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実の子に犬を放たれて噛み殺された私。大学に落ちて発狂し、偽セレブの首を絞める彼をただ見下ろしていた

作者: 熾星
掲載日:2026/06/23



 1.やり直しは出願の日から

 大学入学共通テストの成績を確認したあと、息子の東条蓮の点数は、難関国立大学「東都大学」の出願基準にぎりぎり届く程度だった。夫の東条航平は、出願先を決める大事な手続きを、知り合って一か月しか経っていない受験コンサルタントの白石由奈にすべて任せていた。私がパソコンを開き、出願ページを確認したとき、白石由奈が蓮に出願させていた大学は、たった一校だけだった。

 東都大学。

 中堅私立大学の滑り止めも、安全校も、万一のための予備案もなかった。


 前世の私は、この出願一覧を見た瞬間、必死で二人を止めた。あと数校、せめて滑り止めの私立大学だけでも追加したほうがいいと、何度も何度も説得した。けれど、最初に私へ噛みついてきたのは、ほかでもない息子の蓮だった。

「母さん、由奈先生が優秀だからって嫉妬してるんだろ。これは俺の人生がかかった大事なことなんだ。こんなときまで、くだらない焼きもちを焼くのはやめてくれない?」

 白石由奈はそばで口元を押さえ、くすりと笑った。航平はそんな彼女を横目で見て、甘やかすような目を向けていた。三人が並んで立つ姿は、まるで本当の家族のようで、私だけがその場に紛れ込んだ余計者のようだった。

 それでも前世の私は、放っておけなかった。仕方なく蓮の出願マイページにログインし、こっそり数校の中堅私立大学を追加した。

 結局、蓮は東都大学に落ちた。それでも一校の私立大学には合格し、大学に行けないという最悪の結果だけは避けられた。けれど彼は、そのことを何年も恨み続けた。


 自分の東都大学への夢を壊したのは私だと、彼は信じて疑わなかった。私が余計なことをしなければ、自分は必ず東都大学に合格していたのだと、何度も何度も私を責めた。

 そしてある日、彼は山中の別荘で怪我をしたと嘘をつき、私を人気のない場所へ呼び出した。私が木の扉を開けた瞬間、放たれていた猟犬の群れが一斉に飛びかかってきた。鋭い牙が皮膚を裂く音の向こうで、蓮の声だけが、氷のように冷たく聞こえた。


「母さん、分かる?」

「もしあのとき母さんが余計なことをしなければ、俺の人生はこんなふうにならなかったんだよ」

 次に目を開けたとき、私はパソコンデスクの前に立っていた。画面には、蓮の大学出願ページが映っている。背後から、苛立った彼の声が飛んできた。

「母さん、黙ってないで何か言えよ」


 私は画面を見つめたまま、指先に力を込めた。

 私は、本当にやり直したのだ。


 蓮が大学に出願する、あの日に戻ってきたのだ。

「航平さん、蓮くん、私を信じてくださってありがとうございます」


 白石由奈は唇を噛み、指先をかすかに丸めながら、今にも涙をこぼしそうな顔をしていた。

「でも、奥様もただお子さんのことが心配なだけなんです。もし最後に私の案を使わないことになっても、私は気にしませんから」

 私はゆっくり顔を上げた。航平は彼女に向かって身をかがめ、肩に手を置いて慰めている。その目はやわらかく、まるでこの家で一番守られるべき人が白石由奈であるかのようだった。

 蓮は怒りを隠そうともせず、私をにらみつけていた。息子が母を見る目ではなかった。まるで、許しがたい罪人を見る目だった。

 前世で猟犬に噛み裂かれた痛みを思い出し、全身が冷えた。迷いは一瞬だけだった。私は静かに息を吐き、決意を固めた。


「いいわ」

「出願先の決定権を白石先生に渡したのなら、私はもうこの件に口を出しません」

 部屋の空気が、ぴたりと止まった。三人の疑わしげな視線が、一斉に私へ集まる。


 最初に不安を見せたのは航平だった。

「紗和、そういう意味じゃない。蓮は君の子どもだ。君に関わるなと言うつもりなんてないよ」

 白石由奈はすぐに下唇を噛み、航平の袖をそっとつかんだ。

「全部、私が悪いんです。奥様を怒らせてしまいました。蓮くんの出願は一生を左右する大事なことですから、どうしてもいい加減にできなくて……それで奥様に失礼なことをしてしまったんです」

