「泣かないのか? すがりつくとか、考え直してくれとか……」
「泣く理由が見当たりません。むしろ」
私は立ち上がり、できる限りの笑顔で言った。
「それでは、ソロハネムーンに出発です!」
「ソロ……ハネムーン……?」
背後でジェラルドが何か言っていたけれど、もう私の耳には入らなかった。
北の神殿からにしようか。いや、まずは近い順に。持っていく手帳は三冊で足りるかな。
* * *
一つ目の神殿に着いて、私は固まった。
……小さい。
ゲームでは、聖女像は真っ白な大理石の立派な像だった。ところが目の前にあるのは、風雨に洗われて角が取れた、素朴な石の像だ。顔立ちもぼんやりしている。
しかも参拝客は、私一人。
がっかり、は、しなかった。
像の鼻先と手のひらだけが、つやつやと光っている。
これは。
「何百年も、人に撫でられてきた跡だ……!」
思わず声が出た。
ゲームの立派な像より、ずっといい。この丸みは、聖女様がずっと人に愛されてきた証拠だ。私は手帳を取り出し、猛然と書きつけた。「角が取れている」「鼻先ぴかぴか」「愛されの跡」。
そのまま三十分ほど拝み倒してから、少し離れた記念碑の方へ向かった。
そこでは管理人のおじいさんが、箒を持ったまま目を丸くしていた。
「今どき、ここに来る人は珍しいねえ」
「そうなんですか? こんなに素敵な場所なのに!」
私は身を乗り出した。
「あの、この碑の裏の彫り、ゲ……いえ、書物で読んだものとちょっと違うんです。いつからですか? それから、あの井戸も聖女様が使われたと聞きましたけど本当ですか? それと」
「お、おお、おお」
おじいさんは最初は押され気味だったけれど、気づけば嬉しそうに笑っていた。
「そうかい、そんなに好きかい。ならいいことを教えてやろう。聖女様はな、この村に泊まった晩、子どもらに星の名前を聞いて回ったそうだよ。教科書にゃ載っとらん話だ」
星の名前。
かわいい。尊い。何それ、知らない。
ゲームには、そんな話は一切なかったはずだ。
私は手帳に「星の名前を聞いて回る」と書き、二重線を引いた。
「そういえば」
おじいさんが思い出したように言う。
「毎年来る、眼鏡の先生がおってな。その人もずいぶん熱心じゃった」
眼鏡の先生。聖女様の熱心なファンが、私のほかにもいる……?
それは会ってみたい。
* * *
その人に会えたのは、三つ目の神殿だった。
霧の深い山あいの神殿で、聖女像の台座の前に、ぼさぼさ頭の男の人がしゃがみこんでいた。
長い前髪、曇った眼鏡、袖口には墨の汚れ。
研究者というより、徹夜明けの人だ。
台座の下には、薄れた文字が彫られている。私も、同じ場所にしゃがんだ。
「あの」
「あの」
声が重なった。
お互いに「どうぞ」と手を出し合って、結局、彼の方が先に口を開いた。
「この台座の文字は、ほとんど読めなくなっているのです。ですが、おそらく」
「『この道の先に、誰かの朝がありますように』、ですよね?」
「……え?」
男の人が、ぴたりと止まった。
「なぜ、読めるのですか。ここは摩耗が激しくて、私も復元に三年かかったのですが」
「えっ、あっ」
しまった。ゲームで読んだ、とは言えない。
「む、昔、とある書物で読みまして」
「どの書物です? 題名は? 写本ですか、刊本ですか」
「えっと、その、古くて……もう手元になくて……」
食いつきが、すごい。
さっきまでぼんやりしていた眼鏡の奥の目が、ものすごい速さで輝いている。
私は冷や汗をかきながら、話題の方向をそっと変えた。
「あの、この文言、ほかの神殿にもありますよね。場所ごとに少しずつ違う、聖女様の祈りの言葉。私、全部集めたくて」
「ご存知なのですか! 実はその祈りは、聖女が各地から王都へ送った手紙の末尾にも、同じように添えられていたのです」
「…………えっ」
手紙。
聖女様の、手紙。
「えっ、知らないです! 聖女様にそんなお話があったんですか!?」
