第七章 名を奪うのは神ではない
沈黙の儀は祈りではなかった。
それは、制度だ。
神殿の奥深く。
普段は閉ざされている回廊に、灯りが入れられていく。
壁に刻まれた文様は神を讃えるものではない。
神凪の名と系譜、そして
過去の沈黙者たちの記録。
「準備は、粛々と進めよ」
神官長の声は低く、揺れがない。
風嶺国において神凪は敬われる存在だ。
だが同時に管理される存在でもある。
「声は力になる。力は制御されなければならない」
それが、この国の論理だった。
リュシアは、回廊の中央を歩く。
足音が、やけに大きく響く。
両脇に立つ神官たちは誰一人として彼女を見ない。
それは、無礼ではない。
“個人”として見ないための作法だ。
「沈黙の儀は、神凪を守る」
何度も聞かされた言葉。
「神との距離が近づきすぎた時、神凪は壊れる」
それも、事実だ。
過去、神の声に応えすぎた神凪は寿命を削り、精神を摩耗させ、最期には自我を失った。
記録は冷酷なほど正確だった。
だからこそ、奪うのは神ではない
リュシアは心の中でそう繰り返す。
神は、奪わない。
沈黙を命じるのは常に人だった。
儀式の間。
円形の床に、静かな紋が描かれている。
そこに立つと空気が変わった。
声が、遠くなる。
まだ失われてはいない。
けれど「準備が始まっている」感覚。
「神凪リュシア」
神官長が、正式名で呼ぶ。
「沈黙の儀に臨む覚悟はあるか」
リュシアは、顔を上げる。
「はい」
迷いはない。
それは諦めではなかった。
自分で選んだ、境界の立ち位置だ。
「沈黙の間、神との直接対話は禁止される」
「声を使わず、意を伝えることも禁じる」
それはつまり、完全な遮断。
「風神ヴァル・シェアリスへの接触も例外ではない」
その名が出た瞬間、空気が微かに揺れた。
誰も気づかないほどの、ほんの一瞬。
リュシアは、目を伏せない。
「理解しています」
理解している。
だからこそ、受け入れる。
神官長は、しばし彼女を見つめ、ゆっくりと頷いた。
「では、儀は――」
その瞬間。
風が、回廊を抜けた。
強くはない。荒れもしない。
ただ、確かに“通った”。
灯りが揺れ、衣が鳴る。
神官たちが、ざわめく。
「……風だ」
誰かが呟く。
神官長は顔を強張らせるが制止の声を上げない。
風は、リュシアの前で止まった。
触れない。抱かない。
ただ、そこにある。
――見ている。
リュシアは胸の奥で息を吸う。
声に出してはいけない。
名を呼んではいけない。
それでも。
「……大丈夫です」
音にならない想いを彼女は風に預けた。
風は、応えない。
だが、少しだけ揺れた。
それだけで十分だった。
神官長が、厳かに宣言する。
「沈黙の儀、三日後に執り行う」
決定だ。
回廊の灯りがひとつ消える。
名を奪うのは神ではない。
だが、神に最も近い者から声を遠ざけるのも、また人だった。