「奥様が怒るなら、どうか私を責めてください。このことで、航平さんや蓮くんに怒りを向けないでください」

 彼女が弱々しく見せる姿は、あまりに手慣れていた。肩を小さく震わせ、涙をこぼす寸前でこらえてみせる。誰が見ても、彼女こそが可哀想な被害者に見えるだろう。


 蓮は案の定、彼女をかばうように立ち上がった。

「母さん、いい加減にしてくれよ」

「由奈先生は本当に能力があるんだ。毎日家で食べて寝て、くだらないことばかり考えている母さんとは違う」


 白石由奈は止めるふりをして手を伸ばしたが、その口元はわずかに下がり、ますます哀れに見えた。

「もういい」

 航平が低い声で蓮を遮った。

「長上に対して、その態度は何だ。お前のしつけは犬に食われたのか」

 蓮は一瞬で黙り込んだ。父親の顔色をうかがうように肩をすくめ、何も言えなくなる。


 航平はゆっくりと私に向き直った。声はいつもの穏やかさを取り戻していて、そこには薄い憐れみすら混じっていた。

「紗和、子どもの不作法は母親の責任だ」

「蓮はこれから二次試験もある。手を怪我させるわけにはいかない」

「今回の罰は、君が代わりに受けてくれ」

 私は彼を見上げた。その瞬間、前世の自分がどれほど愚かだったのか、ようやく心の底から分かった。


 私はかつて、この男が本当に私を愛していると信じていたのだ。

「田中、物差しを持ってこい」


 古参の家政婦、田中澄江は低く返事をし、すぐに書斎から檜の物差しを持ってきた。それは東条家の古い屋敷にあったもので、もともとはただの飾りだった。航平は東条家へ婿入りし、東条の姓を名乗るようになってから、それを「家のけじめ」として使うのを好むようになった。

 物差しが掌に落ちた瞬間、焼けるような痛みが走った。一度、二度、三度。私は歯を食いしばり、決して許しを請わなかった。


 やがて腕全体の感覚がしびれてきた。それでも涙は勝手にこぼれ、止めることができなかった。

 航平が再び物差しを高く振り上げる。私は反射的に指を丸めたが、彼は素早く私の手首を押さえつけた。私を見る目には、ぞっとするほど偽物の憐れみが浮かんでいた。


「紗和、君を打つたび、僕の胸も痛むんだ」

「本来なら百回のところだが、君の身体が弱いことを考えて五十回にしておく。僕を困らせないでくれ」

 物差しの音は、回数を重ねるほど大きく響いた。


 白石由奈は航平の背後に立ち、勝者のように私へ笑みを向けた。私はその顔をじっと見つめた。蓮も私の視線を追う。

 その瞬間、白石由奈はすぐに表情を変え、両手で顔を覆った。まるでこの光景に耐えられず、見ていられないというように。蓮は慌てて彼女のそばへ駆け寄った。

 あれほど背の高い、反抗的な少年が、彼女の足元におとなしくしゃがみ込む。その姿は、主人に尻尾を振る犬にしか見えなかった。


「由奈先生は、本当に優しすぎるよ」

「母さんがあんなに先生を敵視してるのに、どうしてまだ心配するんだよ」

「でも大丈夫。俺がいる。誰にも先生をいじめさせない。母さんにだって、そんなことはさせない」

 彼は冷たく笑い、吐き捨てるように言った。

「母さんなんて、ただの寄生虫だろ。父さんがいなきゃ、何もできないくせに」


 蓮の言葉は、一つ残らず私の耳に落ちた。その瞬間、私は氷の底へ沈んだような気がした。

 五十回の罰が、ようやく終わる。航平は白石由奈の肩を抱き、「ゆっくり休め」とだけ言い残して部屋を出ていった。

 私は真っ青な顔でその場にうずくまった。腫れ上がった手は、もうまともに握ることもできない。


「待ってよ!」

 蓮は私を一度も振り返らず、慌てて二人を追いかけていった。



 2.私はもう、あなたを救わない

 部屋には何十人もの使用人がいた。けれど、誰も私に手を貸さなかった。誰一人、痛むかどうかを尋ねもしなかった。

「田中さん」

 私は声を張り上げ、東条家で二十年以上働いている古参の家政婦を呼んだ。彼女は聞こえているはずなのに、隣の部屋に隠れたまま、一言も返事をしなかった。


 仕方なく、私は自分で身体を支えながら立ち上がり、救急箱を探した。消毒液が傷口に染みるたび、掌が震える。けれど前世で猟犬に噛み裂かれた痛みに比べれば、この程度は何でもなかった。