自分でも驚くほど大きな声が出た。霧の中で、声が反響した。
彼は一瞬きょとんとして、それから、ふっと吹き出した。
「失礼。……ご存知なのは台座の文字だけで、手紙は初耳なのですね」
「はい! ぜひ! 詳しく! お願いします!」
「ユリウス・ハイネと申します。聖女の歴史を研究しています。よろしければ、立ち話ではなく、座ってお話ししませんか。お茶を淹れましょう」
彼が案内してくれたのは、神殿の軒下だった。
腰を下ろしたところで、私は気づいた。霧で、手帳がしっとり湿っている。
あわてて袖で拭こうとすると、横からすっと布が差し出された。
「どうぞ。乾いています」
先生の手ぬぐいだった。自分の鞄の口は、まだ開けてもいない。
「あ、ありがとうございます。でも先生のが濡れちゃいます」
「構いません。……書き込みが滲んでしまっては、もったいないですから」
もったいない。聖女様の情報が、ということだろう。分かる。
それから二時間、私たちは軒下で語り合った。
私がゲームで知った聖女様のエピソードを話すと、彼は「それは一次資料にありませんが、方角と日付が一致する」と目を丸くした。彼が各地の記録から拾った話を教えてくれると、私は「それ、すごい!」と十回は言った。
途中、私は何度か先生の話を遮って質問した。そのたびに、先生は話を止めて、きちんと答えてくれた。
どんなに突飛な質問でも、「いい着眼点です」と笑う。
途中でふと、彼が黙った。
「どうしました?」
「いえ。……私の研究の話を、こんなに楽しそうに聞いてくださる方は、初めてだったもので」
「え、だって面白いじゃないですか。聖女様のことですよ?」
「そう、ですね」
ハイネ先生は、眼鏡を押し上げて、少しだけ笑った。
前髪で表情が半分隠れているのに、なぜか、すごく嬉しそうなのは分かった。
お茶が冷めかけているのに、彼は一口も飲んでいなかった。
……そんなに聖女様の話が好きなんだ。この人とは、絶対に気が合う。
聖女様の話ができる人に出会えた。
しかも、私の知らない聖女様を知っている人だ。
これは、もう、ご一緒するしかない。
* * *
それからの旅は、一人旅ではなくなった。
手紙の末尾の祈りは、彼の集めた記録を合わせると、全部で十二通ぶん。私たちは、その手紙が書かれた土地を、順番に訪ねていくことにした。
先生は、歩くのがちょっと速い人だった。研究者のくせに、と思っていたら、いつの間にか私の隣で歩幅を合わせてくれていた。
坂道では、さりげなく荷物を持ってくれる。私が「自分で持てます!」と言うと、「では、半分だけ」と、絶妙に重い方を取っていく。
ずるい、と思った。何がずるいのかは、よく分からなかったけれど。
四つ目の町で、事件が起きた。
星の形をした焼き菓子を、宿の女将さんに勧められたのだ。
「流星の夜に、願いを込めて食べるお菓子なんですよ。この辺りの昔からの風習でね」
かじると、素朴なバターの味がした。
「おいしい……! 先生、これ、聖女様の時代からあるんでしょうか」
「記録では、少なくとも三百年前から。聖女が滞在した時期とも重なります」
先生は研究手帳にさらさらと書きながら、焼き菓子をもう一つ手に取った。
「何を書いているんですか?」
「先日、あなたが神殿の管理人の方から聞いてきた、『星の名前』の話です。私の記録にはなかったので」
のぞきこむと、そこには几帳面な文字で、こう書かれていた。
『聖女、村の子らに星の名を尋ねる(エルナ嬢による聞き取り)』
「えっ、私の名前が……!」
「当然です。あなたの発見ですから」
先生は、何でもないことのように言った。
私は、手帳に載ってしまった、と思って、なんだか急に背筋が伸びた。推しの資料に自分の名前が載るなんて、恐れ多い。
「流星の夜に、このお菓子をここで食べられたら素敵でしょうね」
私は、つい、そう言っていた。
