第六章 声はまだ風に触れている
沈黙の儀まで残された日は多くなかった。
だからといって何かが劇的に変わるわけではない。
リュシアはこれまで通り神殿に通い、これまで通り風を感じ、これまで通り祈らない祈りを続けていた。
ただひとつ違うのは「時間」が意識にのぼるようになったことだ。
神殿の裏庭。
石畳と低木に囲まれた神凪以外ほとんど立ち入らない場所。
風はそこを好んだ。
「今日は少し強いですね」
言葉にしたのは、癖だった。
応えを期待しているわけではない。
だが、風は応える。
葉が揺れ、外套の裾が引かれる。
ここにいる。
それだけで十分だった。
「沈黙の儀が決まりました」
今日は、告げるべきことがあった。
風が、一瞬だけ止まる。
驚きではない。だが、受け止めた気配。
「怖くはありません」
それは、本心だった。
神凪として生きる以上、声を封じられる日が来ることは知っていた。
問題はそれが「今」であることだけだ。
「あなたは、何も悪くない」
風が、微かに強まる。
否定。あるいは、怒り。
「でも、何も言わないでください」
リュシアは、目を閉じないまま続ける。
「言葉をもらってしまうと、きっと、忘れられなくなる」
風は、答えない。
けれど、彼が“聞いている”ことは分かる。
「沈黙になったら私は、ただ風を感じるだけになります」
それは切り捨てではない。
関係を保つための形だ。
「それでも……」
言いかけて、止める。
言葉にすれば、それは願いになる。
願いは、神を縛る。
リュシアは、それをしたくなかった。
「……いえ、何でもありません」
そのとき、風が、そっと頬を撫でた。
触れ方が優しすぎた。
「ずるいですね」
思わず、笑ってしまう。
神は、言葉を使わない。
だからこそ、こういう触れ方を選ぶ。
「こんなふうにされたら、忘れられるわけがない」
風は、弱まる。
引くように。距離を取るように。
それも、優しさだ。
リュシアは、胸の奥で何かが締めつけられるのを感じながら、それでも笑顔を崩さなかった。
沈黙の儀は、声を奪う。
けれど、想いまで奪うわけではない。
それを彼女は信じていた。
そして同時に、それがどれほど残酷な信頼かも、分かっていた。
その日の夕暮れ。
風嶺国の空は珍しく雲が少なかった。
高く、遠く、澄んでいる。
風は、いつもより遠くへ吹いていく。
まるで、声を失う前に何かを運び去るかのように。