 夜が更けてから、航平はようやく慌ただしく帰ってきた。

「紗和、少しはよくなったか?」

 彼はベッドの端に腰を下ろし、疲れた顔のまま、それでも機嫌を取るように声をやわらげた。

「会社で急な用事が入って、君のことを気にかけられなかった。僕が悪かったよ」

 私は彼に背を向けた。顔を見る気にもなれなかった。


 彼はため息をつき、さらに声を低く甘くした。

「君、ずっとハワイに行きたいと言っていたよね」

「数日したら連れていく。だから、もう怒らないでくれ。傷を見せて」

 彼は私の手を取った。掌は大きく腫れ、青紫の痕が重なり、消毒液の跡が茶色く乾いている。鼻を刺すような薬品の匂いが漂った。

 航平は私に口づけようと身をかがめた。けれど、その動きは途中で止まった。


 扉の外から、せわしないノックの音がした。田中澄江が、スマートフォンを持って立っている。顔には焦りが浮かんでいた。

「旦那様、白石様からお電話です。何があったのかはおっしゃらないのですが、泣いていらっしゃるようで……」


 航平は乱暴に扉を閉めた。扉越しに、彼が声を低くして叱りつけるのが聞こえる。

「自分の立場をわきまえろ。余計なことに首を突っ込むな。僕が今、夫人と話しているのが分からないのか」


 数秒後、彼はまたベッドのそばへ戻ってきた。顔には申し訳なさそうな表情を浮かべているが、目だけは明らかに輝いていた。

 私は彼の頬に手を添えた。ベッドサイドには、彼が毎晩飲む漢方薬が置いてある。航平はひどい偏頭痛を持っていて、これまで十年以上、私が毎晩煎じて、忘れず飲ませてきた。

 薬を切らさなければ、彼の発作はほとんど起きなかった。


「ベッドサイドの薬、忘れずに飲んで」


 言い終わる前に、別の着信音が鳴った。それは白石由奈のためだけに、航平が設定している音だった。

 彼の顔から曖昧な優しさが消え、すぐに電話へ出る。


 受話口の向こうから、白石由奈の震える声が聞こえた。

「航平さん、怖いの……」

「ひとりでホラー映画を見てしまって、部屋のあちこちから音がする気がして。来てもらえませんか?」

「無理ならいいんです。私、ひとりで我慢できますから……」

「怖がらなくていい。すぐ行く」


 航平は迷いなく上着を羽織った。振り返った顔には、いかにも申し訳なさそうな表情が貼りついている。

「紗和、由奈は東京に頼れる人がいない。蓮の受験のために残ってくれているんだ」

「君は大したことはなさそうだし、先に寝ていてくれ」

「すぐ戻る」

 私は止めなかった。ただ一言だけ、静かに促した。

「薬」


 航平の目に、さらに深い後ろめたさが浮かんだ。彼は碗を取り、薬を一気に飲み干す。それでも、結局は振り返らずに出ていった。

 玄関へ向かう直前、彼は思い出したように言った。

「蓮を寄こす。そばにいさせるよ」



 しばらくして、蓮が不機嫌な顔で部屋に入ってきた。まるで、縁起の悪い場所に無理やり踏み込まされたかのようだった。

「また何か企んでるのか?」

「俺はもう試験が終わったんだ。これ以上、俺のことに口を出すなよ」

 私はしばらく黙ってから、不意に尋ねた。

「大学の出願、本当にそれでいいの?」

 その一言で、蓮は一瞬にして爆発した。

「変な真似をするなよ、母さん!」

「俺は東都大学以外に行く気はない」

「由奈先生が全部うまくやってくれているんだ。俺の実力なら、普通の私立に逃げる必要なんてないって言ってくれた」

 話しているうちに、彼の目は輝きを増した。もう自分が東都大学の門をくぐっている姿でも見えているのだろう。

「自分に何の力もないくせに、俺まで引きずり下ろそうとするな」

「そんなこと、絶対にさせない」

 言い終えると、彼は一秒たりともこの部屋にいたくないというように立ち去った。服についた穢れを払うように手で叩き、扉を閉める。


 私は無表情のまま、スマートフォンの録音を止めた。

 この人生では、私はもう蓮を救わない。



 3.あの離婚届

 翌朝、航平と白石由奈は一緒に玄関をくぐった。リビングのソファに座っている私を見た瞬間、航平の顔には隠しきれない後ろめたさが浮かんだ。


「昨日は遅くなった。戻ったら君を起こしてしまうと思って、外で適当にホテルを取ったんだ」

「先に顔を洗ってくる」

 真夏だというのに、白石由奈は長袖に長ズボンを着て、首元まできっちり隠していた。彼女は無理に笑みを作り、風のように細い声で言った。


「奥様、どうか誤解なさらないでください」

 私は表情を変えず、適当にうなずいた。もう彼らの芝居に付き合う気はなかった。

 白石由奈は、期待していた反応を得られなかったのが不満だったのだろう。突然、私の目の前まで駆け寄ってきた。


「奥様、私のことを怒っていらっしゃるんですよね」


「どうか胸の内にため込まないでください。お身体に障ります」

「私を叩いてください。奥様の気が済むなら、どれだけ叩かれてもかまいません」

 私は反射的に彼女を避けようと手を上げた。すると彼女は、まるで強く突き飛ばされたかのように数歩よろめき、弱々しく床へ倒れ込んだ。


 ちょうどそのとき、蓮が外から戻ってきた。白石由奈は顔を上げ、まるで計算していたかのように涙を一粒こぼす。


「蓮くん、怒らないで」


「何も起きていないの。私が勝手に転んだだけだから」

 蓮の目がつり上がった。

「誰がやったんだ」

「出てこいよ!」

 白石由奈は何も言わない。ただ赤くなった目で、私を見る。蓮は、自分が理解したいようにすべてを理解した。


 彼は憎悪のこもった目で私をにらみ、震える声で責めた。


「母さん、どこまで性根が腐ってるんだよ」

「由奈先生が気に入らないなら、口で言えばいいだろ。どうして手を出すんだ」

 そのとき、航平が階段から降りてくるのを見つけ、蓮は救い主でも見たかのように駆け寄った。

「父さん、母さんにちゃんと分からせてくれよ!」

「由奈先生がこんな目に遭わされたんだ!」

 航平の顔が一瞬で沈んだ。蓮は、父親が私を罰してくれると思ったのだろう。勝ち誇ったような目で、ちらりと私を見た。


 次の瞬間、航平は蓮へ歩み寄り、十発の平手打ちを浴びせた。

 蓮の片頬はみるみる腫れ上がり、彼はよろめきながら顔を背けた。何が起きたのか、理解できていない目をしていた。

「父さん、どうして……」


 航平はその言葉を鋭く遮った。

「母さんに謝れ!」

「僕はお前に、よその女のために母親へ口答えしろと教えた覚えはない」

「次に同じことをしたら、本気で叩き出すぞ」

 蓮は真っ青になった。頭を押さえつけられ、屈辱に震えながら私へ謝る。


 小さいほうを黙らせたあと、航平は白石由奈へ大股で近づいた。彼女の襟元を乱暴につかみ上げる。弱々しい嗚咽は喉の奥で詰まり、彼女は壊れた人形のように玄関の外へ投げ出された。