「聖女様の時代から続くお菓子を、流星を見ながら……。そんな推し活、最高じゃないですか」
「……そうですね」
先生は、少し間を置いて、手帳の端に何かを書き足した。
あとで気づいたことだけど、それは日付の欄の、さらに隅っこの、小さなメモ書きだった。
私は焼き菓子を食べつつ、これまでの手紙の祈りを思い返す。
「この道の先に、誰かの朝がありますように」
「どの土地にも、温かな灯がともりますように」
「泣いている子が、今夜は眠れますように」
どれも、聖女様らしい祈りだった。
「……ずっと思っていたんですけど」
口に出してみた。
「聖女様の祈りって、全部、誰かのためですよね。自分のことを祈った言葉が、一つもないというか」
「ええ」
先生が顔を上げた。
「ゲームでも、聖女様は『皆のために』って言うばかりで。自分のためには何も望まない人でした。私、それがちょっと」
「ゲーム?」
「しょ、書物で!」
危ない。
先生は不思議そうな顔をしたけれど、追及はしなかった。かわりに、静かに言った。
「……それが、少し寂しい、と?」
「寂しい、というか。聖女様にも、何か自分のための願いがあったらいいのに、って思っちゃうんです。余計なお世話ですけど」
「余計では、ありません」
先生は、焼き菓子を持った手を止めて、言った。
「同じことを、私もずっと思っていました。……それを口に出して言ってくれた人は、あなたが初めてです」
どきり、とした。
いや、違う。聖女様のことで、同志を得た喜びの「どきり」だ。
「実は、最後の手紙だけ、少し毛色が違うのです。ただ、私が先に言葉で説明するより、まっさらな状態で読んでいただきたい」
「最後の手紙って、どこにあるんですか?」
「王都の文書館です」
「行きましょう! 今すぐ!」
「手紙は逃げませんし、文書館は閉館中です。まずは焼き菓子をお食べください」
彼は穏やかに笑って、残りの焼き菓子を私の皿に載せた。
……なんだか、先生の分が減っている気がするんですけど。
* * *
王都の文書館は、古い紙の匂いがした。
閲覧室の机の上に、一通の手紙が置かれていた。聖女様が、自分の手で書いた手紙。
白い手袋が、私の分だけ用意されていた。
「閲覧の申請は、あなたのお名前で出してあります。先に読めるように」
「えっ、いつの間に」
「焼き菓子の町で、あなたが『行きましょう』と言った時には、もう」
……この人、実は最初から私が行くと見越していたんだ。
手袋をはめて、私は、手を膝の上でぎゅっと握って、のぞきこむ。
先生は何も言わず、椅子を引いて、一歩下がった。
先に読んでください、ということらしい。
私は、手紙の最後の一文を、声に出さずに追った。
『流れる星の夜に、あなたと同じ空を見上げられたなら。それだけで、私は十分です』
読み終えて、息を止めた。
あなた。
私。
今までの祈りには、一度も出てこなかった言葉だ。
「先生」
「はい」
「これ、聖女様の、自分のための願いごとじゃないですか……!」
「ええ。ですが従来の解釈では、星は希望の比喩であり、『あなた』は遠くの民のことだとされてきました」
「比喩じゃないです! だって『流れる星の夜』って、日付つきの予定ですよ!」
私は勢いよく先生を振り返った。
「流れ星の夜に、会いたい人と、同じ空を見る。これ、星降る丘の言い伝えです! 私の地元の!」
先生が瞬きをした。
「星降る丘……。流星の夜に、愛する人と星を眺めれば、神の祝福を受けて願いが叶う、という」
「それです! 小さい頃から、おばあちゃんに聞かされていました。聖女様の時代からあるって。でも、まさか、聖女様ご本人の願いと繋がるなんて!」
先生は少し黙って、それから、ゆっくり言った。
「地方の言い伝えは文献に残りにくく、私もこれまで、結びつけられませんでした。……あなたの知識と発想がなければ、気づけなかった」
「先生が手紙を見つけて、ずっと保存していてくれたからです!」
