第四章 風は留まることを知らない
風神にとって神殿は居場所ではない。
石は重く、天井は低く、祈りは形を持ちすぎている。
本来、風は境界を持たないものだ。
それでもヴァル・シェアリスはそこにいた。
理由は一つしかない。
名を呼ばれないまま、なお、そこに立ち続ける人間がいるからだ。
リュシアが去った後の祭壇は静まり返っていた。風は梁を抜け、壁を撫で、扉の隙間を通る。
逃げようと思えば、いつでも逃げられる。
縛られてはいない。
それが、かえって厄介だった。
「……困ったものだな」
声は、誰に向けたものでもない。
独り言ですらない。
神は、願いに応える存在だ。
呼ばれ、名を与えられ、役割を果たす。
それが秩序であり、契約だった。
だが、彼女は違う。
呼ばない。願わない。縛らない。
それでいて神を“いないもの”として扱わない。
その矛盾が、ヴァルの足を止めていた。
神殿の外へ抜けると、夕暮れの街が広がる。
風嶺国の街並みは、段丘に沿って築かれている。
高低差のある路地。
風を受けるために張り出した屋根。
洗濯物が、どの家でも風向きを読んで干されている。
風と共に生きる国。
それでも、この国は神を欲しがる。
「皮肉だな」
風を知っているからこそ風を支配したくなる。
神殿の奥から人の声がした。
「神凪様の勤めについて、再考を」
神官たちだ。
ヴァルは姿を現さないまま声だけを聞く。
「近頃、神凪様は儀礼を簡略化しすぎています」
「名を呼ばず、願いも告げないなど……あれでは神の加護が得られているのか疑わしい」
「沈黙の儀を」
その言葉に風が揺れた。
沈黙の儀。
神凪の声を封じ、感情と距離を断ち、神との関わりを“安全な形”に戻す儀式。
神を守るため。国を守るため。
そして、神凪を守るため。
名目は、いつも正しい。
「……守る、か」
ヴァルは低く息を吐く。
守るという言葉ほど、奪うことを正当化するものはない。
風は神殿の中へ戻る。
祭壇の前。彼女が立っていた場所。
まだ、微かに温度が残っている。
人は、気づかない。
だが神は、気づいてしまう。
呼ばれていないのに、ここに来てしまう理由を。
「俺は……」
言葉にしようとして、やめた。
名を呼ばれていない神が、名を呼ぶ資格はない。
その時、風が変わった。
外から、別の流れが入り込む。
軽い足音。布が擦れる音。
リュシアだった。
夜の祈りの時間ではない。
それでも彼女は、神殿に入ってくる。
神官はいない。灯りも最小限だ。
彼女は、祭壇の前に立ち、深く息を吸う。
「……まだ、いますか」
それは呼びかけではない。確認でもない。
“共有”だった。
風は彼女の前に留まる。
ほんの一瞬、彼女の呼吸と同じリズムで。
「……よかった」
その言葉に、理由はなかった。
安心とも違う。期待とも違う。
ただ、そこにある事実を受け取っただけ。
ヴァルは初めて理解する。
この神凪は、神を利用しない。
だからこそ、神の側が距離を誤れば壊れる。
風は、彼女の髪を揺らすだけで、
言葉を与えない。
それでいい。今は、まだ。
沈黙の儀は避けられないかもしれない。
けれど、その前に、彼女ともう少しだけ、この“名のない時間”を共有したいと、
風神は、確かに思っていた。