「航平さん、昨日の夜は――」

 航平の反応は早かった。彼はその言葉を最後まで言わせず、白石由奈を足で蹴りつけた。


 彼女の続きの言葉は、喉の奥へ押し戻された。


 航平は小走りで私のそばへ戻り、まるで壊れ物でも扱うように私をソファへ座らせた。顔には、取ってつけたような笑みが浮かんでいる。

「紗和、僕は全部見ていた。あの女が君を陥れようとしていたんだ」


「もう追い出した」

「これからは、僕たち三人でちゃんとやり直そう。な?」

 蓮は訳が分からない顔をしていた。何か言いたそうだったが、今は父親の機嫌を損ねるべきではないと分かったのだろう。口をつぐんだ。


 私は目を伏せ、口元に浮かぶ冷笑を隠した。航平がなぜ急に態度を変えたのか、私はよく分かっている。

 昨夜、私はわざとベッドサイドの引き出しに離婚届を入れておいたのだ。


 その夜、航平はこっそりベッドから起き上がった。私に向けられた視線を感じ、私はすぐに寝息を整え、熟睡しているふりをした。

 扉が静かに開く。かすかな音のあと、彼は部屋を出ていった。私はしばらく待ってから、上着を羽織り、足音を忍ばせて後を追った。


 書斎から、航平の低い怒鳴り声が聞こえた。

「馬鹿者!」

「ベッドサイドの引き出しに、離婚届が入っていたんだぞ」

「お前の母さんは、僕と離婚するつもりだ」


 蓮は不満そうに言い返した。

「離婚すればいいじゃないか。由奈先生がこの家に入れる」

 航平は苛立ちを隠さなかった。

「何も分かっていない」

「僕が彼女との離婚を怖がっているとでも思っているのか」

「忘れるな。東条ホールディングスは、もともと彼女の父親の会社だ。株も、この屋敷も、家族信託も、実質的には今も彼女が握っている」

「彼女と離婚すれば、僕たち親子は東条家から放り出されるだけだ」

 蓮はようやく黙った。航平の声は、さらに冷たくなった。


「由奈には、しばらく我慢させるしかない」

「準備が整えば、紗和を身ひとつで追い出す。そうすれば全部こちらのものだ」

 私は扉の外で、声を殺して笑った。部屋に戻ったあと、引き出しから離婚届を取り出し、細かく破り捨てた。


 離婚?