「いいえ。あなたが読んだから、分かったのです」
……なんだろう。
先生の声が、ちょっと優しすぎる気がする。
でも今は、それどころではなかった。
聖女様は、世界を救うための旅の途中で、会いたい人がいた。
好きな人と、星が見たかった。
完璧な聖女様じゃなくて、ひとりの女の子としての、ささやかな、本当に小さな願い。
「……聖女様、かわいい」
「はい」
「めちゃくちゃ、かわいい」
「はい」
「教えてくださって、ありがとうございます。私、もっと好きになりました」
先生は何か言いかけて、やめて、眼鏡を押し上げた。
それから、小さな声で、独り言みたいに言った。
「……あなたが、そういう風に喜ぶ人で、よかった」
え、と顔を上げたとき、先生はもう机の手紙を見ていた。
「流星の夜は、暦によれば、十日後です」
「十日後!? 準備しなきゃ! 毛布と、温かい飲み物と、あと双眼鏡と!」
私は手帳を開いて、ものすごい勢いで買い物リストを書き始めた。
隣で、先生が、小さく笑っている気配がした。
* * *
星降る丘は、私の地元にある。
なので、準備の買い出しは、久しぶりの地元の市場になった。
毛布を二枚抱えて歩いていると、聞き覚えのある声に呼び止められた。
「エルナ?」
ジェラルドだった。
隣にはロザリーさんはいない。かわりに、少し疲れた顔をしている。
「ああ、こんにちは」
「……ずいぶん楽しそうだな。あれから、一人で旅をしていると聞いたが」
「はい、おかげさまで。慰謝料のお振り込み、ありがとうございました。おかげで神殿を十七か所、回れました」
ジェラルドの顔が、わずかにひきつった。
慰謝料と、それに絡む諸々のせいで、彼の周りの評判はあまり良くないらしい。……私が何かしたわけではない。
「相変わらず、古い言い伝えを追いかけているのか。そんなものに時間を使うなんて」
彼の視線が、隣に立つ先生に移った。
「しかも、そんな見るからにみすぼらしい男と。君もずいぶんと落ちたものだな」
先生は、何も言わなかった。
その間、私は毛布の柄を見ていた。
ここの店の毛布は、少し厚みが足りない気がする。もう一枚買うべきか。
「エルナ、聞いているのか」
「あ、はい。聞いていませんでした」
そのとき、ふっと隣で動く気配がした。
先生が私の腕から毛布を受け取って、片腕に抱え直した。
それから、空いた手で眼鏡を外し、前髪を軽く払った。
……眼鏡、外して大丈夫なのかな。先生、手元のお茶も見えないくらい、目が悪いのに。
先生の声は、いつもと同じように穏やかだった。
「彼女は、素敵な方ですが?」
「……は?」
「聖女の祈りの言葉を、石の摩耗した文字から言い当て、私が三年かけて見落とした手がかりを、半日で読み解いた方です」
ジェラルドが口を開けたまま、先生の顔を見ている。
「あなたは、彼女の何を見ていたのでしょう。彼女が聖女の話をするとき、どんな顔をするかご存知でしたか? つまらない、と切り捨てたその時間が、どれほど価値のあるものか」
先生の声は、最後まで静かだった。
「……私は、その時間のそばにいられることを、幸運だと思っています」
周りの人が、ちらちらこちらを見ている。
ジェラルドは、何か言い返そうとして、結局何も言えず、口をぱくぱくさせていた。
私はといえば。
「先生、眼鏡、かけた方がいいんじゃないですか? 見えにくいでしょう」
先生が、なぜか「……はい」と小さく言って、眼鏡をかけ直した。耳が、ほんのり赤い気がする。風邪かな。
それより私には、もっと大事なことがあった。
「先生! 流星の日に、星を見に行きましょう!」
「……はい?」
「聖女様が見たかった星を、私たちも見られるんですよ! 毛布は、あと一枚買い足します!」
ジェラルドが「え? あ?」と、行き場をなくした声を上げている。
ごめんなさい、今、毛布の厚みの方が大事なんです。
