第五章 沈黙は罪ではない
沈黙の儀についてリュシアはずっと前から知っていた。
知らされていなかったわけではない。
ただ、「まだその時ではない」と先送りにされていただけだった。
神殿の奥、会議の間。
厚い扉の向こうで神官たちの声が低く交わされている。
「神凪様、こちらへ」
呼ばれたのは、儀礼の名ではない。
役割としての呼称だった。
リュシアは一人、席につく。
外套を脱ぎ、背筋を伸ばす。
この場では感情は余分だ。
「最近の勤めについてだが」
年長の神官が書板を手に言葉を選ぶ。
「神殿への滞在時間が長い」
「祈りの形式が簡略化されている」
「神との距離が、近すぎる」
最後の言葉は、空気を変えた。
リュシアは、俯かない。
だが、視線も上げない。
「神凪様は、規範を破ってはいない。しかし国は“安定”を必要とする」
安定。それは、予測可能であること。
神がどう応えるかではなく、
どう応え“させるか”。
「沈黙の儀を検討したい」
その言葉に、誰も異を唱えない。
決定ではない。だが、結論に近い。
リュシアは、静かに息を吸った。
「それは私のためですか」
問いは、責めではなかった。
確認でもない。
神官は少しだけ困ったように眉を寄せる。
「もちろんだ。神凪様の身を守るため――」
「国のため、ですね」
遮る声は、柔らかかった。
否定ではない。理解だ。
沈黙の儀は罰ではない。
そう教えられてきた。
神凪の声を封じ、神との距離を保ち、心を“透明”にするための儀式。
「感情が深まれば、神凪は壊れる」
「神が応えすぎれば、世界が歪む」
正しい理屈だ。
「準備の期間は?」
「月の巡り、二つ分」
十分な時間。けれど、長くはない。
会議は、それで終わった。
リュシアは礼をし、立ち上がる。
その背中を、誰も引き留めない。
神殿を出ると夕方の風が頬を撫でた。
今日の風は、強くない。
ただ、一定だ。
風神が、近くにいる。
それは確信ではない。
癖のような感覚だった。
「……知ってますよね」
声に出さず心の中だけで呟く。
応えはない。
けれど、風が一瞬だけ、留まる。
神に告げる必要はない。
彼は、もう理解しているはずだ。
沈黙の儀が行われれば彼女は声を失う。
名を呼ぶことも言葉を交わすこともできなくなる。
それでも、怖くはなかった。
覚悟していなかったわけでもない。
神凪として生きるなら、いつかは通る道だ。
ただ、少しだけ。
少しだけ「間に合わなかった」という感覚が胸に残った。
神殿の柱の影で風が揺れる。
姿は見えない。けれど、確かにそこにいる。
「……大丈夫です」
声に出さずに、そう思う。
あなたが何もできないことを私は責めない。
それが、神と人の境界なのだから。
風は、答えない。
けれど、その夜
街を渡る風は、いつもより静かだった。
嵐を呼ぶことも、逃げることもせず。
ただ、沈黙の前の時間を大切に包むように。