 そんなもの、彼らには甘すぎる。



 4.向日葵と蜂の針

「旦那様、ご覧ください。奥様がまた妙なことをなさっています」

 田中澄江はリビングの大きな窓辺に立ち、これまでと同じように、私の目の前で航平へ告げ口をした。


「せっかくの日本庭園なのに、高価な植木を抜いて、あんな安っぽい向日葵を植えるなんて」

「外はこんなに暑いのです。職人たちも倒れてしまいます」


 航平は資料から顔を上げた。田中澄江に向ける目は、ひどく冷たかった。

「君も分かっているだろう。彼女はこの家の奥様だ」


「君はただの家政婦だ」

 田中澄江は固まった。航平の声はさらに重くなる。

「これから先、僕と奥様の前で余計な陰口を叩くなら、ただでは済まさない」


 彼女の顔色は青くなったり白くなったりした。航平にこんなふうに叱られたのは、ずいぶん久しぶりなのだろう。

「責めないであげて」

 私は軽く笑った。


「田中さんは長く東条家に仕えてくれた人です。きっと、暑い中で働く職人さんたちを心配しているのでしょう」


 田中澄江はその言葉を聞いた途端、また軽蔑を隠さない顔になった。私がまだ、昔のように簡単に踏みつけられる東条紗和だと思っている。

 私はそのまま続けた。


「でも、作業を途中でやめるわけにはいきません」

「それほど職人さんたちが心配なら、残りの向日葵は田中さんが植えてあげて。職人さんたちには休んでもらいましょう」

 航平はほとんど迷わず命じた。

「奥様がそう言っている。早く行け」


 田中澄江は私を激しくにらみつけた。けれど航平が隣にいる以上、逆らうことはできなかった。

 庭では、一面の向日葵が鮮やかな黄色を広げていた。花のまわりを、蜂がぶんぶんと飛び回っている。強い日差しに、花びらは眩しいほど輝いていた。


 田中澄江は道具を持って腰をかがめ、汗に濡れながら作業を続けた。時おり背中を伸ばして腰を叩く顔には、苦痛と恨みがにじんでいる。

 窓辺に立っていた航平が、不意に首の後ろを叩いた。

「痛っ……」


 小さな黒い影が床に落ちた。私は近づいて彼の手をどかす。皮膚の中央には半分折れた針が刺さり、周囲がみるみる赤く腫れていった。

「大したことはないわ」

 私は窓を閉め、落ち着いた声で言った。


「蜂が一匹入ってきて、刺しただけでしょう。あとで薬を塗ればいい」

 航平は眉をひそめ、まだ何か言いたげだった。私はふいに話題を変えた。


「明日、乗馬に行かない?」

「あなた、乗馬が一番好きだったでしょう」

 航平は目を見開いた。私を見るその目に、久しぶりに光が差す。

 このところ、私は彼に冷たくしていた。そんな私が自分から歩み寄ったことで、彼は首の痛みのことなどすぐに忘れたようだった。


「明日か?」

 彼は少しためらう。

「明日は蓮の合格発表の日だろう」

 私は頬をわずかに染め、恥じらうように笑った。


「蓮には白石先生がついているじゃない」

「蓮は彼女のことが大好きみたいだし、結果を見るのも一緒でいいでしょう」

「私たちも、ずいぶん長いこと二人だけで過ごしていないもの」


 航平の目は、静かな水面に波が立つように揺れた。彼はすぐにうなずいた。

「分かった。明日は馬場へ行こう」

 その日の午後、航平が会社へ行っている間に、私は白石由奈を銀座のカフェへ呼び出した。彼女は二時間も遅れて現れ、席に着くなり甘ったるい声を出す。

「お姉様、怒っていませんよね」


「道が混んでしまって。そうだわ、このことを航平さんにお話しして、きちんと埋め合わせしてもらいましょうか」

 私は何も言わなかった。ただ、テーブルの上に資料の束を広げる。


 白石由奈は内容を見た瞬間、口元に貼りついていた完璧な笑みを保てなくなった。

 やがて彼女は仮面を脱ぎ捨て、低い声で詰め寄った。

「何がしたいの?」


「私だって、今までただ遊んで生きてきたわけじゃないわ。最悪の場合、道連れにしてやる。誰も無事では済ませない」

 私は彼女の虚勢をすぐに見抜いた。笑いをこらえながら、一枚のメモを彼女の前へ滑らせる。

「由奈さん、あなたも私がこの家でどんな扱いを受けているか、分かっているでしょう」

「私はただ、夫と息子と穏やかに暮らしたいだけ」

「五千万円を、あなたの指定口座に振り込む用意があります」

「蓮の合格発表が終わったら、このお金を持って東京を離れて。私を解放してください」


 白石由奈は半信半疑の目で私を見た。私はさらに声を低くした。

「航平のそばにいるのは、つらいでしょう?」

 彼女の指先がかすかに震えた。私は彼女の高い襟元からのぞく、隠しきれない青紫の痕を見る。

「彼の癖は、もう分かったはずよ」

「感情が荒れると、自分でも止められなくなる」

 白石由奈の顔色が変わった。

「どうして、そんなことを知っているの?」

 私はただ笑った。しばらくして、彼女は喉を鳴らし、メモをバッグへしまった。

「いいわ」

「合格発表が終わったら、私は消える」



 5.馬場の事故