先生が、毛布の店の方へ私の背中を軽く押してくれた。
「では、買い物に参りましょうか。毛布は、私が持ちます」
その声が、なんだかとても機嫌が良さそうだった。
* * *
流星の夜。
私は、持てるだけの荷物を抱えて、星降る丘の頂上に立っていた。
毛布が三枚。保温水筒が二本。双眼鏡。手帳。予備の手帳。そして、聖女様の絵姿を小さく刺繍した、手作りのクッション。
「……戦に行くのですか?」
遅れて丘を登ってきた先生が、荷物の山を見て苦笑した。
「失礼な。完全装備です」
「失礼しました。……クッションは、聖女の絵姿ですか」
「はい。座り心地は保証します」
先生にも一つ渡すと、彼は大真面目にお礼を言って、クッションの上に正座した。
私は、そこでふと気づいた。
「先生、今日は、寝癖が少ないですね」
「……そうでしょうか」
前髪は、いつもよりきちんと整えられている。眼鏡も、磨いたのかよく光っている。
でも、それだけだ。うん、いい日だ。流星の日に寝癖が少ないのは、縁起がいい。
「それから、これを」
先生が差し出したのは、小さな紙の包みだった。
開けると、星の形の焼き菓子が、二つ。
「あっ、あの町の!」
「宿の女将さんに、頼んでおきました。……流星の夜に、ここで食べたいと、あなたが言っていたので」
私は、焼き菓子と先生を見比べた。
覚えててくれたんだ。
あんな、何気ない一言を。
「先生、天才ですか……! 推し活のプロですか……!」
「大げさです」
「大げさじゃないです! 聖女様の時代からのお菓子を、聖女様が見たかった星の下で! 最高です!」
私が両手でお菓子を掲げると、先生は、眼鏡の奥で目を細めた。
……先生、今日はよく笑うなあ。
二人で並んで、毛布にくるまった。
風が少し強くて、先生は、さりげなく風上の側に座り直してくれた。
おかげで、私のところだけ、風がほとんど来ない。
「寒くはありませんか」
「大丈夫です! 毛布、三枚あるので!」
「そうでしたね」
空は、よく晴れていた。
星が、いくつも、数えきれないほど、頭の上に並んでいる。
「聖女様も、ここに来たかったんですよね」
「ええ。この丘のことは、おそらく、旅の途中で聞いたのでしょう。例の、星の名前を子どもたちに聞いて回ったという逸話も、きっとその頃です」
「あっ、そうか。あれも星の話ですもんね! 先生、すごい、全部繋がってる」
「あなたが、おじいさんから聞いてきた話です」
「えへへ」
小声で、そんな話をしながら、流星を待った。
焼き菓子を食べて、温かいお茶を飲んで。聖女様が好きだった花の話や、子どもたちに歌った子守唄の話。
先生は、私の話を、星を見るのも忘れたみたいに聞いていた。
しばらくして、会話が途切れた。
丘の上は静かで、風の音だけがした。
先生がぽつりと言った。
「聖女もきっと、こうして好きな人と星を眺めたかったのでしょうね」
先生は、空を見たままだった。
声が、いつもより少し低くて、静かだった。
「そうですよね! 聖女様、絶対そうだったと思います!」
「流星の日を指定しているんですよ?」
先生が続けた。
「とても好きな人に決まっています」
……そう言ったあと、先生は何も言わなかった。
私も、何も言えなくなった。
聖女様の話だ。当たり前だ。
聖女様は、好きな人と星が見たかった。
とても好きな人と、同じ空を。
好きな人と、星を見るって。
どんな気持ちなんだろう。
私は、そんなこと、一度も考えたことがなかった。
ジェラルドとは、一緒に星を見たことなんて、なかったし。
ふと、隣を見る。
先生が、空を見上げている。
横顔の、前髪の隙間から、まっすぐな鼻筋が見えた。星明かりに、眼鏡のふちが光っている。
いつもと同じ距離。いつもと同じ、毛布のはしっこと、クッション。
それなのに、なんだか、さっきより、少しだけ近い気がする。
……あれ。
寒いのかな。
毛布、足りなかったかな。三枚あるのに?