 翌朝、私は航平のために黒い乗馬服を選んだ。

「これにしたら?」

「若くて格好よく見えるわ」

 航平はわざと不機嫌そうに私を横目で見た。

「それは、今の僕が若くも格好よくもないという意味かな」


 私はその言葉には答えず、天然の花の香りがする香水を手に取った。乗馬服に数回吹きかけると、更衣室の中に甘い花の匂いがふわりと広がる。

「これなら、汗をかいてもいい香りがするわ」

 航平は満足そうにうなずき、私を腕の中へ引き寄せた。

「やっぱり、紗和は僕のことを一番愛している」

「いつか馬に乗れなくなっても、ここへ来て、僕たちの一番純粋な気持ちを思い出そう」

 私は彼の胸に顔を寄せ、ゆっくり目を閉じた。返事はしなかった。

 馬場は千葉郊外にあった。よく晴れた日で、芝生は陽光を受けて明るく光り、乾いた草と木々の匂いが風に混じっていた。


 航平は馬を引いて私の前へ来ると、軽く声をかけただけで、すぐに自分の腕前を見せたがった。鐙に足をかけ、勢いよく馬上へ身を翻す。動きは確かに鮮やかだった。

 それは、彼が得意とするものの一つだった。彼は人から仰ぎ見られることが好きだった。自分の余裕や強さに、周囲が感嘆する瞬間を愛していた。

「行け!」



 短いかけ声とともに、馬は前脚を上げ、草地の向こうへ駆けていった。航平は馬上で意気揚々と笑い、その声は遠くまで響いた。

 彼があれほど晴れやかに笑うのを、私はしばらく見ていなかった。

 けれど間もなく、その顔から笑みが消えた。苦痛、恐怖、息苦しさ。ほんの数秒で、彼の表情からすべての血の気が引いていく。

 航平の身体は力を失い、馬上から滑り落ちた。重い音を立てて、彼は地面に倒れた。


 救護スタッフがすぐに駆け寄る。私はその場に立ち尽くし、指先に力を込めた。周囲は一気に騒然となった。誰かが叫び、誰かが電話をかけ、救急車を急がせている。

 けれど救護スタッフが顔を上げたとき、その表情だけで結果は分かった。


 東条航平は、もう息をしていなかった。

「お悔やみ申し上げます、東条様」

 私はよろめきながら彼にすがりつき、息もできないほど泣いた。

「航平、目を開けて」

「お願い、私を見て。いったいどうしたの」

 救護スタッフは痛ましげな顔で説明した。

「東条様は乗馬中、蜂を吸い込んでしまった可能性があります」

「喉を刺されたことで重度のアレルギー反応が起き、気道が腫れ、心停止に至ったものと思われます」


「こちらも全力を尽くしました」

 私は意識が遠のきそうになるほど泣き続けた。周囲の人たちも、その場の空気に飲まれ、目を赤くしていた。

 やがて私は車へと案内された。救護スタッフは低い声で慰めてくれる。

「東条様、どうかお身体を大事になさってください」

「明日と不慮の事故は、どちらが先に来るか分かりません。東条様のことは、本当に誰にも予想できなかったことです」

 私は彼の手をつかみ、涙ながらに頼んだ。

「このことを……子どもには、まだ知らせないでいただけませんか」

「あの子は今日、大学の合格発表を待っているんです。耐えられないと思います」

 救護スタッフはうなずいた。

「手続きは規定どおり進めますが、ご家族のお気持ちには配慮します」

 車の扉がゆっくり閉まる。窓の向こうから、抑えた声の会話が聞こえた。

「気の毒に。東条さんはまだ若いし、東条ホールディングスの代表でもあったのに」


「奥様、あんなに泣いていらした。きっと夫婦仲がよかったんだろうね」

「世の中、何が起こるか分からないな。小さな蜂一匹が命を奪うなんて」

 私は後部座席にもたれ、静かに目を閉じた。涙はまだ流れていた。

 けれど心の中だけは、恐ろしいほど静かだった。



 6.全落ち

 同じ頃、東条蓮は白石由奈とともにパソコンの前に座り、東都大学の合格発表を待っていた。

「出た!」

 蓮はマウスを押し、興奮のあまり椅子から半分立ち上がった。画面が更新された瞬間、大きく表示された「不合格」の文字が、彼の目に飛び込んだ。


 蓮は全身から力が抜けたように、椅子へ崩れ落ちた。焦点の合わない目で画面を見つめ、うわごとのようにつぶやく。

「あり得ない」

「こんなの、あり得ない」

「俺は出願基準に届いていたんだ。どうして東都大学に落ちるんだよ」

 白石由奈は口元を押さえ、ちょうどよい驚きを顔に浮かべた。

「あら、どうしてこんなことに……」

「おかしいわね」

 彼女は軽くため息をつき、重すぎず軽すぎない声で続けた。

「本当に残念ね。どこかで手違いがあったのかもしれないわ」

「仕方ないから、一年浪人しましょう。来年こそ、私が必ず東都大学に入れてあげる」


 蓮の失われていた目に、怒りの火が一気に灯った。次の瞬間、彼は白石由奈に飛びかかり、床へ押し倒した。

 両手で彼女の首を強く締め上げる。

「お前のせいだ!」

「全部、お前が悪い!」

「東都大学に行けるって言っただろ。今は私立にも行けないじゃないか!」

「こんなことになるなら、最初に会った日に絞め殺しておくべきだった!」


 白石由奈の首筋に青筋が浮かび、両脚が床を激しく蹴った。力の差は明らかで、彼女の抵抗はすぐに弱まっていく。

 窒息寸前、彼女は苦しそうに唇を動かした。喉の奥から、切れ切れの声が漏れる。

「方法が……あるわ」

「もう一度だけ、私を信じて……」

 蓮の手から、わずかに力が抜けた。白石由奈は隙を見て逃れ、首を押さえながら激しく咳き込む。

「言え」

 蓮は冷たい目で彼女を見下ろした。

「今度こそ、本当に使える方法なんだろうな」


 白石由奈は息を整えると、蓮の耳元に顔を寄せた。悪魔がささやくような、低く細い声だった。

「これが唯一の方法よ」

「あとは、あなたがどこまで本気になれるかだけ」


 蓮は迷わなかった。スマートフォンを手に取り、そのまま警察へ電話をかけた。

 私が東条家へ戻ったとき、リビングにはすでに人が集まっていた。警察、学校の教師、弁護士、そして蓮が呼んだという見届け人たち。

 全員の視線が私へ向けられる。軽蔑、不信、嫌悪。その目の一つ一つが、針のように突き刺さった。

 私は落ち着いて扉を開け、むしろ軽く笑ってみせた。


「どうしたの?」

「今日はずいぶんお客様が多いのね。誰も私に知らせてくれなかったの?」


 蓮はすぐに立ち上がり、私をまっすぐ指差した。

「この人です!」

「俺が知らないうちに出願内容を勝手に変えて、俺を大学に行けなくしたんです!」

 リビングは一気にざわめいた。

「こんな母親がいるなんて」

「子どもの努力を、親が壊すなんてひどすぎる」

「受験生本人に無断で出願情報を操作するのは、家族でも許されませんよ」

 警察官は蓮に向き直り、厳しい顔で言った。

「安心してください」

「事実関係を確認し、必要な対応を取ります」

 蓮はうなずいた。その被害者ぶった顔は、彼自身さえ騙せそうなほどだった。


 私は慌てずスマートフォンを取り出し、録音を再生した。昨夜の蓮の声が、はっきりと部屋に響く。

「変な真似をするなよ、母さん」

「俺は東都大学以外に行く気はない」

「由奈先生が全部うまくやってくれているんだ。俺の実力なら、普通の私立に逃げる必要なんてないって言ってくれた」


 部屋は一瞬で静まり返った。警察官たちは顔を見合わせ、気まずそうな表情になる。

 私は蓮の成績画面と、出願記録を順に開いた。

「警察官の方々には、お恥ずかしいところをお見せしました」

「この子は本当に世間知らずでして」

「この点数で、東都大学に必ず合格できると思い込んでいたんです。私は止めようとしましたが、聞き入れませんでした」

「全落ちした途端、今度はすべて私のせいにしようとしている」

 私は静かにため息をついた。

「私には、もうこの子を息子だと思うことができません」


 蓮の顔から血の気が引いた。警察官たちの目も、同情から厳しさへと変わっていく。

「あなたはもう十八歳ですね」

「虚偽の通報には、法的責任が伴います」

「今回は初回ということで注意にとどめますが、次は口頭で済むとは思わないでください」

 蓮は唇を震わせたが、何も言えなかった。


 私はうつむき、恥じ入っているふりをした。そして苦笑しながら、警察官へ向き直る。

「実は、私からも被害届を出したいことがあります」

「息子の出願は、白石由奈と名乗る受験コンサルタントに依頼していました」

「彼女は難関大学専門の進学アドバイザーだと言い、息子を理想の大学に入れてみせると約束したんです」

「でも、結果はご覧のとおりです」

 私は振込記録、チャット履歴、契約書類をすべてテーブルに並べた。

「彼女は私から五千万円をだまし取り、今は行方をくらませています」

「どうか立件をお願いいたします」


 金額を聞いた瞬間、警察官たちの顔つきが変わった。責任者らしき人物が、重々しくうなずく。

「資料はお預かりします」

「詐欺の疑いがある場合、正式に捜査を進めます」

 蓮はようやく事態を理解し始めたようだった。思わず声を上げる。

「彼女は白石由奈じゃないのか?」

 私は哀れむように彼を見た。

「それは偽名よ」

「本名は、唐沢由奈」


 蓮の顔は、その瞬間、完全に血の気を失った。



 7.誰も幸せにはならなかった

 数日後、唐沢由奈は逮捕された。笑ってしまうほど、彼女は自信過剰だった。

 彼女は私のことを、夫と息子に押さえつけられているだけの、何もできない豪邸の奥様だと思っていたのだろう。五千万円を受け取ると、すぐに高級ブランド品を買いあさり、五つ星ホテルに泊まり、限定バッグや高級レストランをSNSに載せていた。

 警察が彼女を見つけたのは、銀座のホテルだった。


 取り調べの中で、唐沢由奈はすぐに耐えきれなくなり、すべてを話した。捜査が進むにつれ、さらに多くの被害者が見つかった。

 彼女はそもそも進学の専門家などではなかった。いわゆる「港区女子養成サロン」で作り上げられた詐欺師で、裕福な家庭に入り込み、受験への不安、恋愛の匂わせ、上流階級の人脈を餌に金を巻き上げていた。