私が毛布の端をぎゅっと握りしめたとき、空の端で、ぱっと光が走った。
「あっ」
流れ星だ。
一つ、二つ、三つ。
銀色の線が、空を斜めに裂いていく。
聖女様。
私、いま、あなたが見たかった景色を見ています。
きっとあなたも、この空の下で、誰かを思っていたんですよね。
世界を救うために、必死で旅をしながら、それでも、ほんの少しだけ。
願い事をするのも忘れて、私は夢中で空を見上げた。
流れ星が、また一つ流れた。
「先生、見ましたか! 今の大きかった!」
「……ええ。見ていました」
振り向くと、先生は、さっきから空ではなく、こちらを向いていた気がした。
目が合った。
先生は、ゆっくり、空に視線を戻した。
「……ちゃんと、見ていましたよ」
「ですよね! すごかったですよね!」
私は、また空に向き直った。
でも、さっき、先生と目が合ったところが、なんだか、じんわり熱い。
……焼き菓子のお茶が、熱かったせいだ。
今は、星の方が大事だ。
……たぶん。
* * *
翌朝。
丘のふもとの停留所で、私は欠伸を噛み殺していた。
一晩中、起きていたのだ。眠いけれど、気分はこれ以上ないくらい良かった。
「先生、昨夜の流星、全部で何個数えましたか? 私、四十一個まで数えたところで、記憶が」
「四十七です」
「負けた!」
「あなたが途中で寝落ちされたので、不戦勝です」
「寝てません! 目を閉じて、味わっていただけです!」
先生が笑った。
「それに」
先生は、ふっと目を細めた。
「あなたが眠そうに目を閉じたあと、私の肩に毛布が落ちかけていたので、かけ直しておきました」
「えっ」
気づいたら、私の肩の毛布が、きちんと襟元まで引き上げられていた。
いつの間に。
「……ありがとうございます。あの、寝てはいないんですけど」
「はい。味わっておられました」
笑いをこらえている。この人、意外といい性格をしている。
しばらくして、先生は、少しだけ改まった声で言った。
「……エルナさん」
「はい?」
「また、私と旅をしていただけますか?」
先生は、前髪の奥で、じっとこちらを見ていた。
私は目をぱちぱちさせて、それから、ぱあっと顔が明るくなるのを自分で感じた。
「もちろんです! まだ調べたい神殿が、たくさんありますもの!」
やった。聖女様の研究を、これからも一緒に続けられる。
それなら、旅はまだまだ続くんだ。
「聖女様が最後に訪れた北の神殿は、まだ行っていませんし。それから、南の港町の記念碑も。あっ、あと、先生の持っている十二通目の写しも、もう一度じっくり見たいです!」
「ええ。それも、全部」
先生は、少し笑ってから、静かに言った。
「エルナさんに見せたいものが、たくさんあるんです」
歴史も、場所も、まだ誰にも話していない発見も。
そう言った先生の前髪を、朝の風が、ふわりと持ち上げた。
眼鏡の奥の目が、まっすぐ、私を見ている。
いつもは前髪に隠れている目が、朝の光の中で、ものすごく優しい色をしていた。
胸の奥が、ほんの少しだけ、跳ねた。
……え?
いや、研究のことだ。
聖女様の、まだ見ぬ聖地のことだ。
きっと、そうだ。
「楽しみです! 次は、北の神殿ですよね!」
「……はい」
先生は、ほんの少し困ったように笑った。
どうして困っているのだろう。
北の神殿が遠いからかな。防寒具をもっと買い足さないと。
「北は、雪が深いですよ。防寒具は、私が見立てましょう。あなたの好きな色は、覚えていますから」
「えっ。私、好きな色の話、しましたっけ?」
「……三つ目の神殿で。手帳の表紙の色を、聞いたときに」
言った気がする。
でも、そんな、ずっと前の話を。
停留所に、馬車がやってきた。
荷物を持ち上げようとすると、先生が先に、私のクッションと毛布を抱え上げた。
「半分、持ちます」
「いつも半分って言いながら、重い方を持っていきますよね」
「気のせいです」
絶対、気のせいじゃない。
馬車に乗り込みながら、私は昨夜の流れ星のことを、もう一度思い出す。
聖女様のこと。
先生のこと。
隣で見た、あの空のこと。
まだ、胸の奥が、少しだけ落ち着かない。
きっと、寝不足のせいだ。
……たぶん。
でも、私の後ろから乗り込んでくる先生の気配を感じながら、私は思った。
次の旅も、きっと、楽しい。
聖女様のことと、それから、この人と。
一緒に見られる景色が、たくさんあるといいな、と。