 被害に遭った人々の多くは、体面を気にして、金を取られても警察に届けなかった。だからこそ、彼女は今まで逃げ延びていたのだ。

 今回は、ついに足元をすくわれた。

 唐沢由奈が起訴されたというニュースが広がると、野次馬や過去の被害者たちが次々と集まった。中でも蓮は、最も激しく怒りをぶつけていた。


 彼は警察署の外で、人垣の向こうへ向かって怒鳴り続けた。

「詐欺師!」


「ざまあみろ!」

「俺の東都大学の夢を壊したんだぞ!」

「一生出てくるな!」

 顔を真っ赤にして罵倒するその姿は、今にも唐沢由奈へ何かを投げつけそうだった。


 けれど怒りを吐き出し終えて家に戻ると、彼はすぐに私の足元へ膝をついた。涙は、驚くほど簡単に流れた。


「母さん、俺が悪かった」

「お願いだから許して」

「最初から母さんの言うとおりにしていればよかった。私立大学にも出願していれば、今こんなことにはならなかった」

「母さん、父さんと離婚しないで」

「全部、あの女が悪いんだ。俺は騙されただけなんだ」


 私は茶碗を手に取り、ゆっくり一口飲んだ。蓮が膝を震わせるまで待ってから、静かに告げる。

「東条蓮」

「あなたのお父さんは、昨日、事故で亡くなったわ」

「今ごろ、もう火葬も済んでいるはずよ」


 蓮は頭を殴られたように固まった。

「何……?」


 けれど彼の顔に浮かんだ悲しみは、ほんの数秒しか続かなかった。すぐに彼は笑い出す。膝に手をついて立ち上がり、先ほどまでの卑屈さは跡形もなく消えていた。

「俺は父さんの唯一の息子だ」

「父さんの財産の半分は、当然俺のものだろ」

「いや、半分じゃ足りない」

「父さんは俺を一番かわいがっていた。きっと遺言で、全部俺に残すって書いているはずだ」

 彼は話すほど興奮していった。まるで、自分が東条家を継ぐ未来をすでに見ているようだった。


「母さんには、一円も渡さない」

 私はその無邪気な顔を見て、少しだけ哀れに思った。やはり、航平の血はよくない。


 十八年かけて手を尽くしたつもりだった。それでも蓮は、まともな人間には育たなかった。

「残念だけど」


 私は茶碗を置き、静かに言った。

「あなたが主張できるのは、航平個人名義のわずかな財産だけよ」

「東条家の会社も、この屋敷も、家族信託も、大半の不動産も、最初から彼のものではない」

「私の婚前財産であり、東条家の資産なの」

 蓮の顔色が一変した。


「そんなはずがない!」

 彼は反射的に、私の隣に座る弁護士を見た。弁護士は眼鏡を押し上げ、落ち着いた声でうなずいた。

「東条夫人のおっしゃるとおりです」


「東条航平様個人の名義財産は非常に限られています。東条ホールディングス、お屋敷、家族信託に関連する資産は、相続財産には含まれません」

 蓮の最後の希望は砕けた。しばらく呆然としていた彼は、突然、前世と同じように私へ飛びかかってきた。


 その目には、あのとき猟犬を放った時と同じ狂気が宿っていた。

 私は準備していた。背後から二人の屈強な警備員が素早く出てきて、蓮を床へ押さえつける。彼の顔はじゅうたんに押しつけられ、それでも口だけは罵り続けた。


「毒婦!」


「俺は実の息子だぞ!」

「どうしてそんなことができるんだ!」

「お前には絶対に報いが来る!」

 私は軽く手を上げた。警備員はすぐに布で彼の口をふさぐ。蓮は意味のないうめき声しか出せなくなり、目だけを裂けるほど見開いていた。


 私はスマートフォンを取り、すぐに通報した。

「自宅で暴力を振るわれました」


「相手は成人で、虚偽通報の記録もあり、強い攻撃性が見られます」

 警察と救急の職員はすぐに到着した。蓮は連れて行かれる最後まで激しく暴れ続けた。


 その後、彼は暴力行為、虚偽通報、精神状態の不安定さを理由に、精神鑑定と保護的な治療を受けることになった。

 これが、母親として私が彼にしてやった最後の手配だった。

 田中澄江はそばで真っ青になって立っていた。肩を縮め、次に自分へ火の粉が飛んでくるのを恐れているのが分かる。


 もちろん、私はこの古い友人を忘れてはいなかった。長年、彼女にはずいぶん「世話」になったのだから。

 私は立ち上がり、彼女を見下ろした。

「田中さん」


「あなたは解雇します」

 田中澄江はまだ、昔の私を相手にしているつもりだったのだろう。すぐに偉そうな顔を取り戻した。


「奥様、それはできません」

「私は奥様よりも長く、この家に仕えているんですよ」

「ええ、解雇だけでは済ませないわ」

 私はバッグから一枚のリストを取り出した。


「これは、あなたがこの家から持ち出した宝飾品、置物、現金、ワインの一覧です」

「防犯カメラの記録もあります」

「三日以内に元の状態で返すか、相当額を弁償してください」

 田中澄江の顔が白くなった。それでも彼女は食い下がる。


「私は何もしていません!」

 私は天井を指さした。

「防犯カメラを増やしてあります」

「死角がないくらいに」

「物置で物を盗んだことも、鼻をほじったことも、私の悪口を言っていたことも、全部きれいに映っています」

 田中澄江は、完全に血の気を失った。

 まるで魂を抜かれた人形のように、その場に立ち尽くしていた。



 8.残ったのは、猫と犬と使い切れないお金

 一か月後、私はすべての後始末を終えた。私を知る人も、知らない人も、私のことを口にするときは同情と哀れみをにじませた。

 かつて私たちは、上流の社交界でも有名な、幸せな三人家族だった。けれど短い間に、夫は事故で亡くなり、息子は保護と治療を受けることになり、受験コンサルタントは詐欺で起訴され、古参の家政婦も清算された。

 残ったのは、私ひとりだけ。

 孤独で、気の毒な未亡人。


 私は、彼らがそう思うことを喜んだ。余計な説明をしなくて済むからだ。

 私は「思い出が多すぎてつらい」と理由をつけ、東条家の古い屋敷をあっさり売却した。そして横浜の海沿いにある、二百平方メートルのペントハウスへ移った。

 そこには東条航平はいない。東条蓮もいない。前世の猟犬を思い出させる影もなかった。

 最初に、私は一匹の野良猫を引き取った。犬については、まだ本能的に怖かった。道で大型犬を見かけるたび、無意識に遠回りしてしまう。


 前世で噛み裂かれた痛みは、もう身体には残っていない。それでも記憶の奥には、まだ深く沈んでいた。

 ある日、八歳になったその猫が、マンション下の庭から、ずぶ濡れの子犬を連れてきた。子犬は泥だらけだったが、尻尾だけは楽しそうに揺れている。

 私は怖くなって、思わず手を出して遮ろうとした。けれど子犬は親しげに近づき、私の掌へそっと頬をこすりつけた。


 私はしばらく固まっていた。やがて、おそるおそるその頭に触れる。

 温かかった。

 やわらかかった。

 思ったほど、怖くなかった。

 だから私は、もう一匹、犬を迎えた。


 私はもう働かなくていい。口座の残高は、十回人生をやり直しても使い切れないほどある。

 毎日、自然に目が覚めるまで眠る。お茶を飲み、日向ぼっこをする猫を眺め、犬と遊び、ときどき海辺を散歩する。気が向けば北海道へ雪を見に行き、沖縄で一か月ほど過ごすこともある。

 人は私を可哀想だと言う。

 今の私は、本当にひとりぼっちだとも言う。

 私は二百平方メートルのペントハウスに寝転がり、窓辺で日向ぼっこをする猫と、じゅうたんの上で腹を見せて転がる犬を眺めた。


 考えてみれば、彼らの言うとおりだ。

 今の私は、確かにひとりだ。

 猫が一匹。

 犬が一匹。

 それから、一生かけても使い切れないお金だけが残った。

 ――完――



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